鈍行
▼でも ね
「――ただいま」
「おかえり」
授業の汗を流して雷蔵が戻ってくると、三郎は布団の上に腰掛けてどこか遠い場所を眺めていた。雷蔵はやはり自分に負けたことが効いているのだろうか、考えながら、三郎が一緒に敷いてくれていた布団の礼を述べる。普段ならばそれに笑顔を見せる三郎だが、今はほとんど上の空で雷蔵の声も聞こえているのかいないのか分からない状態だった。
雷蔵は今が一番ちょうど良かろうと思い、彼の視界を阻むように障子を閉める。それにようやく視線を雷蔵に向けた三郎は、彼女の青く痣になった頬を見詰めて視線を落とした。障子を閉めて傍らに戻ってきた雷蔵の頬に手を伸ばし、その痣に触れる。
「……痛むか?」
「大したことないよ、これくらいなら慣れてるし」
「そんなものに慣れるな!」
七松と遣り合う時の方がよっぽど強烈だ。そんな意味を込めて雷蔵は笑ったが、三郎はそうは取らなかったらしい。己の頬に手を当てて笑う雷蔵の手を掴み、悲痛なまでの声で叫んだ。しかし、それに雷蔵は静かに三郎の瞳を覗き込むと、目を合わせたまま呟く。
「それは、僕が女だから? ――忍たまとしては認められないってこと?」
「そうじゃない! そうじゃないが……!」
「そうじゃなければ何なの?」
三郎が雷蔵を大切にしてくれているのは知っている。女子ということでこの二年と少し、ずっと便宜を図ってもらってきた雷蔵が誰よりもそれを実感しているのだ。けれど、今までの雷蔵はそれを享受するしかなかった。三郎が雷蔵を守るのは彼が自分を弱い人間だと認識しているからだと知っていたから。
しかし、今は違う。雷蔵は少なくとも三郎に本気を出させた。頬に出来た青痣が何よりの証拠だ。ようやく三郎と同じ場所に立てたのだと、雷蔵は嬉しかったくらいなのだから。けれど、三郎にとってはやはり雷蔵は〈守るべき存在〉のようだ。その認識を変えるのは今しかない、と雷蔵は何故か知っていた。
「三郎、僕はそんなに弱い?」
「そんなわけないだろう!」
「うん、僕もそう思う。三郎から本気で掛かってこられたんだもん」
雷蔵の言葉に三郎は苦痛を堪えるような表情を浮かべる。そんな三郎に雷蔵は気付かない振りをして、話を今日の実習に向けた。
「――今日、三郎すごくびっくりしてたね。僕が札を持ってるだなんて思わなかった?」
「それもある……が」
「三郎を追ったのが僕だけで、他の人間は八左ヱ門たちを追っていたから?」
言葉を濁した三郎に雷蔵はくつりと笑った。彼の裏をかけたことが小気味良く、また誇らしい気持でもあったからだ。
「うん、僕の考えてることの裏をかかれるかなーとも思ってたんだけどね。今回は分かりやすい作戦で良かったよ」
「……〈分かりやすい〉?」
雷蔵の言葉を鸚鵡返しにする三郎に、雷蔵は少し意外そうに続ける。
「三郎が考える作戦、最初はいつも単純なものから始まるじゃない。そこからどんどん複雑化させていくでしょう? 僕だって三郎とずっと一緒に居たんだよ、三郎が最初に考える作戦ぐらい分かるよ。時間もなかったし、あんまり練らなかったでしょう。それがこっちには功を奏したわけだけど」
その言葉に三郎は初め唖然とし、次いで拳を固めた。時間がなかったことはそうだが、それでももう少し練ろうと思えば練られたはずだ。そこで雷蔵たちを甘く見て、作戦を単純なままで終わらせたのは自分の責だ。しかし、三郎はそこまで考えてあることに気付いた。
