鈍行
▼いなくなってしまえばいい
『――お前さえ居なければ……!』
頭の中をこだまする声に滝夜叉丸は思わず飛び起きた。そこで初めて自分が居る場所が忍術学園の長屋であることに気付き、深い溜め息と共に髪を掻き上げる。幸いにも無様に悲鳴を上げたりはしなかったらしく、喜八郎は隣でぐっすり休んでいる。滝夜叉丸は彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、夜着に一枚上着を羽織った後に手ぬぐいを持って部屋を後にした。
どうやら夜明けが近いらしく、裏山の輪郭を朝日が染め上げている。今日も良い天気になりそうな予感を感じつつ、滝夜叉丸は一番近い井戸へと近付いた。さすがにまだ夜明け前ということもあって、朝から賑わう井戸の傍に誰も人が居ない。滝夜叉丸はそれに安堵しつつ、井戸の釣瓶を手に取って井戸の底へ沈めた。初めは慣れなかった井戸も今では簡単に使えるようになった。それは自分の才能のなせる技だと胸中で自画自賛しながら、滝夜叉丸は引き上げた釣瓶から水を汲み出した。用意された別の桶に水を汲み入れ、終わったところで持ってきた手ぬぐいを浸す。井戸水は冷たく、まだ滝夜叉丸にまとわりつく夢の残滓を奇麗に拭い去ってくれた。
「あれ、滝夜叉丸?」
「七松先輩!」
絞った手拭いで顔や首筋を拭っていると、後ろから声がかかった。きょとんとして振り返れば、そこには体育委員の先輩である七松小平太の姿。彼はどこへ行って来たのやら、やたらと土埃にまみれていた。驚いて更に目を瞬かせる滝夜叉丸に小平太は明るく笑いかけた。
「よお、早いなあ!」
「先輩こそ……そんなに汚れて、自主練ですか?」
「いんや、実習の帰り。楽しかったぞー!」
この先輩の楽しかったは当てにならない、と思いながら滝夜叉丸は調子を合せるように軽く笑んだ。それに小平太は少しだけ眉をひそめる。小平太の様子に今度は滝夜叉丸が不思議そうに首を傾げ、二人は各々疑問を感じたような表情で顔を見合わせることとなった。
「どうした、滝夜叉丸。元気ないぞ?」
「そんなことはありませんよ。七松先輩こそお疲れなんじゃないですか? この時間にお戻りということは夜通し実習だったのでしょう? 早くお休みになられてはいかがでしょう」
滝夜叉丸は小平太の言葉を素早く否定した。うっすらと笑みを浮かべれば大抵の人間が騙されることは既に実証済みだ。しかし、小平太はそんな滝夜叉丸にも惑わされず、ただ真っ直ぐに彼女を見つめ続ける。それに滝夜叉丸はついに根負けして、両手を上げて溜め息を吐いた。
「――ただ、夢見が悪かっただけですよ。いつものことです」
「いつも悪い夢見るのか?」
「いつもというのは言葉の綾です。普段は眠りが浅いので夢は見ません。ただ、時折ふと見るだけなのです。お気になさらず。大したことはありませんから」
滝夜叉丸はそう言って、自分が使った桶から水を流した。もう一度水を汲んで、桶をすすぐ。桶を元の位置に戻してから、滝夜叉丸はもう一度笑みを作った。
「では、私はそろそろ失礼いたします。そろそろ喜八郎も起きる頃ですし、着替えなければ」
「……うん、まあ、分かった」
「先輩も早くお休みになってくださいね。実習、お疲れ様でした」
小平太は明らかに納得していない様子だったが、滝夜叉丸が言いたくない気持ちを尊重して引き下がる。それに滝夜叉丸は先程とは違う淡い笑みを浮かべて、小平太に深く頭を下げて挨拶した。小平太はそんな滝夜叉丸の頭を荒く撫でてから、彼女の肩を軽く叩いて別れを告げる。その勢いに滝夜叉丸はよく浮かべる苦笑を浮かべた後、もう一度軽く頭を下げてから井戸を後にした。
――振り向かない彼女は気付かない。小平太が彼女の細い背中を見つめて、険しい表情をしていたことを。
「なあ、喜八郎は知ってるか? 滝夜叉丸の悪夢」
「……何故、そのことを?」
小平太は喜八郎と塹壕を掘りながら唐突に尋ねる。二人は滝夜叉丸の許可の下、仲良く塹壕堀をする仲となったのだ。どこか人とずれている喜八郎と人の性格を余り気にしない人懐こい性格の小平太はどうやら気が合うらしく、会話もあまり噛み合わない割によく一緒に塹壕堀をしている。趣味が合えば気質の違う二人も仲良くなるのか、喜八郎は比較的小平太に懐いていた。
