鈍行
▼追いかけてくる恐怖
「――何だと!?」
「やるか!?」
「望むところだっ!」
滝夜叉丸は今日も今日とて隣の組に在籍する田村 三木ヱ門と睨み合っていた。入学式からしばらくして顔を合わせた彼らだが、一目見た時から相手が気に入らなかった。特に自尊心の強すぎるほどに強い滝夜叉丸と、同じく自負の強すぎる三木ヱ門は個性がぶつかり合う形となる。普通ならそれでも口喧嘩で終わりそうなものだが、この二人は癇も強ければ手も口も出るのが早かった。どちらが手を上げたのが先かなど、二人はもう覚えていない。とにかく、自分の傍らに相手が居れば殴り合いの喧嘩になるのが常だった。
初めは喜八郎も彼ら二人を止めようとしていたのだが、いつしかそれも諦めて二人のしたいようにやらせている。喜八郎にしてみれば大切な姫様がボロボロになるのは少々見るに堪えない気持ちもあるのだが、この喧嘩が二人の意思疎通の手段であると気付いたのだ。自分以外にまともな会話を交わすことのない滝夜叉丸が初めて対等(?)に見た相手をわざわざ引き離すこともないと考えたこともある。しかし、それ以上に彼らが殴り合いの喧嘩をするたびに滝夜叉丸の姿が雄々しく凛々しくなっていくため、自分たちの隠れ蓑にはちょうど良いと感じたことが大きい。喜八郎は忍術学園の予想以上の危険性に、滝夜叉丸よりもずっと早く気付いていたのである。
忍術学園は広い。――喜八郎たち一年生でも数十人の人数が居る上、それが更に六学年存在するのだ。勿論、諸事情によって進級するごとに人数は減っていったりしているようだが、生徒だけでも四十から五十人ほどの人間が共同生活を行っている。その中には喜八郎たちと同じ秘密を抱える生徒も何人か居るのだが、それ以外は全てが男なのだ。当然、念此ねんごろの関係になる者も、そういう関係を結びたがる人間も居る。
その中で弱い一年というのは中々に狙い目らしく、喜八郎は既に幾人もの人間から恋文らしきものを送りつけられた。十ちょっとの子ども相手に何をしたいのだと逆に問い返したい気持ちもあるが、相手も所詮同じくらいの年頃だ。子どもだ何だということは余り関係がないのかもしれない。そして、その魔の手は勿論滝夜叉丸にも向けられている。
彼女もまた喜八郎と同じく美しい顔立ちをしている。常々自慢している黒髪は手入れの所為もあって艶やかだし、顔立ちはまだ幼さが残るものの凛とした美しさが目立つ。それゆえに同級生にも上級生にも何度か絡まれたことがあったのだが、初めて声をかけて来た相手の顔面に拳をめり込ませて以来、彼女には表立った好意は向けられなくなった。更に彼女がお得意の自慢攻撃を繰り返すことによって、彼女の外見に惹かれてはみたものの幻滅していった輩も多い。
「――その性格は便利で良いね」
「私は私の道を行くだけだ。……ああ、くそ、悔しいな。次こそは絶対に完膚なきまでに叩きのめしてやるからな、三木ヱ門!」
長屋に戻ってきたところで喜八郎は初めて口を開く。その内容は明らかに前後が繋がってないのだが、生まれた時から一緒の滝夜叉丸は彼女の唐突さに慣れている。それゆえにあっさりと返事をした後、思い出したように忌々しげに吐き捨てた。彼女の制服は砂埃だらけで、顔や腕には所々擦り傷をこさえている。それは彼女が三木ヱ門と激しい争いを繰り広げたことを示していて、喜八郎は肩をすくめて笑った。
「そんな恰好見たら、誰も滝がお姫様だなんて思わないだろうね」
「当り前だろう。思われたら逆に困るわ。――ああ、くそ、あの男やりおった。制服に穴が開いておる。また直しておかねば……面倒だな」