普段ならば、三郎の傍には常に雷蔵が居る。彼女が傍らでありとあらゆる状況を想定して悩みに悩むため、その悩みを打ち消すために三郎は様々な作戦や対応策を考え出していたのだ。自分が考えている以上に雷蔵が己の行動に食い込んでいたことに気付き、三郎は今更になって愕然とした。
「……じゃあ、君が木札を持ってたのも君の作戦かい?」
「まさか! 僕はほら、こっちの組で一番足の速いアイツに持っていてもらおうと思ったんだけどね、皆が僕が三郎に突撃するなら僕が持ってるって誰も思わないだろう、って言われて押し切られたんだ。お蔭でこっちはいつ三郎に負けて奪われるんじゃないかとひやひやだったよ。僕が三郎に反撃される前に他の皆が札を見付けてくれて、本当にほっとしたんだ」
照れくさそうに笑う雷蔵の言葉に三郎は己へ与えられていた好影響が他の人間にも与えられるものだと改めて気付かされ、尚更に愕然とする。今まで誰も――それは三郎ですら――気付いていなかった雷蔵の秘めたる実力が、今回で明らかになったのだ。
今までは無意識であれ、自分の傍に無条件で在った雷蔵が他の人間に奪われるかもしれない、という危機感を感じて三郎は更に拳を握り締める。同時に彼女の〈強さ〉に見て見ぬ振りをして、いつまでも自分の傍に留めようとしていた己に気付いて、三郎は己の澱んだ感情の深淵を見せられたような気分になった。
三郎の変化に気付いたのだろう、雷蔵は一度言葉を切って彼の顔を覗き込む。己の顔を模した三郎の顔が表情をまるで失くしているのに気付き、雷蔵は強く握り締められた拳をそっと取った。手のひらに爪が食い込むほど握り締められたそれを解くようにゆっくりと拳の間に指を差し込み、雷蔵は唇を噛み締める三郎へ言葉を掛けた。
「ねえ、三郎。……僕に負けて悔しいのは分かるけど、それってあんまりなんじゃない?」
その言葉に三郎の視線が雷蔵へ向く。それに雷蔵は駄々をこねる子どもをあやすような調子で続けた。
「僕だって二年と少し、君と同じようにこの学園で学んだんだ。それなりに成長するさ。――勿論、三郎が抜きん出ているのも分かってる。それは三郎も自負しているところだろうし、僕も次また三郎に勝てるかどうかは分からないから。
でもね、三郎。僕のやったこと見ない振りしないで。僕だってちゃんと忍術学園の忍たまやってるでしょう。ちゃんと今の僕を見て、それから答えて」
雷蔵はそこでもう一度言葉を切って、真正面から三郎を見詰めた。三郎は動揺もあるのだろう、雷蔵の視線を受け切れずに視線を逸らす。雷蔵はそんな三郎の視線を取り戻すように繋いだ手を引いて揺らし、それからゆっくり続けた。
「――君は僕をどうしたいの? どうしてもくのいち教室に入れたいの? それとも……学園を辞めさせたいの?」
「くのいち教室に行くのは良いと思ってるが、辞めさせたいだなんて思ってるわけないだろう! そう思ってるなら、君が学園で生活するのを助けたりなんかしない」
握っている三郎の手は冷たい。元々血の巡りが良い雷蔵は先程風呂に入ってきたために手が更に温かく、まるで彼の手が凍りついているように感じられた。そっと温めるように三郎の手を握る力を強め、雷蔵は続ける。
「じゃあ、女にやられたのが悔しい? 僕は弱いままの方が君のためになるの?」
「そうじゃない! そうじゃ……!」
「じゃあ、三郎は僕をどうしたいの?」
ここは引けない一線だった。三郎との関係をそのままにしておけば、雷蔵はいつまで経っても三郎の隣りに立てない。それは雷蔵の本意ではなかった。雷蔵は三郎に守られる立場などには興味がないのだ。欲しいのは三郎の隣で、同じ場所に立つ権利。だからこそ、雷蔵は三郎を追い詰めた。
