鈍行
▼独りで良い(独りは嫌)
「……喜八郎、どうしたんだ?」
「んー……んーん、何でも」
ぼんやりと雨垂れを眺めている喜八郎に滝夜叉丸は思わず声を掛ける。元よりぼうっとしたことが多い彼女ではあるが、このように心ここにあらず、といった風なのは珍しい。しかし、滝夜叉丸の言葉にも反応が鈍いところを見ると、自分でもよく分かっていないのか、隠しておきたいのかのどちらかなのだろう。滝夜叉丸は長い付き合いでそう判断し、彼女のことは放っておくことにした。
そうして、自分もまた外を湿らし続ける雨を見遣る。基本的に外で活動する体育委員会もこの雨では活動できない。それは同時に小平太とも会えないということで、滝夜叉丸は知らず知らずのうちに溜め息を吐いた。――恋心を自覚したのは早かったが、その後は苦悶の毎日だ。男として過ごしている以上は想いを伝えることはできないし、例え伝えたとしても振られてしまうというのが予想できる。勿論、忍術学園の中には男同士で念を交わす人間も居るわけだが、それも性癖の問題で、小平太は明らかに健全な部類に分けられた。男を相手にできないわけではないのだろうが、好き好んで男を選ぶわけではない。その上に可愛がっている後輩に迫られたとあっては、彼も始末に困るだろう。
そこまで考えてから、滝夜叉丸は自嘲する。――小平太が始末に困るのではない。滝夜叉丸の方こそ傷付くのが怖いのだ。自分が女であることは誰にも明かしてはならない秘密。人の口に戸は立てられないし、どこで漏れるかは分からない。その点で言えば、隠れくの一の会合に参加しない見知らぬ上級生たちの選択は正しいのだろう。助けが得られない代わりに、自分の秘密が漏れることを極力防げるのだから。
隠れくの一たちは例え自分の正体が誰かに知れていたとしても、他の人間に関しては絶対に漏らさないという暗黙の了解がある。この禁を破った者がもし居れば、彼女は忍術学園に居られなくなるだろう。誰が報復する、というわけではない。ただ、全ての隠れくの一からの信用を失い、何かがあった時も彼女たちからの助けは期待できなくなる。場合によっては、隠れくの一たちの反応を見た他の忍たまたちからすらも信用を失い、孤立無援の状態になる可能性すらあるのだ。忍にとって秘密厳守は絶対の掟。それゆえにその禁を破った者に関しては恐ろしい結末が待っている。
それゆえに自分の性別を小平太に明かすことはできないし、しようとも思わない。同時にそれは彼女の恋が始まることすら許されないことを示しており、滝夜叉丸は余りの遣る瀬無さに皮肉な笑みを浮かべた。終わりの見えぬ苦しみは、まるで止むことのない目の前の雨のよう。
「…………止まないな」
「うん……」
小さく呟いた滝夜叉丸の言葉に喜八郎は気のない様子で頷いた。じとじとと湿っぽい空気が部屋に充満し、滝夜叉丸は小さく溜め息を吐く。こういう時にこそ、あの明るい笑みを見たかった。それでも委員会がないことにはどうにもならない。――小平太と滝夜叉丸は委員会の先輩と後輩という関係でしかないのだから。
「ひーまーっ!」
「…………遊びにでも行ってこい」
「だって、雨の中遊んだら伊作に怒られるんだもん!」
「室内で出来る遊びを考えろ」
「だって、そんなのつまんないっ! 身体を動かしたいんだよー!」
一方、四年ろ組の長屋ではこのような会話が先程から繰り返されていた。読書をしている中在家 長次に構え! と言わんばかりに彼はバタバタと手足を遊ばせる。何度も繰り返されるこの会話に長次は苛々とした様子を見せることはなく、一貫して同じ調子で小平太を諭す。それに小平太は唇を尖らせて膨れるのだが、流石に自分でも同じことの繰り返しをしていることに飽いたのか、ぐったりと手足を投げだした後に「つまんなーいっ!」と叫んで終わらせた。仕方ないので何か考え事でもするか、と天井を向いた小平太だが、そこでふと思い出したのは自分より二級下の後輩のことだった。
