鈍行
▼でも ね
「なあ、雷蔵。お前、三郎と何かあったのか?」
そんなことを聞いてきたのは、同じ組の竹谷 八左ヱ門だ。雷蔵は彼の心配そうな言葉ににこりと作り笑いを浮かべて、困ったように首を傾げた。
「うん……ちょっと、お互いの見解の相違がね」
「ケンカイのソーイって……何かよく分かんねえけど、要するに喧嘩したんだよな? お前ら同じ部屋なんだし、早く仲直りしろよ? それにほら、お前らがぎくしゃくしてっとさ、三郎は学級委員長だしさ、何か俺たちまで居心地悪くなるしさ。……勝手言って悪いけど。ま、でもとにかく、お前らは仲良くしてる方が合ってるよ。拗れないうちに何とかしろよ?」
「――そうだね。心配してくれて有難う、ハチ」
その笑みが作り物だと分かったのだろう、八左ヱ門は元気付けるように雷蔵の背を叩く。しかし、雷蔵の身体から感じるはずの温かさや柔らかさはそこにはなく、感じたのは何か固い輪のようなものと手のひらに響く重い感覚だけだった。
「いってえ……!? ら、雷蔵、おまっ、何……!?」
「あ、ごめん、言い忘れてたね。――僕、今身体を鍛えようと思って鎖帷子着けてるんだ。ほら、重たい負荷を掛けて運動したりすれば、力付くでしょ? それでね。
ごめんね、ハチ、痛かったでしょ?」
八左ヱ門は雷蔵のその言葉に目を丸くした。――鎖帷子など、身軽に動かねばならない忍には無用の長物だ。それをいくら訓練のためとはいえ、敢えて身に着ける雷蔵の気が知れなかった。特に、力を付けたい、という理由では尚更。
本来、忍に力が必要かと言えばそうでもない。何故ならば、彼らに求められるのは戦闘能力よりも情報収集能力であり、忍という存在自体が侵入・攪乱などを主とする非戦闘要員だからである。勿論、武器や道具を扱うためには力も必要だが、元より忍が扱うのは携帯できる程度のもので、扱うのにそこまで力を必要とするのは火縄銃や大振りな武器くらいだ。それも身体の余り大きくない雷蔵には扱いにくいものばかりであり、雷蔵がそこまでして力を欲する理由が八左ヱ門には理解できなかった。
「……雷蔵、そこまでする必要あんのか?」
「――ないと言えばないし、あると言えばある、かな。……でも、ね。僕は力が欲しいんだ。今のままでは満足できない」
雷蔵が小さく漏らした言葉に、八左ヱ門は初めて多くを望まない雷蔵の欲を見た気がした。どこか遠くを見る瞳は、既に何かを捉えている。そして、雷蔵はその何かに向かって既に歩み出しているのだ。八左ヱ門はそれ以上雷蔵に何を言うこともできず、ただ「無理すんなよ」と告げて別れた。
――それが数日前の出来事である。
「……しっかし、お前らが別れるなんて初めてじゃねえ?」
「だろうな。くじに細工がしてあった。何が何でも私と雷蔵を別れさせたかったらしい」
組を二つに分けての札取り合戦。普段は十割の確率で一緒の組になる三郎と雷蔵は、今回初めて敵同士として相見えた。普段は並んでいる同じ顔が対面しているのは何だか違和感があり、ろ組全体が居心地悪そうに身じろぎした。その中で唯一平然としているのは雷蔵で、彼女は自分を物言いたげに見詰める三郎の視線を静かに受けて彼を見返している。それに三郎と同じ班となった八左ヱ門が顔を歪ませ、小さく溜め息を吐いた。
「……お前ら、まだ仲直りしてないわけ?」
「元々、喧嘩などしていない。――私が勝手に怒っているだけだ」
八左ヱ門は三郎の言葉に目を見開く。三郎が己の非を認めるのは珍しい。雷蔵に対しては素直に謝ることも多い三郎だが、こういった状況では意地を張って特に頑固になる。その三郎が己が悪いと認めるということは、二人の間がよっぽど拗れているのだろう、と八左ヱ門は他人事ながら二人の仲を心配していた。
