鈍行
▼とめないで
「滝姫様、本当にお行きになるおつもりですか? どうぞお考え直しを! 貴女様はやんごとなき姫君で、いずれは名高い武将の許へと嫁がれるお方。望めばそれこそ天下人の正室でも許される御身分の方が、何故わざわざご自分から御身を貶めなさいますのか」
「くどいぞ、志摩。いい加減にしろ。わたくしは決めたのだ、己が身は己で立てる。第一、嫁いだ夫が立身出世できるなど分からないではないか。仮に出世したとしても、このきな臭い世の中だ、いつ何が起こるか分からん。それならば夫などに頼らず、自分で生きる術を選んだ方がずっと良い。――わたくしはもう決めたのだ。もう誰の意見も聞かない。
お前がわたくしを心配してくれているのは分かっているし、心から有り難いとも思っている。けれど、分かっておくれ。……この家に居たのでは、わたくしは幸せになれないのだ。あの女が居る限りは、そして、わたくしが生きている限りは。それならば、どちらかが出ていくしかあるまい? 大丈夫、わたくしは強い。次郎君がこの家を継ぐ頃には、わたくしも立派な忍として身を立てている。わたくしは優秀だからな、すぐにお前と紀伊きい、二人とも養えるくらいの金を稼いで来てやろう。それまで待っておれ」
名門貴族である平一門の屋敷、その一室でひとりの少女とひとりの侍女が言い合いをしている。言い合いというよりも、主である少女の無茶を侍女であり乳母でもある志摩が何とか押し留めようとしているのだ。しかし、少女――名を滝姫という――は志摩の言うことなど全く聞く耳持たず、持前の弁舌で逆に彼女を言いくるめる始末。志摩は埒が明かないと、先程から黙って自分たちのやり取りを見ている自分の娘へと視線を投げた。
「これ、紀伊。お前も何とか申し上げて、滝姫様をお引き留めなさい! それでも姫の乳兄弟かえ!?」
「……だってさ、滝。さすがに私もいくら何でも無茶だと思うけど。だって、忍術学園って男しか入れないんでしょ? 事情がある人や熱意があるならば女子でも特別に入学を許可されるって言ったって、その後の生活は大変だよ? 男の振りをしなくちゃならないんでしょ? 今はまだ良いかもしれないけど、歳を取れば取るほど、ごまかしは利かなくなっていくからね」
「紀伊、姫様に対して何という口の利き方です! 何度言っても分からない子だね!」
侍女でありながら主に向かって余りにもぞんざいな物言いをする娘に志摩が悲鳴じみた声を上げた。しかし、娘は元より主すらもそれに関しては無頓着で、志摩ひとりがキイキイ喚き立てる結果となる。二人はそれを尻目に、更に話を続けた。
「学園が特別に入学を許可する、ということは、多分何らかの保護も受けられるのだろう。入学を許可しておいて、後は知りません、じゃ何かあった時に責任問題になるだろうからな。それに心配は無用。何せわたくしは誰よりも優秀なのだ。男にだって負ける気はせん。忍術学園がどのような場所かは知らんが、わたくしと一緒に生活する奴らがわたくしの優秀さに歯噛みする様が今からでも思い浮かべられるくらいだ。あーっはっはっはっはっ!」
「滝はしっかりしているけど、変なところ抜けてるからなあ……心配。――本当に、行くのやめないの?」
「やめないさ。――言ったろう? ここに居ても先は無い。ならば、他の選択肢を選ぶのは当然のこと。もし失敗したのなら、その時にまた考えるさ。案ずるよりも生むが易し、虎穴に入らずんば虎子を得ず、何事もやってみなければ分からんのだからな」
高笑いをする滝姫に紀伊と呼ばれた少女が溜め息を吐いた。生まれた時から一緒の二人だが、性格はまるで正反対だ。何事も自分が一番でないと気が済まない滝姫と、逆におっとりでマイペースの紀伊。しかしながら、彼女たちは常に固い友情で結ばれ、以心伝心と言わんばかりにお互いの気持ちがよく分かった。何より、滝姫が一度決めたら絶対に決意を翻さない人間だと知っていたので、紀伊は溜め息を吐くだけでその決意を受け入れる覚悟を決めた。――母以上に彼女は滝姫について理解していたので。
「――では、姫。せめて紀伊をご一緒にお連れくださいまし」
「はあ?」
「へ?」
しかし、その二人の度肝を抜く発言が志摩から飛び出した。それには人の度肝を抜くことにかけては天下一品の滝姫も逆に驚かされる。当事者の紀伊に至ってはぽかんと口を開けて母の顔を眺めていた。そんな二人の反応も意に介さず、志摩は続ける。
「滝姫様おひとりでそんな危険な場所に行かせるわけにはまいりません。それならばせめて、娘をお連れくださいまし。何かと至らぬ娘ではございますが、少しは姫様のお役に立ちますでしょう」