けれど、三郎は何も言わない。何となくその理由が分かっていた雷蔵は、三郎の手を握ったまま続けた。
「……僕はね、三郎。確かに女で、多分いずれ君たちに何もかも抜かれて行くんだと思う。体力も今はまだ君たちについていけているけれど、そのうちに追い越されてしまうんだろうね。
でもさ、だからと言って君たちに守られたいとは思わないんだ。だって、僕は君たちとこの二年とちょっと一緒にやってきたんだもの。僕だって忍たまなんだよ、三郎」
「――知っている」
雷蔵はその言葉に困ったように眉を下げた。――同時に自分たちの間に存在する深い溝を改めて認識する。けれど、それを埋めることを諦めたくなくて、雷蔵は言葉を重ねた。
「…………僕はね、三郎。君たちと一緒に行きたいんだよ」
「知っている」
「女子になれば、置いて行かれる。だから、女子に戻るのは嫌だ。――いや、元々が女子なんだから、これは僕の我儘だね。でもね、僕は一緒に行きたい。
三郎が僕を案じてくのいち教室に行けと言ってるのは分かってる。これから僕はどんどん女子の身体になっていくし、三郎たちはどんどん男の身体になっていく。身体つきが違えば性別が露見する可能性も高くなるし、そういった意味でも危険は高くなる。……僕だってもうすぐ十二だよ、三郎が危惧していることぐらい分かるさ。
でもね、三郎。僕はやっぱり忍たまで居たいよ。君たちと一緒に行きたい。女子であることがどれだけ自分の、そして君――延いては他の仲間たちの足を引っ張るかも悔しいけど理解してる。それでも僕は、その危険を知っていても君たちと一緒に居たい」
「今はまだそれで良い。だが、もっと歳を取ればそんなこと言っていられなくなるかも知れないぞ。実習だってこれからもっと厳しくなる。いつまでも私が一緒に居られるわけじゃない。――私が一緒に居なかった時、雷蔵に何かあったらどうする?」
「そんなこと、覚悟の上だよ。と言っても、三郎にしたら今の状況のこんな覚悟は生ぬるいとしか言えないんだろうけどさ。
でもね、三郎。さっきから言ってるけどさ、僕は君に守られたいと思ってないんだ。僕に何かあったとしても、例えば……嫌な例えだけど、僕が誰かに性別を知られて非道ひどい目に遭ったとしても、それは僕の自己責任だ。君に責があるわけじゃない。僕の不注意で僕が害を被るだけ」
「責任の問題じゃない! 私が・・嫌なんだ!」
静かに諭す雷蔵とは反対に、珍しく感情を露わにして声を荒げる三郎に雷蔵は困惑と――同時に一抹の喜びを感じて眉を下げた。そんな雷蔵を見て、三郎が彼女の身体を抱き締める。強い力で締め上げられるように腕を回され、雷蔵は思わず息を吐き出した。
「どんなに鍛えていても、そのうち私たちよりも細くなる。この身体を他の男に蹂躙されるなど考えたくもない! その前に安全な場所へ――」
「そうやって、三郎はいつも僕を守ろうとする。……それは嬉しいけど、そうしたらさ、誰が〈三郎を〉守るの?」
雷蔵の身体を締め上げる三郎の腕が緩んだ。己を見上げる三郎に雷蔵は苦笑を向け、彼の背中に腕を回す。ある一点で指を止め、あるものをなぞるように指で辿った後に彼の服を掴んだ。
「この傷の時もそう。――三郎は僕を守ってその身を投げ出すんだ。でも、そうしたら三郎・・は?」
その言葉に三郎は答えなかった。驚いたように彼女を抱き締めたまま固まる三郎に、雷蔵は三郎の肩越しに壁を見詰めながら、どこか諦めたような笑みを浮かべて続ける。