滝夜叉丸は軽く濡らした手拭いで身体の汚れを拭うと、替えの制服へと着替えた。入学時に何枚か支給された装束は、既に何着かがボロボロになっている。それは忍術学園の授業が厳しいことを示してもいるのだが、それ以上に滝夜叉丸と喜八郎が己の研鑽けんさんに励んでいることが原因だった。
「これ、新しいのってもらえるのかな?」
「さあな。今度、伊作先輩にでも聞いてみよう。――じゃあ、喜八郎。私はこれから委員会に行くが、お前も気をつけろよ。最近は変な文も多く届くようになったし、何より学年一優秀なこの平 滝夜叉丸の同室なんだ。お前とて目立たぬわけにはいかないだろう。いくら授業で気に入ったからって、変な場所で塹壕を掘るんじゃないぞ」
「人気のある所で掘ったら罠にならないじゃない」
「人気のない場所で襲われたら逃げられないだろうが。――私たちは他の人間よりも気を付けなければならないんだ、お前も自覚しろ」
「分かってるよ」
喜八郎の返事に滝夜叉丸は絶対に分かっていないと溜め息を吐いた。しかし、これから委員会の招集がかかっている滝夜叉丸は行かねばならない。さぼることも視野には入れたが、いつ訪れるかも分からない外敵に対して常に警戒をしていることも難しく、また彼女の所属する体育委員会には熱血な人間が多く、ひとりでも面子が足りないとどこまでも探しに来るという恐ろしさがある。何度か余りの活動の厳しさに逃げ出した人間も居たそうだが、それも全て体育委員たちに捕獲されたそうだ。そういう逸話を何個も聞かされれば、逃げる気も起きなくなるというものだ。それゆえに滝夜叉丸はせめてひとりになる喜八郎へと警告を残すのだった。
「お、来たか、滝夜叉丸。遅いぞ!」
「すみません」
滝夜叉丸が集合場所に着くと、既に他の人員は集まって来ていた。彼女の顔を見つけて明るい声を上げたのは、二級上の三年である七松 小平太だ。彼は体育委員らしい体育委員で、常に体育委員一筋で三年目、それなりに入れ替わりも激しい体育委員会では頼れる先輩であろう。――行き過ぎた活動希望さえなければ、の話だが。
「今日の活動は裏山、裏々山をよく知るためのマラソンだ。登ったり降りたり登ったり降りたりしながら、山を隅々まで調べるんだぞ!」
「……それはまた」
明るい声で告げられた委員会の内容は明らかに過剰だ。現に彼以外で幹部連である先輩たち以外の、じゃんけんやくじなどの結果で体育委員を引き当ててしまった、いわゆる「不運組」と自称する委員たちは皆げっそりとした表情をしていた。それは滝夜叉丸も同じで、図らずも顔が引きつる。できればやりたくない、というのが表情に出た所為か、小平太が唇を尖らせて彼女の頭を手で掴んだ。――本人は手を置いたつもりらしいが、その勢いは明らかに「掴む」というにふさわしい。突然訪れた衝撃を堪えながら、滝夜叉丸は自分より随分と大きい小平太を見上げた。
「嫌がっちゃ駄目だぞ、滝夜叉丸。これは新入生のためにやってるんだからな」
「え?」
「体育委員は実技の授業でコースの設営の手伝いや下見を行う。そのためには組の、いや学年の誰よりも忍術学園の地理について知っておかねばならないのだ。どこに罠が掛けやすいか、どんな場所に通りにくい場所があるのか、また抜け穴や近道、果ては崖や滝、川のある場所などにも詳しくなっておかねばならない。だからこそ、毎年新入生が入る時期にはこうして委員会活動の一環として学園の隅々を見て回ることになっている。今年の新入生は滝夜叉丸だけだし、頑張ってもらわないとな」
