鈍行
▼野草を踏み躙って生きろ
「滝の所にも後輩、入って来たって?」
「ああ、お蔭で七松先輩が張り切ってしまってな。去年の悪夢が再び、だ」
二年に無事進級し、更に新入生を迎えた滝夜叉丸たちは自室で委員会の話をしていた。今までは自分たちが最下級生だったのだが、新入生が入ると同時に〈先輩〉という立場となり、二人の間にも普段より少し浮きたった空気が流れている。
「作法の一年は確か……は組の浦風 藤内だったな? あの大人しい感じの、毒虫好きの孫兵に泣かされていた」
「そう。因みに今も毒虫は怖いみたい。孫兵と仲良くやりたいのに、ってしょんぼりしてた。確か、そっちはろ組の次屋 三之助だったよね?」
「ああ。既に散々手を焼かされている」
喜八郎の言葉に滝夜叉丸は入学式の後にあった隠れくの一の会合で、隣に立つ幼い少女の首に巻きついていた蛇の姿に半泣きだった少女の顔を思い出す。初めて会った時は獣虫遁の術を習っていた滝夜叉丸たちですら驚いたほどだ。それが全く忍術とは関係のない生活をしていた普通の少女が見たら、確かに泣きたくなるだろう。しかし、藤内はその会合でも半泣きの状態ではあったが、決して孫兵にひどいことを言ったり、泣きだしたりはしなかったので上級生からは一目置かれている。
対する次屋 三之助は無自覚な方向音痴という厄介な性質の持ち主だった。体育委員会で恒例の「新入生歓迎裏山〜裏々山詳細マラソン」(こう名付けたのは小平太である)では開始直後に先輩の背中を追わずに獣道に入ろうとし、慌てて殿を守っていた滝夜叉丸が引き留めたのだが、それはまだまだ序の口で、最終的にはどうしてそんな道なき道に入っていこうとするのか分からないというほど間違った方向へと進もうとするので縄を引っ掛けたほどだ。それにはさすがの小平太も苦笑いをするほどで、彼女は改めてこの一年生を間違った意味で大物であると認識したのである。
思い出して嫌な気分になった滝夜叉丸は思いきり顔をしかめ、小さく溜め息を吐く。本来ならば走り慣れた道をあんなに苦労して走ることになったのは、明らかに新入生の迷い癖が原因だ。
(どうせ迷うならば不破 雷蔵先輩のようなものであれば可愛いものを)
滝夜叉丸は迷い癖のあるひとつ上の先輩を思い出して溜め息を吐いた。無事に三年生へと進級した彼女は今日も同じ組の鉢屋 三郎に仕掛けられた壮大な悪戯で被害をこうむっていた。怒りに顔を赤らめて彼の人物を追う様は年上でありながら可愛らしく、滝夜叉丸は秘かに笑みを零したものだ。あれだけの可愛げが自分の後輩にもあれば、と思いながらも、滝夜叉丸は腰を上げる。
「もう行くの?」
「ああ、あの生意気な一年ボーズを七松先輩がいたくお気に召してな。放っておいてもよいのだが、三之助は私のように優秀ではないからな、七松先輩のペースにはついていけまいよ。あの方はあの方で後ろを振り返るのが遅いし。その僅かな時間の差で三之助は道に迷う。私が居なければ手の施しようもない事態になってしまう」
「滝は優しいからなあ」
「自分の役目を果たすだけだ。――喜八郎は今日は作法委員会はないんだったな? なら、余り変な場所に行くなよ。二年になってから上が居なくなって浮かれてる輩が居るからな」
喜八郎は滝夜叉丸の言葉に軽く頷いた。そういう輩から既に何度か接触を試みられているが、幸いにも周囲の協力を得て撃退は済んでいる。更に穴掘りをずっと続けている所為か随分腕力がついて、多少の輩なら自分で撃退も可能になった。それでも過保護なくらいに自分を心配する滝夜叉丸に少しだけ複雑な気持ちを感じるのも事実だが、それ以上に自分を気にかけてくれることに喜八郎は喜びを感じていた。
しかし、彼女の世界が次第に広がっていくのを感じ、少しだけ淋しいのも事実。昔は滝夜叉丸の世界には喜八郎と数人しか居なかった。けれども、今では彼女だけでなく忍術学園の先輩や後輩、更に先生や関係者など様々な人物が彼女の周りに存在する。それだけならまだ良かったが、滝夜叉丸はその中で少しずつ喜八郎を置いて変わっていってしまうのだ。自分が変化を嫌う性格だと知っている喜八郎は、その変化が自分と滝夜叉丸を引き離していく気がしてひどく哀しかった。