「今はそんなことどうだって良いだろう。それよりも実習のことを考えなければ」
「……まあ、そうだな」
八左ヱ門はどこか胸の奥に詰まるものを感じながらも、三郎の言葉に頷く。しかし、三郎自身が一番雷蔵が傍に居ないことに違和感を感じているようで、ふとした瞬間に隣を見るなど、注意深く彼を観察していた八左ヱ門にしか気付かないほど些細な仕草でだけだが、雷蔵の不在にひどく居心地の悪そうな様子を見せていた。
しかし、流石に頭は鈍っていないようで八左ヱ門たちを集めるとあっという間に作戦を立てて行く。時折他の人間の意見を入れながらもどんどんと作戦を練り上げる三郎に、八左ヱ門は目を丸くするより他に何もできなかった。
「――で、ハチ。お前がこの札を持て」
「え? ……って、はあっ!?」
とは言え、三郎が突然己へ突き出した木札へ思わず大声を上げる。それは今回の実技で雷蔵たちと取り合うこととなっている木札であり、八左ヱ門は当然のように三郎が隠し持っていくものだと思っていた。他の人間も八左ヱ門と同じ考えであったようで、八左ヱ門と三郎に注目が集まる。それに三郎はただにやりと口角を上げ、己を見詰める周囲を見回した。
「――そう、誰もがそう思っている。多分、向こうの奴らも。
だからこそ、私が持たない。相手の裏をかいてやるのさ。多分、あちらは私を捕まえるためにある程度の人数を割いてくるはずだ。私が札を持っている振りをしていれば、囮に使えるだろう。
それに、八左ヱ門は生物委員だ。裏々山には地の利がある。相手に見つからないように逃げるなら、この中で最も裏々山に詳しい八左ヱ門が適任だと思う。更に他にも何人か怪しげな囮を出せば、尚更だ。――こう言っちゃ悪いが、八左ヱ門は猪突猛進の武闘派だ。八左ヱ門に札を持たせているなど、あちらは誰も思わないだろうよ」
くつり、と笑う三郎の様子に八左ヱ門は腹が立たないでもなかったが、そこまで言われては持たないわけにもいかない。己にこの札が守り切れるかと不安を抱えながら、八左ヱ門は手渡された札をそっと懐にしまい込んだ。
一方、雷蔵たちの組は揃って車座を組んで顔を突き合わせていた。
普段は学級委員長として、また〈天才〉と称される才能や頭脳を持ち合わせている三郎に頼ることが多い彼らである。しかし、その三郎をあちらの組に決まった以上、彼らは三郎抜きで何とかするしかない。慣れない上に普段音頭を取る人間も取られ、彼らは困惑して己らの顔を見合わせた。
その中で唯ひとり、雷蔵だけが眉間にしわを寄せて唸っている。また悪癖である迷い癖が出たか、と周囲が目配せし合い、ひとりでうんうんと唸り続ける雷蔵に隣の者が声を掛ける。それにハッと顔を上げた雷蔵は、己に集中する視線に照れ笑いを浮かべた。
「ごめん、三郎が何をやってくるんだろうって考えたら訳分かんなくなっちゃって」
「三郎の考えなんて、読めないだろ。――雷蔵と三郎が別の組に分かれるなんて初めてで、こっちも驚いてるし」
「まあ、ねえ。でも……ほら、僕たちだっていつもいつも一緒に居られるってわけじゃないから、こういう機会があるのは良いことだと思うんだ。それに一度、三郎とはやり合ってみたかったんだよね」
同級生の言葉に雷蔵は苦笑を浮かべた。三郎の行動は確かに訳が分からないように思える。しかしその実、彼の行動はひどく合理的だ。