そこまで言われて嫌な顔をできるほど、滝夜叉丸は傲岸不遜ではない。大人しく頷いて、自分とは桁違いの化け物じみた体力自慢たちについて行くべく足を動かした。
それから数刻後、未だに滝夜叉丸は裏山を駆けずり回っていた。既に息は上がっており、正直なところ意識を失わないのは高い矜持がそれを自分に許さないからにすぎない。既に何度も往復した裏山、裏々山の地理は大体把握し、余りに疲れ過ぎて逆に学園まで戻るのが億劫な気持になるほどだ。しかし、目の前を行く緑の制服が止まらない限り、滝夜叉丸はなぜか意地でも止まりたくないと感じていた。それは一番学年が近い先輩が飄々としているのが悔しかったということもあり、また自分から「もう限界です」と言うのは彼女の自尊心を大いに傷付ける行為だったからだ。
しかし、次第に集中は途切れてきて、注意力が散漫になる。前の背中から視線を離したその時に、滝夜叉丸はふと視界の隅、少し離れた低い場所に見慣れた頭があるのに気付いた。――喜八郎だ。だが、彼女は普段とは違い、一心に山を駆け抜けていた。まるで何かから逃げるように。
思わず足を止めた滝夜叉丸は、息の上がった身体を必死に宥めながら下に目を凝らした。喜八郎は一心に山の奥へと駆けて行き、その後ろを見慣れた装束を着た影がひとつ追いかけていく。その人物が着ている装束は彼女たちが着ている装束と色違いのものであり、一目見ただけで忍術学園の生徒であると分かった。
「喜八郎!」
その光景だけで滝夜叉丸は彼女が今どのような状況にあるのか把握する。一瞬だけ先に行った緑の背中を見遣るが、今優先すべきは友の安全だと滝夜叉丸は思い切った。居なくなったと分かれば心配されるかもしれないが、その前に行って戻ってくれば良いだけの話。そう結論付けて、滝夜叉丸は彼らの間に割って入れる最短距離の道のりを頭から弾き出した。同時に今日の委員会活動が驚くほどの結果を出していることに気付き、改めて小平太その他体育委員の面々に感謝する。滝夜叉丸はくるりと踵を返して、重たい身体を引きずりながら友の許へと駆け出したのだった。
「……喜八郎、こっちだ!」
「滝夜叉丸!?」
小声で逃げる友人に声をかける。その声に気付いた喜八郎が驚いた声を上げるが、滝夜叉丸はそんな彼女を意に介さずに茂みへと引っ張り込んだ。二人で息をひそめ、走り去る上級生をやり過ごす。先程まで喜八郎を追っていた背中が遠ざかってからしばらく後に、二人はゆっくりと茂みから這い出て溜め息を吐いた。
「――で? 何がどうなってこうなったんだ?」
「穴を掘っていたら、放ったらかしにしておいた恋文のうちのどれかの差出人がやって来ただけだよ。最初は普通に話していたんだけれど、話が進むにつれて何だか様子がおかしくなってね。咄嗟に持っていた鋤すきでぶん殴ってから逃げたら、追っかけてきてさ」
「そら追っかけられるわ! ――まあ、無事で何よりだ」
淡々と過激な内容を言う喜八郎に、滝夜叉丸は思わず怒鳴り付けた。頭痛を感じてこめかみを揉みほぐしつつ、この後どうするかを考える。委員会を抜け出してきた手前、さっさと長屋に帰るというのは気が引ける。かと言って、今この状態の喜八郎を放置しておくわけにもいかない。板挟みになって思わず頭を抱える滝夜叉丸の襟首を、誰かが掴んだ。同時に自分の身体が宙に浮く感覚。気付いた時には滝夜叉丸はまばらに生えた木の根元に放り投げられていた。
怒鳴ったことが原因だったのか、件くだんの上級生が彼らを見付けて戻ってきたのだ。疲れていたこともあり、また上級生が上手く気配を消していたこともあって滝夜叉丸たちは自分たちに近付くその男に全く気付くことができなかった。そのために不意打ちで攻撃を食らうこととなり、滝夜叉丸は無防備な状態で宙に放り出されたのである。