「三郎は強い。……だから、誰も三郎を守ろうとだなんて思わない。そんなこと、思う方がおこがましいよね。だって、自分の方が弱いんだから。
でも、三郎はそうやって人を助けて、守ってばかりで、自分は守られないで。そんなの辛いに決まってる。――だから、僕は三郎を守りたかった。僕が居る所が三郎にとって安心できる場所であって欲しかったんだ。三郎が少しでも辛くないように」
己を抱き締める三郎を抱えるように抱き返して、雷蔵はその肩に顔を埋めた。慣れた三郎の匂いが鼻腔をつく。今はさほど変わらない体格も後に差が広がっていくのだろう。こうして抱えることができるのも、もしかしたら今のうちだけかもしれないと思うと雷蔵は尚更この身体を放したいとは思わなかった。
「らいぞ」
「――馬鹿みたいでしょう? 三郎を守りたいだなんて。でもね、そう思って今までずっとやってきた。三郎と肩を並べたくて、三郎の隣に居ても変じゃないように必死で……ああ、本当に馬鹿みたい。
三郎、僕はね。……僕はね、ただ君に認めてもらいたかったんだ。馬鹿みたいでしょう? まるで親や先生に認められたいみたいに、僕は三郎に認めて欲しかったんだ。ああ、もう、何て馬鹿」
自嘲するように笑い声を漏らせば、三郎が彼女の腕の中で身じろぎした。けれど雷蔵が彼の身体を――正確に言えば、彼の背中に残った傷のあたりの寝巻きを放そうとしなかったので、彼女の顔を見ることは叶わない。三郎は彼女が今言った言葉の意味を本当に理解しているのかと考え、そこで初めて自分たちの現状に気付いた。雷蔵が密着していることにより耳や頬に掛かる吐息の熱さ、更に身体からふわりと薫る湯上りの匂いを改めて意識して三郎は先程以上に動揺する。
「雷蔵、放してくれ」
「やだ。今は三郎の顔をまともに見られる自信がない」
思わず離れようともがくも、先程より更に強く抱き締められて三郎の望みは叶わない。そのことに動揺して三郎は更に身じろぎしたが、雷蔵はそんな彼の葛藤になど全く気付かずに彼の身体を抱き締め続けた。
堪ったものではないのは三郎である。それはそうだろう、彼は今惚れた女子に抱き付かれているのだ。己の頬をくすぐる少し湿った髪の毛や間近に見える細い項、何より柔らかい身体が密着しているとあれば状況も忘れてあらぬことを考えそうになる。けれど、三郎にしがみつく雷蔵の力が想像以上に強かったため、彼女に無体を働くわけにもいかず、三郎は生殺しに近い状態で彼女の話を聞く羽目になった。
「だって、ちっちゃな子供みたいで恥ずかしい。三郎は僕のお母さんでもお父さんでもないのにね。……そういう意味では、僕はずっと三郎にそんな役目を負わせてたのかな。そうだったらごめん。
でも、これだけは信じてね。僕はね、三郎。いつも君が〈目標〉だったんだ。いつも三郎みたいになりたくて、いつもいつも金魚のフンみたいにくっついていた気がする。――だから、三郎があの時僕を庇って怪我をした時、本当に悔しかった。僕が三郎の足を引っ張るのなんてもう二度としたくなくて、それで中在家先輩方に鍛練してもらったんだ。
ねえ、三郎。僕、少しは強くなったでしょう。自分でも馬鹿だと思うし、呆れられても仕方がないと思う。でも、これだけは認めて欲しいな。三郎を守るにはまだ足りないかもしれないけど、僕もっと頑張るから。だから、追い出そうとしないで。忍たまでいさせて」
最後の言葉は少し震えていて、彼女が泣いているように聞こえた。その言葉や行動はまるで己への愛の告白だ。けれど、同時にそれが甘えられる家族の居なかった雷蔵の、親や兄弟への思慕のようなものであることにも気付いていて三郎は目を伏せる。ひとつ大きく息を吸い、柔い身体を抱き締める。この感情を上手く使えば雷蔵が簡単に手に入ることは分かっていたが、そんな偽りの関係で満足できるほど三郎はもう子どもではなかった。