三郎は常にその状況の中で一番良い方法を取ろうとする。それは逆に言えば最短の道であり、最良の道だ。それはつまり同じ思考回路の人間からすれば読みやすいことこの上ないわけであるが、それを読まれないのは彼の視界が広いためである。けれど、常に彼と一緒にやってきた雷蔵にとって、彼の思考を読むのはそう難しくはないのだった。――但し、彼の捻じれた思考を追い過ぎて頭が沸いてしまっていたが。
「まあ、皆ももう予想が付いてると思うんだけど、三郎は絶対僕らの裏をかこうとすると思う」
「そりゃそうだろうなあ……ま、あいつが馬鹿正直に札取りして来るとは最初から思ってないし」
少々ひどいくらいの同級生の物言いに雷蔵は再び苦笑を浮かべる。日頃の行いというやつだろうか、と少しだけ三郎に同情も覚えるが、今は彼を思い遣る場面ではない。
溜め息ひとつで頭を切り替えた雷蔵へ、傍らに居た同級生が声を掛けてきた。
「――で? 一応は読めたのか? 三郎と一番一緒に居るのは雷蔵だもんな。どうよ?」
「ううーん……読めたと言うか……。
多分、今は皆三郎が札を守る役になるんじゃないかと思ってる。でも、その裏をかいて三郎が札を持たない可能性があるんだ。でも、更に僕がそう読むことを承知で、敢えて三郎が札を持つ可能性もあるし……」
ぶつぶつ、と再び思考の迷路へ入り掛けた雷蔵を同級生たちが引き留めた。このままだと開始直前まで(下手をすれば開始時間過ぎても)寝てしまう可能性がある。雷蔵は迷い癖という悪癖がある以外は実に優秀な忍たまなのだ。こんなところで戦力から外すわけにはいかない。無理矢理雷蔵を思考の海から引きずり出し、彼らは再び作戦会議を続ける。
「だけど、三郎が俺たちの裏をかいて札を持たないってのは、俺もアリだと思うんだ。俺は三郎の思考を読めるわけじゃないけど、三郎がもし札を持ってると仮定したら、どうしたって俺たちは人数を割かなきゃならなくなる。つまり、そこが三郎の狙いってわけだよな、雷蔵?」
「うん。多分、そう仮定した場合、三郎は自分を囮に使ってくると思う。自分に人数を集中させられれば、当然他の奴らを追う人間は減るからね。三郎はそれだけの実力を持ってると自他共に認めているし、数人がかりでようやく捕まえた揚句に札がなければ、こっちは当然してやられた感も強くなる。いかにも三郎が喜びそうな状況だ」
「……そこまで詳細に言われると、いざその企みが成功した時に三郎の喜ぶ顔が思い浮かんで凄く腹立つな」
雷蔵の言葉に車座となったひとりがぼそりと呟く。それに大多数が思わず頷き、彼らには妙な連帯感が生まれる。これも日頃の行いの差だろうな、と雷蔵が彼らの様子を苦笑しながら見守っていると、途端に複数の目が雷蔵へ向いた。驚いて目を丸くする彼女に、彼らのひとりが尋ねる。
「じゃ、もし三郎が囮だったとして、そうしたら札は誰が持つと思う?」
「え? ううーん、そうだなあ……あっちで裏々山に一番詳しいのは生物委員のハチだけど、組で一番すばしっこいのも向こうに行ってるし、隠れるのが上手い子も居るし……」
「あー、はっちゃんか。アイツはそれっぽいよな。三郎とも特に仲良いし、あれで頼りになる奴だし。裏々山なら確かにはっちゃんのナワバリだもんなあ」
まるで八左ヱ門が獣と同じであるかのような反応に雷蔵は思わず自分の友人が一体周囲にどう思われているのか、と考えないこともなかったが、その疑問も今は封じておく。雷蔵の頭の中で散らばっていた物事が契機となって周囲の作戦を動かしている、ということに彼女は全く気付かぬまま、次第に活発になっていく作戦会議の行く末を眺めていた。