「うっ……!」
「邪魔するなよ」
咄嗟に受け身を取ったものの、体力を限界まで削られた状況で放り投げられたために衝撃は大きい。滝夜叉丸は悲鳴じみた声で自分を呼ぶ喜八郎が、続いてその相手に摘み上げられるのを視界の端に捉えた。喜八郎は投げ飛ばされた滝夜叉丸にに駆け寄ろうとしているのに、上級生に襟首を捕まえられているために敵わない。小さな手足がもがくのを見て、滝夜叉丸は咄嗟に胸にしまっていた苦無くないを相手の足もとに向かって投げつけた。
「喜八郎を放せ!」
「おっと!」
さすがに一年生から苦無を投げつけられるとは思っていなかったらしく、相手は正確に足元へと飛んできた苦無を避ける。その一瞬の隙をついて喜八郎は彼の腕から逃れ、何とか身体を起こした滝夜叉丸の傍へと駆け寄った。喜八郎に助けられながら、滝夜叉丸は体勢を整えて相手を睨み付ける。それが相手の気に入らなかったらしく、上級生は滝夜叉丸たち目掛けて、自分の足元から拾った苦無を投げつけようとした――のだが。
「一年相手にそれはないでしょう、先輩」
ヒュン、と風を切って飛んできた手裏剣が上級生の腕をかすめ、彼の手から苦無が落ちる。三人が振り向いたその先には、手裏剣を投げつけた小平太をはじめとする体育委員の面々が立っていた。
「先輩……っ!」
「いきなり居なくなるから心配したぞ、滝夜叉丸! お蔭で先輩たちと探し回る羽目になったじゃないか!」
「す、すみません」
突然の体育委員の介入に度肝を抜かれる三人を余所に、小平太はひどく場違いなまでの発言をする。その調子に飲まれた滝も頓珍漢とんちんかんな返答を続けて、周囲には何とも言いがたい空気が流れた。それに体育委員長がぽこりと小平太の頭を小突き、溜め息と共に仕草で他の委員たちに指示する。
彼らは三人が唖然としている間に素早く二人を追い詰めていた上級生を囲み、あっさりと彼を地面に押さえ付けた。統率の取れた動きで彼らは手早くその上級生を捕縛していく。その間に小平太が未だ驚愕から抜けきれない滝夜叉丸たちの前へと降り立った。
「大丈夫か?」
「はい、何とか……ご迷惑をお掛けしました」
「本当だよ! 喜八郎を見つけた時点で教えてくれてれば、もっと事態は早く済んだのに!」
頭を下げる滝夜叉丸を余所に、小平太はプリプリと言った。その発言に一年生二人は返答のしようがない。困って顔を見合わせていると、二人の頭をぐりぐりと力いっぱい撫で付けた小平太が溜め息と共に呟いた。
「一年生なんだから、もっと先輩を頼れってことだ! まあ、その先輩があんな風に信用できない場合もあるけど、少なくとも体育委員にあんな軟弱な奴はいないっ! 何故ならば体育委員会は委員会の中でも花形で、そこに居る人間は皆立派だからだ!」
「先輩、それは理由になっていません……」
余りにも我流な理由に滝夜叉丸ががっくりと肩を落とす。小さく溜め息を吐いた後、滝夜叉丸は傍らの喜八郎に向って話しかけた。
「無事か、喜八郎?」
「滝が助けに来てくれたから大丈夫だった。ありがと」
「だから、人気のない所で穴を掘るなとあれほど言ったのに……。
それで、一体どういう話の流れで追いかけられる羽目になったんだ? 最初は普通だったんだろ? 告白を断ったとかで逆上されたのか?」