「し、志摩っ! 何を馬鹿なことを言うておる! お前は娘が可愛くないのか!? わたくしのように優秀な人間ならともかく、紀伊のようにぼけっとして、己のことを全く理解していない娘が男ばかりの場所に入って無事でいられると思うてか! わたくしにはさすがに及ばないが、紀伊もまた美しい顔立ちをしている。このように無防備な娘を獣どもの巣に突っ込めるわけがなかろう!」
「それは姫様もご一緒でございます。――姫様がどうしてもお行きになると仰るなら、どうぞ娘もお連れくださいまし。これは志摩の一生のお願いでございます」
「それは聞けぬ。わたくしひとりなら何とかなるが、紀伊がついて来ては足手まといだ。断固認めぬ!」
滝姫と志摩が睨み合う。緊迫した空気の中、間延びした声が割って入った。
「良いよ。ついてく」
「紀伊!? 何を馬鹿なことを……!」
志摩と睨み合っていた滝姫が紀伊へと向き直り、彼女を怒鳴り付けた。しかし、紀伊は全く平気な顔で肩を竦める。
「だって、ここに居たって滝が居なきゃつまらないもの。それに滝が居なければ私の役目もないし。なら、一緒に行った方が楽しそうじゃない? それに生まれてからずっと一緒だったんだもの、今さら変わるってのも何だか変な気がするし。滝の抜けてるところを私が補って、私の抜けているところを滝が補ってくれるなら、どんな場所でもきっとやっていけるよ」
「紀伊……お前、ちゃんと分かって言ってるんだろうな?」
「失礼な。これでもちゃんと考えてるんだよ。――良いじゃないか。それに、私だってここに居ても先はないもの。滝がこの家の跡取りであるならば、私にもそれなりの縁は来るだろうけど、そうじゃないなら誰に何されるか分かったもんじゃない。それなら、私だって自分の力で自分の未来を勝ち取りたいよ。滝と同じにね」
「しかし」
「くどい。――二人で一緒に行けば良いじゃない。それで母上も納得するんだし、殿からも滝ひとりの時よりずっと許可してもらいやすくなると思うよ。それに何より、二人なら淋しくないでしょ」
紀伊の言葉に滝姫は図らずも涙が零れそうになった。正直なところ、決意はしてもひとりで誰も知らない、それどころか同性がほとんど居ない場所に飛び込むということに不安を感じていたのだ。生まれてからずっと一緒の紀伊が傍に居るのなら、それはどれだけ心強いことだろう。しかし、自分の我儘で彼女を危険に晒すわけにはいかない。更に反論しようとした時に、紀伊がぽつりと呟いた。
「滝、止めないでね。……私だって、ここでさよならは嫌だよ」
「お前は……馬鹿じゃないか? わたくしのように優秀ではないし、ぼけっとしているし、何があっても知らないぞ?」
「大丈夫。これで案外しぶといから。――滝だって知ってるでしょう?」
「……ああ、知ってる。知っているよ」
紀伊の言葉に滝姫は諦めたように呟いた。彼女へといざり寄り、静かにその手を握る。
「最後に一度だけ訊く。――本当に良いんだな?」
「これからも宜しくね、滝」
紀伊は滝姫の言葉に珍しくにっこりと笑って、彼女の手を握り返した。それに滝姫は彼女の手を額に当て、小さな声で――それこそ、紀伊にすら聞こえないような声で――「有り難う」と呟いた。
「では、お前たちの入学を特別に許可しよう。
この学園でお前たちは男として生活してもらう。そのためにはまず名前が必要じゃ。まずは平の滝姫」
「はい」
「そなたには平 滝夜叉丸という名を与えよう。今日からそなたは平 滝夜叉丸と名乗るのじゃ」
「はい、有り難うございます。お世話になります」
正座してかしこまる二人を前に、学園長は鷹揚に笑った。滝姫は新しくもらった男名に対し、深々と礼を取る。学園長はそれにゆったりと頷いた後、隣でぼうっとしている紀伊の方へと視線を投げた。
「そなたは今日から綾部 喜八郎じゃ。――よく学び、よく励むように」
「はい、ご厚意感謝いたします」
紀伊もまた、同じく学園長に向かって頭を下げる。小さな二つの頭が畳に当たるほど深く下がるのを見ながら、学園長は明るく笑った。
「ほっほっほっ……忍術学園へよう来たの。歓迎するぞ、滝夜叉丸、喜八郎」
――こうして、二人の学園生活は幕を開けたのである。
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「最後の約束」より【遠いあの日に約束をした】――『とめないで』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