「――じゃあさ、雷蔵。お前はどう思う? 三郎が囮だったとしても、三郎に人数を割かないわけにはやっぱりいかないじゃないか。野放しにしてると危険だしさ。かと言って、囮かもしれない奴に何人も割くのもアレだし。どうよ?」
「あー……それなんだけど」
雷蔵はそこで少しだけ口ごもり、視線を泳がせてから続けた。自分の懐に収めたものの感触を服の上から確かめ、一呼吸で覚悟を決めて顔を上げる。己を見守る友人たちの顔を見回してから、彼女は続けた。
「――僕に三郎、任せてくれないかな」
「え……任せるって、その、雷蔵ひとりにか?」
「うん。三郎と一対一で一回やってみたいんだ。……勝手なこと言ってるって分かってるけど、組手じゃ駄目なんだ。どうしても、この場が欲しい。だからお願い、やらせてくれないかな?」
三郎の実力は組の皆が、また学年全体が認めるものである。いくら三郎といつも一緒に居る雷蔵と言えど、その実力差は彼らもよく知っているはずだ。けれど、雷蔵の真剣な顔と、彼女がずっと身体に生傷を作りながら鍛練をしていることを知っていた彼らは、一度顔を見合わせた後にニッと笑って頷いた。
「他に誰か当てがあるわけでもないしな、やってみたら良いんじゃねえ? 俺、雷蔵が勝つに今日の夕飯の唐揚げ賭けるわ」
「え? じゃあ、俺も雷蔵に張ろうかな」
その場で雷蔵と三郎どちらが勝つかで賭けが始まり苦笑するものの、あっさりと自分の我儘を通してくれた友人たちに雷蔵は感謝の念を深くする。思わず頬を赤らめて笑うと、彼らもまた笑った。
「雷蔵、最近頑張ってるしさ。ここいらで三郎の奴の鼻っ柱、叩き折ってやれよ! 俺は応援してるぞ!」
「そーだ、そーだ! あのおちゃらけ学級委員長をもっと慎ましやかにさせてやれ!」
同級生たちの盛り上がりように三郎はどれだけ日頃の行いが悪いのだろうか、と雷蔵は少々不安にもなったが、それでも彼らの様子が決して悪いものではなかったために何も言わずにただ笑って頷いた。
その後、更に作戦を詰めた後に立ち上がる。もう開始時刻は目前だった。
「――案外暇だなあ、もっと来るかと思ってたんだが」
木の枝の上に腰を下ろしていた三郎は、札を求めて群がってくると想像していた級友たちが一向に来ないので小さく溜め息を吐いた。まだ己を見つけていないのか、と考え、もう少し分かりやすい場所へ移動するかと枝の上で立ち上がる。枝から軽く飛び降りた後、ハッと人の気配を感じてすぐさま身構える。しかし、予想されていた襲撃は起こらず、少し離れた場所から人の動く音が聞こえた。
「見つけたよ、三郎」
「……雷蔵」
茂みを乗り越えて出てきたのは、彼が今最も会いたくない人物。――不破 雷蔵。その顔を模しながらも、彼女が浮かべる表情とは全く違う苦々しげな表情を浮かべ、三郎は小さく彼女の名を読んだ。
できるならば戦いたくなどない、と実技授業の目的にそぐわぬことを考えるが、目の前の雷蔵を見る限りそれも許されなさそうだ。一瞬、逃亡してしまおうか、という考えも頭に浮かんだが、それをやれば目の前の少女から失望され、軽蔑されることは分かりきっており、その選択肢を三郎は即座に捨てた。土を踏みしめ、構える。他に誰も居ないのが幸か不幸か考える暇もなく、三郎は地を蹴って己へ飛び込んできた雷蔵の一撃をかわした。
ヒュン、と風を切る音が耳元に届く。その勢いや重さは以前の雷蔵にはなかったもので、三郎は確かにひとつ上の先輩が彼女に影響を与えていることを感じた。それを悔しく思う暇もなく、第二撃、第三撃が続く。最小の動きでかわしはするものの、雷蔵の腕は以前と比べて格段に上がっていた。
「っ、随分と、荒っぽくなったもんだ!」