「……仕方ないとは分かってるけどね」
滝夜叉丸の去った部屋の中で喜八郎は小さく呟く。部屋に居てもつまらない上、変な輩が訪れることが多いので彼女も外出を決めた。お気に入りの鋤と苦無を持って、喜八郎は学園の庭へと出て行く。今日はどこで穴を掘ろうかと考え、火薬倉庫の近くにしようと決める。先日出会った先輩が良い人だったので、何となくそこを選んだのだ。――喜八郎は彼女自身にもまた緩やかな変化が訪れていることに気付いていなかった。
「……それでどうして、お前は七松先輩の後をついて行かずに別の方向へと行こうとするんだ、三之助!」
「失礼な! 俺が別の方向に行ってるんじゃなくて、七松先輩が別の方向へと行ってるんですよ!」
「馬鹿タレ! それを別の方向に行っていると言うのだろうが! 大体、新入生のお前より七松先輩の方が裏山、裏々山、裏々々山の地理には詳しいのだから、黙ってついて行けば良いのだ! 分かったらほら、道に戻れ! ――って、何で真逆に向かってるんだ、お前は! 逆だ逆! 左から来てどうして右に行こうとする!」
殿を守っていた滝夜叉丸は不思議と道なき道を選ぼうとする後輩の襟首を掴んで怒鳴り付けた。それに三之助が嫌そうな顔で屁理屈を述べるが、滝夜叉丸はそれを上回る勢いで彼の言葉を切り捨てた。渋々戻ろうとする三之助は、しかしながら全く真逆の方向へと進んでいく。これで本当にこいつは忍者になれるのだろうか、などと思いながら、滝夜叉丸は再び彼の襟首を掴んで正しい方向へと引き戻した。
彼の身長はそこそこに高く、自分の目線近くに頭がある。さすがにまだ滝夜叉丸の方が大きいが、彼女の身長をこの少年が越えるのもそう遠い日ではないと予想される。それに自分の身体的な不利を感じて、滝夜叉丸はひっそりと溜め息を吐いた。理不尽な怒りだと分かっているが、それでも悔しい気持ちは抑えられない。この身が男子であったならばどれだけ良かったろうと思いながら、滝夜叉丸は後輩が道を外れて行かないように最終的には彼の腕を取って小平太を追うべく走り出した。
「おっそいぞ、滝夜叉丸!」
「それは一度でも後ろを振り返ってから言ってくださいね、七松先輩」
疲れ果てて裏々山の頂上に着いた滝夜叉丸と三之助を待っていたのは、文字通り元気いっぱいの小平太だ。彼は他の幹部連が苦笑いで休んでいる中、ひとり元気にうろちょろ動き回っていた。下級生二人を待っていた他の委員たちは滝夜叉丸のことを何度か振り返って声をかけてくれた人ばかりだが、小平太だけは全く後ろを振り返らずにどこまでもひとり先に突っ走っていったのだ。一年生の面倒をみるのが上級生の中で一番下の滝夜叉丸だというのは仕方がないが、それでも少しぐらいこちらを気遣ってくれても良いのではないかという気持ちが滝夜叉丸の言葉に思わず知らず含まれていた。
それを聞いた小平太はじろりと自分を見る滝夜叉丸に苦笑を向けた。普段は多少の活動ではくたびれた様子など見せない滝夜叉丸であるが、今は装束のあちこちに草や泥を付けて、明らかに疲れ果てた様子である。その傍らで腕を掴まれたままの三之助も同じような様相で、二人がどれだけ苦労したかが見受けられる。滝夜叉丸の腕を外したがる三之助に厳しく「ひとりでどこかに行かないこと」を言い含めると、滝夜叉丸は小平太へと歩み寄った。
「あの厄介な性癖はどうにかなりませんか? 何故、目の前に先輩方の背中がある状態で別の道へと行こうとするのか理解できません」
「そこまでひどいかあ……。まあ、でも俺は滝が三之助を見ていてくれるから安心して走れるんだから、頑張ってくれよな、〈先輩〉!」
滝夜叉丸は小平太の言葉に驚きで目を見開く。何度か目を瞬かせた後、彼女は頬に熱が集まるのを感じて慌てて顔を俯けた。小平太は〈先輩〉という言葉に照れたのかと思ったが、滝夜叉丸の言葉にそれが見当違いだったことを知る。
「滝という呼び名をどこで?」
「へ? え、ああ、えーとねえ……喜八郎がそう言ってたんだよ。塹壕を一緒に掘る時、よく滝の話をするから。それでうつっちゃったんだな。――嫌だった? なら、やめるけど」
「いえ、別に。ただ、喜八郎以外はその呼び名を使わないので、驚いただけです」