「――雷蔵がそう思うのは、私が君を庇って傷を作ったからだろう? 罪悪感がそう思わせるんだ。
雷蔵が私のことを目標にしてくれたというのは素直に嬉しい。だが、その感情や罪悪感をない交ぜにして、私を守ろうとか、助けたいとか思わなくって良いんだよ。雷蔵、私はそんなに御大層な人間ではないし、君にそう思ってもらえるほど素晴らしい人間でもない」
今度は三郎が子どもをあやすような調子でそう囁く。雷蔵はその言葉に思わず三郎の身体から身を離し、厳しい視線を彼に向ける。三郎は雷蔵が否定するだろうことを承知の上で続けた。
「雷蔵、別にこの傷は私の不覚であって君の所為じゃない。変な責任など感じる必要はないんだ。――だからわざわざ、私の傍に居て義理を果たそうなんて思わなくても良いんだよ。君はやっぱりくのいち教室に行った方が良い。私のために忍たまで居ても、逆に君が危険になるばかりだ。
……昨日、学園長先生から話をされたよ。来年の春からくのいち教室の併設を行うそうだ。今忍たまとして在籍している隠れくのいちは、上級生クラスに編入することができるらしい。今度の学活で正式に全学年へ通達される。今年いっぱいまで忍たまで、来年からはくのいち教室の生徒になったら良い。――大丈夫、くのいち教室も全寮制にするそうだ。雷蔵の居場所がなくなることはないよ」
三郎は自分を信じられないものを見るように見詰める雷蔵に優しく諭すように続けた。――彼女が一番恐れているのは、己の居場所がなくなることだ。一年の時からずっと一緒に居る三郎は、彼女がどうしてそこまで忍たまにこだわるのか、その理由をよく知っている。己への罪悪感が更にその感情を強めているのだと思い、三郎は先程とは打って変わって穏やかに告げた。
けれど、雷蔵はその言葉に唇を真一文字に噛み締める。三郎があ、と思うよりも早く彼は雷蔵に胸ぐらを掴まれて押し倒されていた。頭を強く打たなかったのは布団の上に居たからであり、そうでなければ大きなこぶができただろう、と三郎は何故か全く場違いなことを考える。三郎に馬乗りになった雷蔵は、ひどく悔しいような悲しいようなひどく複雑な表情で彼を見下ろしていた。
大きな目はまだ赤く染まっておらず、泣いてなかったのだな、と三郎はぼんやりと彼女を見上げる。そんな三郎の胸ぐらを掴んでいる雷蔵の手が震えているのが、何故か印象的だった。
「僕が、罪悪感や義務感だけでこんなこと言うと思ってるのか……!?」
「雷蔵は優しいからな」
三郎のその言葉を聞いた時、雷蔵の頭の中で何かが切れた。力いっぱい三郎の胸ぐらを掴み上げて叩き付ける。下が布団でもごつり、と鈍い音が聞こえた。痛みに顔をしかめる三郎に雷蔵は唇を噛み締める。悔しくて悲しくて、雷蔵は何かを考える前に口を開いていた。
「そんな理由でこの場所に残るわけないでしょ! 僕はもう村に帰る気なんてない! ここに居たい、三郎と一緒に居たいんだ!」
雷蔵はそこで息が切れて言葉を潰した。それで少し冷静になったらしく、大きく呼吸をしてから続ける。
「罪悪感がないとは言わない。三郎が背中に大きな傷を残すことになったのは、僕の不注意が原因だからね。でも、それだけで自分の人生決めるほど、僕はお人好しじゃないよ。そうじゃなくて、僕がこの場所に残りたいのは――……」