「お蔭様でね! 前に三郎と組手していた時より、強くなったでしょう?」
連続して繰り出される攻撃の合間に小さく呟きを漏らすと、雷蔵がひどく嬉しそうな表情で笑った。まるで親に誉められた小さな子どもだ、と三郎が思った瞬間に重い蹴りが右から襲い、避ける暇もないままに彼はそれを腕で受けた。どすん、と重たい感覚が腕に伝わり、痺れるような痛みが走る。すぐさまに間合いを取って雷蔵から離れたものの、三郎は未だにびりびりと衝撃を伝えている己の腕を信じられない気持ちで見下ろした。
「三郎、よそ見してて良いわけ? 僕、三郎に簡単にやられるつもりないよ」
「――っ! ……なるほど、自信満々ってわけか。それで、雷蔵ひとりなわけ?」
「僕がひとりかどうかは、自分で気配でも探して確かめたら? 仮にも忍たまなんだもん、それくらいできるでしょう」
三郎が雷蔵を挑発するも、彼女はそれに乗ってこない。それどころか、逆に三郎を挑発してくるほどで、なるほど、以前の雷蔵とは随分違うことを見せ付けてくれた。それに三郎は平然と笑みを浮かべながらも、彼女の変化を促した存在が自分ではないことにひどく焦燥と苛立ちを感じてしまう。そんな自分に堪らなくなり、三郎はここで初めて雷蔵へ攻勢に転じた。
雷蔵が力重視の攻撃法だとすれば、三郎の得意は己の速さと技巧で相手を翻弄することである。鋭い風切り音を立てる雷蔵の拳を軽く避け、三郎はそのまま彼女の背中へ回り込む。そのまま勢いを利用して雷蔵の首筋へ蹴りを決めようとしたが、さすがにそうは問屋が卸さない。彼女もまた素早く反転し、三郎の蹴りを腕で受けた。
がつり、と骨同士がぶつかる鈍い音が響く。けれど、雷蔵はそれに少し顔をしかめただけで、三郎の足を腕で押し払うとすかさず自らの身体を間合いに押し込んで攻撃を仕掛けた。びゅ、と鋭い拳が三郎の頬を掠る。三郎は咄嗟にその拳を弾き、己の右腕を伸ばしていた。
ガツ、と柔らかい肉に包まれた骨の感覚が腕に伝わる。反射とはいえ、雷蔵の頬を殴ったのだ、と気付いた三郎は、己の行動に思わず動揺した。しかし、雷蔵は全く気にした様子もなく、むしろ笑みすら浮かべて三郎へ反撃してくる。その攻撃の鋭さに三郎ももう避けるだけではいられなくなり、いつの間にかお互いに拳や蹴りをかわし合っていた。
次第に雷蔵にも三郎にも生傷が増えて行く。
三郎はと言えばこの殴り合い自体も不本意で、一瞬の隙をついて彼女と間合いを取る。これ以上は雷蔵と戦いたくない、という己の心に従って逃げを打った。
それが弱さだと三郎は知っていたが、まだ十二の子どもである。感情を理性で捩じ伏せるほどの余裕もなく、彼は素早く更に雷蔵から間合いを取るとその場から撤退するべく手近な木の枝へと飛び上がった。素早さなら負けない自信が三郎にもある。本気で彼女と遣り合わないことに後で怒られることは分かっていたが、三郎にはそれ以上良い方策が思い付かなかったのだ。
――が、三郎は忘れていた。雷蔵が一度こうと決めた際にはとても頑固であることを。
「逃がすと思うの、三郎!」
じゃらり……と耳慣れない音が聞こえたと思った時には、三郎の足に布が巻かれた鎖が絡みついていた。繋がった先は当然ながら雷蔵の手許で、三郎が気付いた時には容赦なく地面へと力尽くで引きずり落とされていた。さすがに受け身を取ったので骨折するようなことはなかったが、当然身体は痛い。思わず呻いた三郎を、雷蔵は容赦なく鎖を手繰って引き寄せた。