平 滝夜叉丸は一年の時から彼と同じ体育委員会に所属する少年で、二年になった今も小平太と同じく体育委員のままである。初め滝夜叉丸を見た時にはこんなに小さくて華奢な子がやっていけるのかと不安になったものだったが、その心配は無用の長物で、滝夜叉丸は小平太が知る体育委員の誰よりもしぶとかった。
美しい女子のような面差しをしているのに、その中に光る瞳はどこまでも強い。しかも下級生ながら口が達者で、場合によっては小平太すら言い負かされるほどだ。その上、自分にはどこまでも自信があるのか、口を開けば自分の自慢話ばかり。流石に小平太や上級生の前では随分鳴りを潜めているのだが、以前通りがかりに滝夜叉丸の長口上を聞いた時にはよくぞあそこまで口が回るものだと感心したほどである。
しかし、口だけかと言えば決してそうではなく、教科は勿論、実技とて決して人に劣らぬ様子を見せている。体育委員会の活動でもそれは変わらず、絶対に自分から「無理」だとか「できない」という言葉は口にしない。例えそれが自分の分を超えたものであろうとも、滝夜叉丸は決してそれを他人に悟らせようとはしないし、自分に出来る限りの範囲でそれを成し遂げようとする。その根性が体育委員の上級生には気に入られ、滝夜叉丸も今では体育委員会の可愛い後輩としてあちこちから可愛がられている。
滝夜叉丸はその顔立ちから様々な方面において念此になりたいと思う輩は多い。きりりとした凛々しい顔立ちでありながらも、少しふっくらとした柔らかい顔立ちをしているために懸想されやすいのだ。幸か不幸か、滝夜叉丸の自慢癖や高慢な物言いで勝手に思い破れる輩も多いのだが、性格には目を瞑ろう、という有難迷惑な輩も存在するにはする。そういう輩も滝夜叉丸自身が一年の頃に顔面にこぶしをめり込ませたという出来事によって多少は減ったが、それでもしぶとく狙いを定めている輩も存在するところが滝夜叉丸の凄いところだ。気高く凛と咲くその姿に魅せられる人間は多いということなのだろう。
確かに外見からしてみれば、魅力的なことは間違いない。あれだけの運動量をこなしておきながら、滝夜叉丸は一向に大きくなることがない。それは体質的なものなのだろうが、筋肉質というよりはふくふくとした子ども、という印象の方が強いのだ。装束から伸びる手足も首筋も小平太と比べれば余りにも細い。日焼けしにくいのか、それとも己の美しさを誇るためか、肌も一向に黒く焼けることはなく、頭巾の隙間から伸びる艶やかな黒髪を逆に目立たせるように手で払う姿はよく見られる。その仕草は滝夜叉丸によく似合っていて、不思議と笑って済ませられるような光景だった。
しかし、そのなよやかな雰囲気とは反対に、実際の滝夜叉丸はとんでもない豪傑であることも確かだ。美しさを過信するが故に泥まみれ、汗まみれになることを毛嫌いするかと思ったが、自分が誰よりも先んずるためにはそれを厭うことはない。それどころか、誰よりも先んずるためならば、場合によっては怪我だろうが泥だろうが構わず突き進むきらいがある。誰かの上に立って笑うための努力を惜しまぬ滝夜叉丸に小平太が呆れることもしばしばだ。しかし、滝夜叉丸が確かに積み上げていくものがその自信に繋がっていることは確かで、その意味において決して滝夜叉丸は口だけの存在ではないのだった。
(……確かに可愛いもんなあ)
狙われるという点においては滝夜叉丸よりもその同室の綾部 喜八郎の方が多いのだが、小平太は喜八郎よりも滝夜叉丸の方が可愛いと思った。それは委員会で直接の後輩ということも勿論あるのだろうが、それ以上に常に顔を上げて背筋を伸ばしている、生命力に溢れた様子がより好ましく映ったのだ。口を開けば自慢と生意気な物言いばかりの下級生なのだが、自分がいつも拾い上げられない細かな部分を的確に拾い上げて助けてくれる。時折一緒に塹壕堀をする喜八郎によれば、滝夜叉丸は世話焼きなのだそうだ。普段の態度からでは全く分からないが、確かに何か困っている生徒が居れば自慢話と共に割り入っている気がする。大抵は自慢話に業を煮やした人間に敬遠されているが、滝夜叉丸に近しい人間であればその魅力は理解できるのだ。本人は理解してもらおうという気がない上、自慢話自体が大好きなために決して改めようとはしないけれども、もし自慢癖を直すことができるならば。