彼女は基本的に自分が興味のない人間とはほとんど話もしない。大抵の時間は滝夜叉丸の傍に侍り、今のように彼女が用事を頼まれてしまった時は学園の庭に穴を掘ることが常だ。その彼女が例えほとんど会話が成立しないと言えど、一緒に塹壕堀を行うだけでも彼女がそれなりに小平太に心を許していることが知れた。
しかし、小平太がその問いをした瞬間に喜八郎は視線を鋭くする。外敵に警戒するように彼女は小平太を睨み付け、静かに距離を取った。手に持っていた泥まみれの苦無を持ち直す様子からも分かる。それにはさすがの小平太も苦笑して、顔の前で手を振った。
「いや、別に何か滝夜叉丸にしようってんじゃないから。ただ、この前朝に井戸で会った時、様子がおかしかったから。聞いてみたら夢見が悪かったって言うし、いつものことだとは言ってたけど……いつものことなら逆に心配じゃないか。それで同室の喜八郎なら知ってるかな、って思って」
「――知っていますけど、教えません」
喜八郎はとりあえず苦無を再び持ち直し、彼から顔をそむけて穴を掘り始めた。その明らかな拒絶に小平太が苦笑すると、彼女は少しだけ視線を小平太に戻してから呟いた。
「それに関しては、滝夜叉丸――滝の内面に深い影響があるのです。だから、私の一存では貴方に何かを漏らすことはできません。お知りになりたいのなら、滝本人に聞いてください」
「そっか。分かった、聞いてみる。教えてくれなさそうだけど」
小平太はその言葉に軽く頷き、彼もまた再び塹壕堀に戻る。しかしその実、頭はどうやって滝夜叉丸を捕まえて吐き出させるかを考えていた。それを知ってか知らずか、喜八郎は小さく溜め息を吐く。
――喜八郎は気付いていた。滝夜叉丸が本人が思っている以上に七松 小平太という存在に心を許しているということを。元より敵の作りやすい滝夜叉丸の性格だが、その性格を乗り越えて自分の懐に入ってくる人間に関して、滝夜叉丸は驚くほど甘い。今までの生活で彼女が喜八郎やその母の矢面に立って、様々な厄介事から守ってきたということも大いに影響しているのだろう。彼女は母親から上に立つ者としての心得を常に教授され、その教えに従って己を律してきた。それゆえに彼女の性格は元より、何気ないことでも実は自分より目下の人間には特に目をかけてやることも多い。
しかし、逆に年長者に対しては滝夜叉丸は表面だけは敬意を持って接するが、その実は誰よりも彼らを警戒している。それは彼女にとって年長者は敵でしかなかったからだ。父とはそれなりの関係ではあったが、逆にいえばそれなりの関係でしかなかった。実母は既になく、後ろ盾らしい後ろ盾と言えば〈正妻の子ども〉という立場だけ。亡き母の家柄はそれなりに良かったので、彼女もまた尊重されてはいた。だが、それゆえに側室であり、現在の実質的な正室である女性には目障りだったようだ。しかも、彼女には男児がひとり存在する。元々の身分がそう高くないその女性にしてみれば、名門の娘から生まれた〈滝姫〉はまさに目の上のたんこぶだったのだ。それゆえに幼い彼女を早く嫁がせようとあちこち画策したり、果てには謀殺しようとまでした。だからこそ滝夜叉丸は自分の意思で忍術学園の門を叩いたのだ。――己の身を守るために。
その滝夜叉丸が、小平太にはどうにも弱い。性格が明るくて人懐こいことも要因のひとつなのかもしれない、と喜八郎は思う。基本的に滝夜叉丸は自分に邪心なく寄ってくる人間に対しては強く出ることができない。頼られれば素直に嬉しいと思う性格なのだ(それを素直に表に出せないことはともかくとして)。それゆえに小平太は人格的には決して幼くはないのに、性格が子どもっぽいがために滝夜叉丸の懐に上手く滑り込むことに成功した貴重な人物なのである。喜八郎はそこまで考えて、思わず苦無を土に強く突き立てた。
「……ちょっと気に入らないかも」
「何が?」
「何でもありません」