滝というのは滝夜叉丸の本名で、喜八郎も二人で居る時くらいしか使わない呼び名だ。それゆえに小平太が自分の呼び名を知っていたことに驚き、また心の隅に隠している淡い恋心が疼いた。更に〈滝夜叉丸〉という名からでも滝という呼び名は出てくるので別段気にすることはないと分かってはいるのだが、自分の本名を呼ばれた気がして滝夜叉丸はひどく落ち着かない気持ちになった。そんな滝夜叉丸を不思議そうに見下ろす小平太であるが、彼女の常にない様子に再び心臓がドキリと音を立てる。それに自分でも動揺し、訳も分からず彼は周囲を見回した。
それが合図となったように、休んでいた体育委員長が再び腰を上げた。「これから学園に戻るぞー」という声と共に彼らはぞろぞろと再び走り出す。滝夜叉丸もそれに顔を上げて、傍らに立つ小平太へと視線を向ける。その視線に小平太は図らずも顔を赤くし、それをごまかすように大声を上げて走り出した。
「俺は先に行くぞー! いけいけどんどーん!」
「あ、ちょっと、七松先輩!? 偶には三之助を……って、ああ、もう背中があんな遠くへ。仕方無い、私が……って、三之助、どこだ!?」
図らずも置いて行かれる形となった滝夜叉丸は、仕方なしに後を追って走り出す。しかし、その後に後輩の姿が視界にないことに気付いて慌てて周囲を見渡した。彼は既に別の道へと入り込んでいて、他の委員たちとは全く別の方向を目指していた。それに滝夜叉丸は奇声を上げてから慌てて追い付こうとし、――その先にあった道が先日の雨でぬかるんで土砂崩れを起こしており、その傾斜に見事に引っ掛かって先に落ちていた三之助に繋がる形で滑り落ちた。
途中で転がっていた三之助を拾い上げ、胸元に抱え込む。土は乾いていたものの、ごつごつとした斜面や時折出ている木の根などで身体を打つ。平らな場所に辿り着くまでに、滝夜叉丸は全身を隈なく打つ羽目になった。
「うっ……たく、何故私がこのような目に……。こら、三之助、無事か? 意識があれば返事をしろ」
「その言い方はおかしいです、先輩。つーか、俺たちどうなったんですか?」
「見れば分かろう。落ちたのだ。この前の雨で大きく土砂崩れを起こしたらしいな。土砂崩れの瞬間でなくて幸いだった。お互いに無事を確認したところで、とっとと戻るぞ。早くしなければ夕飯に間に合わなくなる」
滝夜叉丸は抱えた三之助を放して、ゆっくりと上を見上げた。落ちている間はそう感じなかったが、それなりの距離を落ちたらしい。仕方なしに空を見て、少しずつ落ちて行く太陽で方位を確認する。幸いにも裏々山は体育委員にとっては庭のようなもの。さすがにこの斜面を登ることはできないが、ぐるりと回れば忍術学園に戻ることは可能だろう。
「立てるか? 怪我はないだろうな?」
「ありませんよ」
「ならば、この縄をまずお前の腰に結べ。これ以上迷われては堪らん。それから、お前は常に私の前を歩くように。目を離した隙に再び遭難はごめんだからな」
三之助は滝夜叉丸の言葉にムッとしたようだったが、彼女が放り投げた縄を大人しく腰につける。先程庇われた記憶もあるため、普段ならば何か一言二言文句がある場面でもさすがに大人しかった。普段もこれくらい大人しければそれなりに可愛がってやるものを、と思いながら、滝夜叉丸はゆっくりと立ち上がる。誰かが途中で下級生が居なくなったことに気付いてくれれば良いのだが、と考えながら、彼女は三之助の腰に巻き付けた縄の端を掴んでから、顎で彼に進むように指示した。
黙々と二人は道を歩く。滝夜叉丸は初めこそ東西南北で方向を示していたが、その度に三之助が別方向へと行こうとするため、最終的には前後左右で示すことに落ち着いた。疲れている身体は重く、二人とも速度は普段以上に遅くなっている。次第に暗くなる山に三之助は不安げな顔をしたが、滝夜叉丸は全く意に介した様子もなく彼に進めと顎で促した。
「安心しろ、裏山、裏々山なら私でも目をつぶって歩ける。それが体育委員会なのだ」
事実、滝夜叉丸は散々に委員会で山中をマラソンしているため、裏山、裏々山に関しては学年一詳しい自信がある。ゆっくりと三之助を追いながら、滝夜叉丸は鈍く痛む足首にちらりと視線を向けた。