ずり、と地面が背をこする。三郎は首を上げて見えた雷蔵の瞳が本気であることを改めて認識すると、自由になる手で足に絡んだ鎖を外した。学園内の実技授業ということで武器は基本的に刃を潰されているし、鎖には布を、分銅は実用よりかなり軽くされているが今の三郎にとってこの状況は明らかに不利だ。身体をそのまま反転させて逃げようとする三郎だが、その前に先程足に絡みついていたはずの鎖分銅が彼の頬を掠って傍らの木へぶつかった。木っ端が飛び、三郎の頬に当たる。ぎょっとして思わず振り返ると、鎖を投げた雷蔵が彼を見詰めていた。
飛び道具は彼女の先輩――中在家長次の得意武器であるが、彼の扱う得物は縄である。しかし、今雷蔵の手許にあるのは鎖分銅。多分、実際には鎖の先端に鎌を付け、鎖鎌として使用するのだろう。ひとつ上の先輩たちと鍛練していると聞いた時点で似たような武器を使い始めるのでは、と予想はしていたが、想像以上に重量感のある武器に三郎は一瞬頭が真っ白になった。
その一瞬の隙を雷蔵が逃がすはずがない。彼女はさっと解かれた鎖を今度は三郎の左腕に絡ませ、彼が怯んだ時点でその鎖を捨てた。元より鎖の届く位置である。三歩で彼との距離を詰め、雷蔵は三郎の胸ぐらを掴んで押し倒した。すぐに馬乗りになり、彼の身体を押さえ付ける。既に二人の体格に差は出てきていたものの、そこは忍たま、大した力を使わずに相手を押さえ付ける術はとうに学んでいた。
「――捕まえた」
肩に膝が乗っているため、動こうにも動けない。足で攻撃することはできたが、三郎にはもうそんな気も起こらなかった。汗みずくで己を見下ろす雷蔵から滴った汗が彼の顔に掛かる。逆光で雷蔵の表情は伺えないが、瞳はひたと三郎を見詰めていた。
「僕の勝ちだよ、三郎。――僕、強くなったでしょう?」
「……ああ、そうだな」
「うん。で、ちょっとごめんね」
雷蔵は三郎の肩から膝をどけたかと思うと、三郎の上着の合わせを思い切り寛げた。黒の肌小袖も捲られて驚く三郎を他所に、雷蔵は帯の部分などを確認してから三郎の上から退いた。
「札、やっぱり三郎は持ってなかったか。――ということは、あっちかな……」
「え?」
「あ」
三郎が彼女の呟きに反応した次の瞬間、雷蔵が小さく声を漏らした。遠くで狼煙が上がっている。三郎も起き上がってその瞳を眇めると、煙の色を確認しようとした。――青なら三郎たちの札が奪われ、赤なら雷蔵たちの札が奪われた証だ。
「残念だけど三郎、あれは青だよ。――僕たちの勝ちだ」
「何で…………まさか!」
ただ煙が上っていることを確認しただけで勝利を宣言した雷蔵に、三郎はさっと血の気を下げた。彼女は青く昇る煙を眺めてから、ふわりと微笑んでその懐――正確には胴衣を巻いているのでその中からだが――三郎たちが守っていたものと同じ木札を取り出した。
「今回は僕が札守りだったんだ。……残念だったね、三郎」
この時、三郎は初めて自分が負けたことを知った。
今まで〈守る対象〉だったはずの雷蔵に負けた悔しさや、逆に雷蔵がここまで強くなったのだという感慨、他諸々の感情がない交ぜになって訳が分からなくなる。ただ唇を噛み締めて黙っていると、雷蔵がひどく晴れやかな笑みを浮かべて言った。
「ねえ、三郎。僕、本当に強くなったでしょう?」
――逆光というだけでなく雷蔵の笑顔がひどく眩しく感じて、三郎は彼女が直視できなかった。
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「最後の約束」より【記憶の中で】――『でも ね』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