「うーん……されたって言って良いのかなあ? 何でも私に恋文を渡したらしいんだけど、ほら、いつも読まずに文箱に突っ込んで放置してるでしょ? 読んでもいないからそれをそのまま言ったら、途中から顔色変わってきてさ。この時に逃げとけば良かったんだけど、誰か好きな人が居るのかって聞かれたから、これに答えたら諦めるかと思って、正直に滝夜叉丸以外はどうでも良いって答えたら襲ってきたの。だから、鋤でぶん殴った後に逃げたんだけど、力が弱かったのか当てた場所が悪かったのか、すぐに追ってきちゃって。それで追いかけっこしている間に滝が来てくれたの」
喜八郎の言葉に滝夜叉丸は思わず額に手を当てた。――相手が本気であればあるほど、逆上しそうな話である。しかも、決まって喜八郎に言い寄る輩というのは偏執的な輩が多い。そういう相手にこの応対をすれば、追いかけられるのも道理といえよう。滝夜叉丸は深く息を吸った後に大きな声で彼女を怒鳴り付けた。
「こンの馬鹿っ! そんなこと言ったら怒るのは当たり前だろうが! そういう輩は適当に相手をして逃げろといつも言ってるじゃないか! どうせああいう手合いはちょっと相手をするだけでも満足するんだから、適当に話を交わして逃げれば良いんだよ! 何度言っても分からん奴だな! だからいつも危ない目に遭うんだろうが!」
「だって」
「だってもクソもないっ! 全く、だからお前をひとりで遊ばせておくのは嫌なんだ。心臓がいくらあっても足りん」
苛々とした様子で髪を掻き上げる滝夜叉丸に、叱られているのにも関わらず喜八郎は喜色満面でくっ付いてくる。それを見た例の上級生が耳障りな奇声を上げたが、喜八郎は彼には目もくれず、更に滝夜叉丸にすり寄った。
「滝大好き」
「おーまーえーはーっ! ……もう、言葉もないわ」
全く話を聞いていない喜八郎に滝夜叉丸はがっくりと肩を落とした。昔からどんなに叱っても、この娘は不思議と落ち込むことがない。余りに効果がないために、いつもいつも途中で滝夜叉丸が折れて終わりになるのだ。再び頭痛を感じながら、滝夜叉丸は深い溜め息を吐く。
そんな彼女たちのやり取りを傍らで見ていた小平太が堪え切れずに吹き出した。
「な、七松先輩?」
「だって、お前ら面白いんだもん……! あーもう駄目、おかしすぎ! 腹痛えー!」
腹を抱えて笑う小平太に滝夜叉丸はぽかんとした顔で彼を見つめた。先程から彼女の度肝を抜くような出来事ばかりで休む暇もない。幸い、小平太の笑いの発作はすぐに納まり、先に例の上級生を連行した体育委員たちの背中に続くように彼は滝夜叉丸たちに手を差し伸べた。
「ほら、行くぞ。今日はもう終いだ。二人とも立て立て。学園へ帰るぞー!」
小平太の言葉に初めて学園へ帰ることを思い出した滝夜叉丸は慌てて立ち上がろうとした。が、裏山、裏々山の散策で散々に酷使した上に上級生に投げ飛ばされた身体は全く言うことを聞かず、彼女はぐちゃりと地面へ崩れ落ちた。慌てて喜八郎が滝夜叉丸に駆け寄り、その身体を起こす。滝夜叉丸は自分の情けない姿に赤面して、慌てて立ち上がろうとし――再び崩れ落ちた。
「あっはっはっはっ……滝夜叉丸もやっぱり一年なんだなあ! 私はもっと早く潰れると思ってたんだが、必死について来てたもんな! 他の奴らなんて途中でへばっちゃってたのにね。よしよし、無理すんな。私が負ぶってやろう」
「い、いえ、大丈夫です。少し休めば」
「何言ってんだ、先輩に頼れってさっき言ったばっかだろ! ほれ、喜八郎、乗せろ! さあ、いけいけどんどーん!」
小平太は遠慮する滝夜叉丸の言葉など一切聞かず、ささっと彼女を背に乗せた。喜八郎も滝夜叉丸が既に限界に達していると知っているので、彼女の言い分を無視して手伝う。それに滝夜叉丸が悲鳴じみた声で何かを叫んだが、二人とも全く意に介さずに彼女を背負って出発した。