(……しくじったな。学園までもてば良いが)
先程転がり落ちた時に捻ったらしい。しかし、後輩の前で弱みを見せるなど学年一優秀な平 滝夜叉丸の名が廃る。それゆえに黙って出発したのだが、やっぱり無理があったかと思い始めていた。足首は次第に熱を持ち、痛みも激しくなっている。縄を持つ手に脂汗が滲んで来ていることに滝夜叉丸は人知れず自嘲の笑みを漏らした。
辺りは次第に暗くなり、視界が悪くなってきている。それに滝夜叉丸は明かりが必要だと思い当たった。特に裏々山を歩き慣れない三之助が先頭ならば、尚更。滝夜叉丸はそれを理由に足を止めて、足の痛みをごまかすように傍にあった大きな石へと腰かけた。
「……三之助、少し休むぞ。急ぎたいのは山々だが、お前には明かりがなければ辛かろう。今作る」
滝夜叉丸は三之助に見える範囲で枯れ枝を何本か拾わせた後、それを紐で束ねてから手ぬぐいを半分に切って上に巻いた。本来ならば布に松脂などを浸み込ませるのが普通だが、さすがにそこまでの用意はない。持っていた火種で火を灯すと、滝夜叉丸はそれを三之助に突きつけた。
「持て」
「へい」
「返事は『はい』だ、馬鹿タレ」
滝夜叉丸は情けない返事をした三之助にしっかりと吐き捨てた後、足に負担をかけないように再び歩き出す。足の痛みがある所為で明かりを作るにも時間がかかってしまった。早く帰らねば、と思いながら、滝夜叉丸は雑草の生えた地面を強く踏みしめた。正直なところ、大げさかもしれないが死にそうなほど痛い。できれば今すぐ足を止めて転がりたいくらいの痛みが足首からは訴えられている。しかし、例え自業自得とは言え、迷子になって不安であろう一年を放置することは滝夜叉丸の威信にかけて許されなかった。気付かれないように足を引きずりつつ、滝夜叉丸は何とか前へ前へと進んでいく。無事な方の足に力が入り、雑草を踏み躙る感覚が強く感じられた。
(やばいな、もう限界が……)
痛めた足を踏み出すことが難しくなり、次第に歩みが遅くなる。縄の長さを調節して三之助にはばれないようにはしているが、気付かれるのも時間の問題だろう。さてどうするべきか、と滝夜叉丸が考えていると、突如頭上の枝がガサガサと鳴った。
「うえっ!?」
「下がれ、三之助!」
咄嗟に懐から苦無を取り出し、滝夜叉丸は三之助を庇って頭上へと警戒した。足の痛みは最高潮にまで達しているが、ここで倒れるわけにはいかない。痛みは奥歯を噛み締めることで堪え、滝夜叉丸は次に相手がどう出てくるかを警戒した。――が、しかし。
「滝みっけ! せんぱーい、滝夜叉丸と三之助見つけましたよー!」
頭上から降りてきたのは遥か前に自分たちを置いて行った小平太であった。驚いて目を丸くする滝夜叉丸と三之助を余所に、小平太は大声で周囲へと呼びかける。それを皮切りに周囲からわらわらと体育委員たちが集まって来て、彼女たちは無事に保護されたのだった。
「……よく、ここがお分かりになりましたね」
「うん、明かりが見えたからね。忍としては目立つのは良くないが、遭難者としては上々だ」
「……それは何より」
滝夜叉丸はその言葉と共に地面へと座り込んだ。緊張の糸が切れたのだ。それは三之助も同じようで、明かりを上級生に手渡してへたり込んでいる。滝夜叉丸は明かりに照らされる三之助の顔をちらりと確かめ、特に異常はなさそうだと視線を小平太に戻した。当の小平太はと言えば滝夜叉丸をじっと見下ろしていた。
「な、何ですか?」
「うん、よく頑張ったな。後は任せろ!」
小平太は問いには答えずに滝夜叉丸の頭を手荒く撫でた。更に彼女へ背を向ける。何だ何だと首を傾げた滝夜叉丸の腕を掴み上げ、小平太はその背に彼女を背負い込んだ。ギョッとして暴れる滝夜叉丸に小平太は囁く。
「滝、足痛いんだろう? 今までよく我慢したよ。戻ったらすぐ伊作のところだな!」
「いえ、あの、七松先輩……」
「さあ、いけいけどんどーん!」
滝夜叉丸が何かを言おうとする前に小平太は再び走り出す。急激に後ろに流れていく光景と共に背中から振り落とされそうになった滝夜叉丸は慌てて小平太の肩にしがみ付く。ガサガサと草も枝も気にせずに駆けていく小平太が少し小さな声で呟いた。