思わずぼそりと呟いてしまった声に返答があり、喜八郎はすぐに相手を遮断する。いくら喜八郎と言えど、滝夜叉丸の懐に居る人間に暴言を吐くほど常識知らずなわけではない。それでも今まで自分が滝夜叉丸の一番近くに居る人間だと自負していただけあって、彼女の心には少しばかりしこりが残った。――田村 三木ヱ門に関しては全く嫉妬など感じないのに、どうして七松 小平太だと心が騒ぐのか。
喜八郎はその理由を考えて、滝夜叉丸すらまだ気付くどころか芽生えてもいないであろう感情に気付いてしまう。そうして、自分がいつしか彼女に置いて行かれてしまうのだと悟った。そのもやもやをぶつけるように彼女は荒々しく土を削る。しかし、力任せのその行動を抑えるように小平太の手が喜八郎に伸びた。
「あんまり無理やりにやると、腕を痛めるぞ」
「……分かってます。それでもやりたくなる時があるのです」
「私じゃ相談相手にはならないだろうが、何か悩みがある時は誰かに話した方が案外楽になるぞ」
「大きなお世話です」
喜八郎は今度こそ顔を逸らし、大きな溜め息を吐いた。小平太にこのような態度を取れば滝夜叉丸が怒ると分かってはいたが、それでも腹立たしい気持ちが抑えられない。それこそ子どもっぽい嫉妬だと分かってはいたが、喜八郎はまだまだ自分の感情をきちんと隠せるほど大人ではなかった。
「そっか。じゃ、滝夜叉丸とか仙蔵とかにしたら良いよ。どっちにしろ、私は頭そんなに良くないから、お前の悩みを聞いても答えられないかもしれないしね」
しかし、小平太はそんな喜八郎にも怒ることはせずにからりと笑う。それに喜八郎は尚更に負けたような気持ちになって、同時に滝夜叉丸が彼を慕う気持ちが少しだけ分かった。滝夜叉丸は器の大きな人間を尊敬する傾向が強い。少し傍に居るだけの喜八郎にだってこのような一面が垣間見えるのだから、委員会活動でいつも一緒の滝夜叉丸は彼の良い面をもっと見ているはずだ。それがまた彼女の気持ちを波立たせ、それが深い溜め息となって飛び出した。
「私、今日はもうこれで終わりにしようと思います。先輩はいかがなさいますか?」
「んー……じゃあ、私ももう終わりにしようかな。一緒に帰ろう、喜八郎」
嫌だ、とは言えずに喜八郎は頷く。小平太はこういう際には喜八郎を絶対にひとりにしようとはしない。それは勿論彼女が以前に襲われかけた前歴を持っていることが挙げられるのだが、それ以上に滝夜叉丸に頼まれているのだろう。それを全く感じさせない自然な様子で自分の隣を歩く小平太に喜八郎は尚更に自分との差を感じてこっそりぶすくれる。――そんな喜八郎を小さくて可愛いと小平太が感じていることも知りはしないまま。
「――というわけで、やっぱり本人に直接聞くことにした!」
「何とまあ……貴方という方は」
更に数日後、体育委員会が終わった後に堂々と宣言した小平太に滝夜叉丸は額を押さえた。彼を抑えられる体育委員の頼れる先輩たちはとうに長屋へと戻っていっており、活動でへばっていた滝夜叉丸とそれを待っていた小平太だけが残されている。しかし、明らかに話さないことには解放されそうにないため、滝夜叉丸は覚悟を決めて顔を上げた。
「……その前に、せめて汚れを落としませんか?」
「それもそうだな! よし、行くぞ滝夜叉丸! いけいけどんどーん!」
覚悟を決めても言いにくい話に違いはない。滝夜叉丸は何とか時間を稼ごうと、自分たちの汚れた姿をだしに使った。あわよくばこのまま忘れてくれないか、とは思うものだが、こういうところは何故かきっちりとしているのが七松 小平太という男なのだ。滝夜叉丸はさてどのように話を始めようかと滝夜叉丸は先に行く背中を追いながら考えていた。
「で、話してくれるのか?」
「ええ、そうじゃないと長屋に帰してもらえなさそうですしね。別にお話しするほど大した話でもないのですけれど」
滝夜叉丸は井戸から少し離れた長屋の縁側に腰を下ろしてから呟いた。先に縁側に腰を下ろしていた小平太が真っ直ぐな視線で彼女を見ている。その瞳には純粋な好奇心という隠れ蓑にくるまれた自分への心配がある。滝夜叉丸はそれをくすぐったく感じながら、視線を少し伏せてから口を開いた。
「私がこの学園に来たのは、継嗣問題で負けたからなんです。私の後ろ盾であった実母がなくなり、父の側室であった女性が実質的な正室となりました。その女性は彼女が生んだ私の弟を何とか我が家の跡継ぎにしたいと思い、様々な手段で私を追い落とそうとしたのです。