(……でも、謙虚な滝は滝じゃないなあ)
そこまで考えて小平太は寝返りを打って、肘を立てる。その上に頭を乗せて、うーんと唸った。滝夜叉丸はあの性格でこそ滝夜叉丸なのであって、他の性格になったら多分その魅力は半減されるだろう。例えば、伊作のように穏やかな性格の滝夜叉丸を考えてみて、小平太は更にうーんと唸った。
(……こういうこと考えるのもアレだけど……ちょっと気持ち悪い)
滝夜叉丸が手当てをするならば、怪我のない自分がどれだけ優秀かという話と相手がどれだけ不注意だったかという話を織り交ぜながら、最終的に滝夜叉丸の自慢話に収束するというある意味高度な技術によって行われる。その際も手付きこそ荒っぽいが、しっかりと丁寧に行われた手当ては適切で不安がない。新入生の三之助は滝夜叉丸の手当てをうんざりとしながら受けていたが、小平太自身は滝夜叉丸に手当てをされるのは嫌いではなかった。――何故ならば彼は知っているから。滝夜叉丸が自慢話をしながらも、本当は誰よりも心配しているということを。損な性格だと小平太などは思うけれど、滝夜叉丸は別段気にしていないようだった。
(……でも、それでこそ滝だよなあ)
そんなことを考えながら小平太は次第にまどろみ始める。じめじめとして過ごしにくいのだが、不思議と眠気は覚めることがない。次第に重くなってくる瞼まぶたを逆らわずに下ろして、小平太は静かに眠りの国へと旅立って行った。
『――お前と何か誰が組むか!』
『自惚れ屋の滝夜叉丸と組むと大変なんだよ!』
罵声と言うには余りに幼いが、その分残酷な声が響いた。それに小平太がちらりと意識を向けると、喜八郎を従えた滝夜叉丸が同学年の生徒に荒い言葉を投げつけられているのが見える。出て行くべきか、と小平太が考えている間に、滝夜叉丸本人が強気に笑った。
『馬鹿者共め、後で後悔するのはお前らだぞ。この学年一優秀で、教科の成績も実技の成績も誰にも引けを取らぬこの私を選ばなかったことで、どれだけの損失を被ることか! もっとも、私はお前らと違って優秀だから、相手が誰であろうと関係はない。精々私に負けて悔しがるが良いさ』
高笑いしながらの台詞は負け惜しみ染みているが、言った本人の表情は全く明るい。それどころか自分から相手を手で追い払って、ふんと鼻を鳴らす始末。その傍らに居た喜八郎などはあっかんべをして相手を追い払っていた。どこまでも他者と相容れぬ二人だな、と思いながら小平太がその様子を見ていると、先程まであっかんべをしていた喜八郎がくるりと滝夜叉丸へと振り返る。
『二人だけでも良いかなあ?』
『実力的には申し分ないだろうが、授業的にはまずいだろうな』
『どうしようか?』
『喜八郎、お前は入れてもらえるところがあるなら、入れてもらえ。私は喜八郎と違ってひとりでも全く平気だからな』
喜八郎の言葉に滝夜叉丸は常と同じく自信満々に髪の毛を払った。それに喜八郎がぷう、と子どもっぽく顔を膨らませてむくれる。
『私は滝と一緒が良い』
『それならば、後ひとり我々と組める幸運な輩を探さねば。喜八郎、誰が良い? 好きに選べ』
『えー?』
何とも物凄い言い草である。小平太は余りにもらしい滝夜叉丸の言葉に苦笑しながら、その場を離れた。けれど、その耳に残ったのは幼い声音が吐き出した言葉。
『私はひとりでも全く平気だからな』
――そうかな、と小平太は思う。小平太は誰かと一緒に居る方が好きだ。と言うよりも、常にだれかと一緒に居たい性格をしている。ひとりで遊ぶよりも皆で遊ぶ方がずっと楽しいし、ひとりで居るよりも誰かと居た方がずっと色んなことができる。それゆえに小平太はひとりは嫌いだ。けれども、滝夜叉丸はそうでないらしい。
(何故だろうか?)