そこまで舌に乗せた後、雷蔵は言葉を切った。そこで初めて己の感情に気付き、溢れていくその想いと共に涙が零れた。
(――ああ、僕は三郎が好きだったんだ。だから、ずっと一緒に居たいと思ったんだ)
ぽろり、と涙を零して固まる雷蔵に三郎もまた固まる。ほろほろと涙を流しながら黙りこくる雷蔵に、押し倒されたままの三郎がぎこちなく身体を起こす。何も見えてない様子で涙を流し続ける雷蔵に、三郎は思わず手を伸ばした。その指が涙の跡を残す頬に触れた途端、雷蔵の身体が跳ねる。驚く三郎を余所に、雷蔵は寝巻きの袖で乱暴に涙を拭った。三郎の寝巻きから手を離し、彼の上から退く。訳が分からずに困惑する三郎にぎこちなく笑みを向けて、雷蔵は大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
(馬鹿みたいだ、今まで全く気付かないなんて)
鈍いにも程がある、と我がことながら雷蔵はひとりごちる。余りにも不純な動機にさすがの雷蔵も己に呆れ果てた。次第におかしくなって、雷蔵はひとりくつくつと笑い始める。それを奇異に見ている三郎も放置して、雷蔵は腹を抱えて自分を嗤った。
「ら、らいぞう……?」
「ああ、ごめんごめん。何だか自分がひどい阿呆だということに気付いたら、おかしくなっちゃって。
――三郎、今まで巻き込んでごめんね。もう三郎に迷惑掛けない。大丈夫、ひとりでもちゃんとやってくよ。部屋、変えてもらおう? 八左ヱ門となら上手くやっていけるよね。僕は誰とでも何とかやっていけるし」
雷蔵は困惑した三郎の声に笑いを収め、再び溢れた涙を指で拭ってから口を開いた。――こんな気持ちを抱いていては、もう三郎と同室ではいられない。忍者の三病のうちのひとつを既に抱えているのに、忍者の三禁まで侵すわけにはいかないのだ。
(大丈夫、きっといつか忘れられる。……もしそうじゃなくっても、少し離れればそのうちきっと苦しいのにも慣れてしまうはず)
三郎にこんな浅ましい想いを抱いているだなんて知られたくなかった。自分は女子になりたくないと言った以上、女子として三郎に惚れているだなんて言えるわけがない。それに何より己のこの想いが溢れてしまうことで、三郎に迷惑を掛けたくはなかった。
「な、何を言い出すんだ、雷蔵! 馬鹿なことを……!」
「ん……でも、このままだと三郎に迷惑掛けちゃいそうだから。まあ、今までもたくさん迷惑は掛けてきたんだけどさ」
乾いた笑いを浮かべる雷蔵に今度は三郎が焦った。今にも教師の許へ向かいそうな雷蔵の腕を掴んで、その身体を引き寄せる。勢い余って引き寄せた雷蔵を抱え込むような形になったが、三郎はこれ幸いと雷蔵を抱え込んで押さえ付けた。逃げだそうともがく雷蔵をしっかりと抱え込み、問い詰める。
「どういうことだ、雷蔵!? 何故そんな結論になる!」
「このまま一緒に居たら、きっと君に迷惑を掛ける。だから、今のうちに離れよう。その方が良い」
そう告げられても納得できる三郎ではない。彼もまた雷蔵に心底惚れ込んでいる。自分以外の男を傍に寄せて、彼女の身に何かあればと思えば到底その申し出は受け入れられなかった。逃げようとする雷蔵を布団の上に押さえ込み、その理由を問い質す。何度か問答を繰り返せば、お互いに苛立ちも増してくる。どちらも譲らないうちに気分が昂ぶり、ついに雷蔵が本音を吐き出した。
「だって! 僕は三郎が好きなんだもの!」
「……え?」
「仕方ないでしょ! 三病まであるのに、三禁まで侵すなんて最悪だ! それに、三郎だって迷惑でしょう? 僕だって、三郎にこんなことで迷惑掛けたくないよ!」