私もまだその頃は幼かったですから、自分を鬼のような形相で睨み付けるあの女性に多分な恐怖を感じました。彼女の手は次第に荒っぽいものとなっていき、最終的には私を亡き者にしようとまで画策したのです。――今でも忘れられない。あの女性が『お前などいなくなってしまえば良い』と首を絞めて来た時のことを。そして、それが時折夢に出るのです。ただ、それだけなのです」
大した話ではなかったでしょう? と呟く滝夜叉丸を小平太は殴った。軽く小突かれることはあっても、このように殴られることはなかった滝夜叉丸は驚いて小平太を見上げる。それに小平太はひどく険しい顔をして、彼女を睨み付けた。
「それのどこが大したことない話だ、馬鹿! 十分大した話だろうが! 全く……何考えてるんだか!」
それはこっちの台詞だ、と滝夜叉丸は言いたかった。何故自分が殴られなければならないのだろうか、と言いたかったが、何かを言ったら火に油を注ぎそうな気がして黙る。小平太は次第に顔を子どもっぽく膨らませていき、最終的には唇を尖らせて怒りの表情を示した。それに滝夜叉丸はどう対応して良いか分からず、黙ったままで小平太の様子を見守る。小平太はそんな彼女に気付いたのか、その表情のまま滝夜叉丸を腕の中に抱き寄せた。
「お前が今生きてて良かった! 私はそう思うぞ。絶対喜八郎だってそう思ってる。だから、お前は何も怖がる必要ないんだからな!」
今まで、そんなことを真面目に言ってくれる人間はいなかったので、滝夜叉丸は素直に驚いた。喜八郎とその母は同じように思ってくれているだろうが、それを口に上らせることはなかった。それは滝姫が彼女たちの主で、弱みなど見せてはいけない存在だったからだ。彼女は常に強く、下の者を導く存在で居なければならなかった。紀伊たちはそれを知っていたし、滝姫もまたそれを望んでいることを知っていたから何も言わなかったのだ。
けれど、こうして温かい腕に包まれて滝夜叉丸は思う。――本当は言って欲しかったのかもしれない。強がってみても、悪夢にうなされるのならば同じだ。同時に彼女は目の前の男の強さを改めて思い知った気がした。開けっぴろげで、考え足らずで、思いついたことを口に出したり行動にしなければ気が済まないような人なのに。……それでも、七松 小平太という人間はとても大きい。
(――わたくしは、誰かに言ってもらいたかったのかもしれない。存在を許すという一言を)
揺れる感情とは別にひどく冷えた思考が滝夜叉丸を次第に支配する。それが感情を凪がせて、滝夜叉丸は小平太に合図するように自分を抱きしめる彼の背中を軽く叩いた。それにようやく小平太が彼女を閉じ込める腕の力を緩める。滝夜叉丸は彼の服に押し付けられていた顔をゆっくり上げて、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「大丈夫ですから。――有り難うございます、先輩」
小平太の胸に手をついて距離を取った滝夜叉丸の顔は、彼女と同じ学年の誰よりも大人びて美しかった。小平太はそんな彼女の顔を間近で見て、思わず息を飲む。少しだけ揺れて潤んだ瞳は涙が零れるよりも早く落ち着きを取り戻していき、穏やかな笑みへと収束していく。滝夜叉丸はゆっくりと縁側に立ち上がり、まだ座ったままの小平太を見下ろして言った。
「もう戻らないと、喜八郎が心配しますから。先輩、失礼いたします」
「あ、ああ、倒れないように気を付けてな」
深々と頭を下げる小さな子どもを小平太は座ったままで見送った。今見た滝夜叉丸の表情が余りにも印象的で、動くことができなかったのだ。小平太は一体自分はどうしたのだろうと自問自答しながら、ゆっくりと、しかし凛と背筋の伸びた小さな背中が立ち去って行くのをただ眺めているしかできなかった。
BACK << INDEX >> NEXT
「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『いなくなってしまえばいい』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