性格の違いと言ってしまえばそれまでだが、どちらかと言うと世話焼きの滝夜叉丸がひとりを好むとは思えない。では強がりなのだろうか、と考えて、それも違うと小平太は結論付けた。――彼が見つけられた一番近い感覚は、ひとりでも大丈夫なことを知っている、ということ。要するに滝夜叉丸はひとりでも大丈夫な過ごし方を知っていて、ひとりになったらそういう過ごし方をするのだろう。けれど、それはとても淋しいことのように感じて、小平太は何だか哀しくなったのだ。
(――ああ、ひとりになるなら私が傍に行くのに)
小平太は何故か滝夜叉丸が悲しむ姿を見たくなかった。他の誰だって気には掛かるけれど、滝夜叉丸はどうしてか特に気にかかるのだ。自慢癖があって、実際に優秀で、細かいところによく気付く。実際には放っておいても滝夜叉丸は上手くやっていくと知っている。けれど、小平太は不思議と滝夜叉丸と上手くやっていきたいと思うのだ。――それはもしかしたら、滝夜叉丸が時折彼に向ける笑顔の所為なのかもしれない。
委員会の時には滝夜叉丸もよく常には見せない表情を見せる。それは小平太が無茶をしたり、三之助が突然姿を消した時に見せる険しい顔だったり、逆に行き過ぎた小平太を見る呆れた顔だったりと様々だ。けれど、その中でも小平太のお気に入りは呆れた後に見せる、仕方がないという風に全てを受け入れる笑みだった。その他に褒めた時や頭を撫でた時に見せるはにかんだ笑みもお気に入りのひとつである。それが見たくて無意味に滝夜叉丸の頭を撫でたこともあるくらいで、小平太は我ながらおかしいことだと苦笑した。
(結局、俺はただあの子の笑みが見たいだけなのかもしれない)
小平太はその結論に納得する。強がりで、実際に強くて、でも時折とても可愛い後輩。その子が微笑んでくれるなら、きっと小平太は何だってするだろう。その感情が何を示しているのか、小平太は知っていた。昔々大昔、まだ彼が忍術学園に入る前に近所のお姉さんに感じた気持ちと一緒だ。その人は結局近くに住む男性と所帯を持ってしまったし、年上の女性への憧れの気持ちが強かったこともあるのだろうが、確かにあれは恋だった。そうして今、彼はまた同じ思いを後輩に抱いている。
(滝夜叉丸にそういう嗜好はないのに)
むしろ、毛嫌いしている様子だった。喜八郎に近付く男も自分に近付く男も、全てを敵視して排除する。それに助力したのは小平太も一緒だが、自分も排除される対象になるというのは悲しかった。
(だから、この気持ちはしまっておかなきゃ。滝に嫌われたくないし、折角慕ってくれているのに、その先輩がこんな劣情を持っていると知ったら、きっと滝はひどく悲しくなるだろう。――いや、俺が軽蔑されたくないだけなんだろうけど)
自覚してすぐ失恋とは哀しすぎる結末だが、小平太はその恋心をしまっておく決意を固めた。悲しいけれど、これからの数年間をずっと滝夜叉丸に警戒されて過ごすよりは、彼の良き先輩として一緒に楽しい思い出を作る方を取ったのだ。胸の痛みに少しだけ涙が零れたけれど、小平太はこれで良いとその気持ちを静かに心の奥底に沈めた。
「――へいた、小平太、起きろ」
「んー……? あれ、長次? ああ、そっか、私寝てた?」
「ああ。もうすぐ夕飯の時間だ。起きて顔を洗ってこい」
長次に揺さぶられ起きた小平太は、ごしごしと目をこする。その際にぬるりとした感覚が手に当たり、そこで初めて小平太は自分が眠りながら泣いていたのだと気付いた。それゆえに長次が顔を洗えと言ってくれたことを知り、小平太はへにゃりと笑みを作る。
「長次、ありがと」
「この手ぬぐいを使え」
「わ、悪いなあ! じゃ、ちょっと行ってくる! あ、食堂に先行ってて良いよ! 後ですぐ追いつくから!」
小平太は長次の差し出した手拭いを受け取り、それでまず顔を擦った。部屋を飛び出した後に顔だけを戻して、小平太は長次に笑いながらそう言い残した。それに長次が頷くのを見やると、彼は同じく笑顔で頷いて再び手洗い場へと走って行く。その表情は笑顔だったが、小平太の心の中が本当に落ち着くまでにはもう少し時間が必要だった。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『野草を踏み躙って生きろ』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