「振り返るってのは大事だな。お前たち二人が居ないことにすぐに気付けなかった」
「あれは三之助を上手く御せなかった私の責任ですから、お気になさらず。逆に迎えに来ていただいて有り難く、申し訳ないと思っておりますよ」
自責の念を示す小平太に滝夜叉丸はそう返した。元より彼にその手の気遣いを期待したことはない。小平太はそういう人間だと知っていたし、自分がそれを補えば良いと思っていたから。
「先輩はそのままで良いんです。その他のことはこの学年一優秀な平 滝夜叉丸が引き受けて差し上げますよ」
「……そりゃ頼もしいな」
「そうでしょう」
背中から体温が伝わって、自分たちが生きているのだと感じる。普段はそんなことを考えないのだから、疲れているのだろう。滝夜叉丸は揺れる視界に次第に意識を飛ばしかけ、慌てて頭を振った。けれども疲労は身体に確実に蓄積していて、それが彼女の瞼まぶたを重くさせる。次第に小平太の肩に頭を預け、滝夜叉丸は意識を暗転させた。――最後に聞こえたのはたった一言。
「滝が無事で良かった」
滝夜叉丸は夢見心地でその言葉を聞き、ひどく優しい気持ちで眠りに落ちた。その時に見た夢はまだ彼女の母親が生きていた頃のもので、家族と女房たちと楽しそうに笑っている自分が居る。ひどく懐かしいその夢に、滝夜叉丸は少しだけ昔のことを思い出した。幸せだった頃の、今はもう心の隅に封印してしまった思い出を。
そのまま忍術学園に連れ帰られた滝夜叉丸はすぐに保健室へと運ばれ、すぐに新野と伊作による治療を受けることになった。その時には滝夜叉丸が戻らないという報を受けてやきもきしていた喜八郎が駆けつけ、無表情ながらも散々に彼女へ文句を述べる。反論しようとした滝夜叉丸であるが、打ち身だらけということも意に介さずに抱きついてくる喜八郎が本当に心配していたことを思って渋々口を閉じて彼女のしたいようにさせた。
全ての治療が終わったところで追い出されていた小平太たちが戻って来る。三之助は少し拗ねたような顔をしながらも、小平太に促されて小さな声で呟いた。
「その、有り難うございました」
「少しは私の有り難さが分かったか、三之助。これからはもっと敬えよ」
「……そういう発言がなけりゃ、もっと敬えるんですけどねえ」
滝夜叉丸が髪を払いながらそう言うと、三之助は明らかにムッとした顔で呟いた。それに滝夜叉丸は生意気な、と改めて思うのだが、それこそが悪循環だと二人は全く気付いていない。そんな二人のやり取りを見ていた小平太が、伊作に振り返った。
「もう連れてっても大丈夫?」
「うん。でも、乱暴にしないでね。全身あちこち打ってるから、実際はかなり痛いはずだよ」
「伊作先輩!」
「滝夜叉丸も無理は禁物。喜八郎が見ててあげてね」
「分かりました」
伊作も慣れた様子で滝夜叉丸を素通りしてどんどん話を進めていく。そこまで暴露されたら自分の立つ瀬がないと滝夜叉丸はがっくりと肩を落とした。その一瞬の隙を狙って、小平太が滝夜叉丸の身体を掬い上げる。突然横抱きにされた滝夜叉丸は驚きの声を上げて暴れようとしたが、緊張の糸が切れた後のために動かすと全身が痛い。呻き声を上げて脱力する滝夜叉丸を余所に、小平太は自分を少しだけ睨み付けている喜八郎へと声をかけた。
「喜八郎は滝の荷物を持ってきてくれ。さ、部屋に行こう」
「分かりました」
本当ならば自分が滝夜叉丸を抱えて行きたいところだが、体格的にも喜八郎には少し厳しい。仕方なしにその役目を小平太に譲って、喜八郎は汚れた装束や伊作に渡された痛み止めなどを抱えて小平太の後に続いた。当の滝夜叉丸はと言えば、このような状態など耐えられないのに自分の身体が利かず、どうしようもできずに顔を真っ赤に染めて苦虫を噛み潰したような顔をしている。――その滝夜叉丸の姿に小平太も喜八郎も各々別のことを考えていたのだが、この状況に手いっぱいの滝夜叉丸は二人の思惑など気付くはずもないのだった。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『野草を踏み躙って生きろ』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