しばらくすると、小平太の背から規則正しい呼吸が聞こえ始める。何度も裏山や裏々山を往復した挙句に上級生と一戦交えて(と言っても一方的にやられただけだが)疲れ果てた滝夜叉丸は、小平太の背から感じる規則正しい振動につられて眠ってしまったのだ。それに気付いた小平太は手を引いている喜八郎と顔を見合せて、ふっと笑い合った。
「うーん、少し無理させ過ぎたかな。滝夜叉丸って絶対に無理って言わないから、何かつい楽しくなってやり過ぎちゃうんだよね」
「滝はそういう人間なんです。――自分にできないことがあるのは嫌で、自分が一番じゃないのも嫌なんです」
「あはは、凄い奴だな、滝夜叉丸は! そんで、喜八郎は塹壕堀が得意なんだよな。私も塹壕堀には自信があってな! 今度一緒に掘ろうな」
「……滝が良いって言ったら」
「おや」
喜八郎の言葉に小平太が眉を上げる。それに喜八郎は彼を見上げて呟いた。
「滝は基本的に自分が与えられた仕事は忠実に遂行する人間なんです。本当は今日だって委員会活動の途中だったはずだったのに、私が危ないと思って、自分の仕事を放り出しても助けに来てくれた。自分だって疲れていたはずなのに、急いで。――だから、偶には滝の言うこと聞こうかなって」
喜八郎の言葉に小平太は明るく笑って、彼女の頭を撫でた。他の誰がするよりも荒っぽいその行為に喜八郎は驚く。しかし、見上げた先にある太陽のような笑みに、喜八郎は何を言うべきかも思い付かずに困ってその手から少し逃げた。それに小平太は少し驚いた顔をしたが、ニッと笑って言う。
「じゃあ、喜八郎の先輩の立花 仙蔵も一緒に居れば安心か? 私は結構あいつとも仲が良いんだ! あ、ついでに少し喜八郎の身辺に気を配ってくれるようにあいつに伝えておこう。仙蔵はアレで案外強くてな、私と違って頭も良いからきっと良いようにしてくれるさ! さ、そうと決まれば早く学園に戻ろう! 少し駆け足になるけど、ついて来られるか?」
「大丈夫です」
「そっか! じゃ、いけいけどんどーん!」
喜八郎は明るく笑いながら駆け出して行く小平太の背中を追いつつ、新しい人種だと思った。少なくとも、今まで自分が接したどの人間とも違う種類の人間である。しかし、それを不快に思う気持ちはない。それどころか、仄かな好意すら感じたほどだ。それは基本的に滝夜叉丸以外の人間にほとんど感情を動かさない喜八郎にとっては珍しい事態である。彼女は滝夜叉丸を背負って尚且つ、自分を引きずるように駆けて行く男の勢いに、何となく滝夜叉丸が彼に逆らえない理由に気付いた気がした。
――誰だって、己の常識を覆す人間には逆らい辛いのだ。それが特に上級生で、それなりに尊敬できる人間であるのなら、尚更。
喜八郎は早く動いていても背中の滝夜叉丸がほとんど動いていないことに気付き、ふっと笑みを深めた。自分以外に滝夜叉丸が気を許す人間が存在するのは、淋しいけれども良いことだ。自分では彼女を常に守ることはできないし、自分自身も絡まれることの方が多い。その点、この人物ならば何があってもどうにかしてくれそうな一種の頼もしさを感じた。喜八郎は少しでも滝夜叉丸が過ごしやすくなれば良いと思いながら、次第に速度を上げていく小平太に一生懸命ついて行ったのである。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『追いかけてくる恐怖』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