真っ赤になって泣きそうな顔で怒鳴る雷蔵に、三郎が今度は固まった。まさかそのような発言を聞くことになろうとは、と三郎は己の腕から抜け出そうともがいている雷蔵を見下ろす。しかし、彼女の愛情が主に親愛であることを知っている三郎は、注意深く言葉を繋いだ。
「私だって雷蔵のことが好きだぞ? 好き同士で同室なら今まで通りで良いじゃないか」
「三郎の好きと僕の好きは違うんだよ! 分かったら放して!」
もう雷蔵は自棄になったのか、ごまかすこともしないで三郎を睨み据えた。それに三郎は本当に惚れられているんだろうか、と思わず疑問に思ったが、この状況で雷蔵を手放すことなどできるはずもない。凄い力で逃げ出そうとしている雷蔵をしっかりと抱え込み、三郎はその耳元で囁いた。
「私だって、雷蔵に惚れてる。――忍者の三禁など知ったことか。
君が同室を嫌がったって、私は君と離れる気はないぞ。君が他の男と同じ部屋で寝るだなんて、考えただけでも虫唾が走る。例え八左ヱ門でも許さない。君が何を勘違いしているか知らないが、君が私を好きだと言うなら私はもう我慢も遠慮もする気はないぞ」
「……さぶ、ろ?」
「雷蔵、君は気付いていなかっただろう? 私が君に、それこそ君が知ったら私を軽蔑するほど浅ましい気持ちを抱いていたなど。――本当はまだ黙っているつもりだったけれど、もう良い。君がそのつもりなら、私ももう形振り構っていられない。
なあ、雷蔵。私は鉢屋だけどね、雷蔵の新鉢だけは誰にも売らない、触れさせる気もない。誰の目にも付かない所へ大切にしまい込んで、いつか一生私のものにしようと思っていたんだよ」
いつの間にか押し倒されるような形になっていた雷蔵は、耳元で低く囁かれて固まる。状況の変化に動揺してその内容の半分以上は理解できず、困ったように涙目で三郎を見上げた。そんな雷蔵に三郎を額を合わせ、ついでその頬に口付けを落とす。
「三郎、あの……?」
「要するに雷蔵、私は君に心底惚れていて、他の男の許になんてやる気はないってことだ。怪我もさせたくないし、男の傍に置きたくないからくのいち教室に行って欲しいと思っている」
三郎の突然の変貌に雷蔵は目を瞬かせたが、最後に付け加えられた要望で我に返る。雷蔵は顔を引き締めると、自分を見下ろす三郎に反論した。
「僕はくのいち教室には行かないよ! 三郎の傍に居られなくなるもん!」
「……それだけの理由?」
「…………悪い!?」
余りに状況が変化しすぎて、とうとう大雑把な雷蔵は開き直ることにしたらしい。しかし、その発言は三郎にとって大きなものだった。真っ赤な顔で己を睨み上げる雷蔵の身体を掻き抱き、彼は大きく息を吐く。熱い吐息で耳朶をくすぐられた雷蔵は身を竦めたが、三郎はそんな彼女の様子すら愛しいというように笑った。
「――もう良い、私の負けだ。降参する」
「は?」
「……確かに、私も傍に居られないのは辛い。
本当は、私も愛しい娘を守る立場というものに酔っていたのかもしれない。それに……雷蔵は本当に強くなった。私が本気になったんだからな。これでも私は学年一と自負している。その私と対等にやるんだから、雷蔵誇って良いぞ。――もう守ってやるなんて言えないな。私がいつか君に守られてしまいそうだ」
己の首筋に頬を寄せる三郎に緊張した雷蔵だが、その発言を聞いて頬を真っ赤に紅潮させて笑みを浮かべた。己を抱く三郎の背に腕を回し、「うん、うん」と何度も頷く。子どものように己に覆いかぶさる男に抱き付く様子は本当に稚(いとけな)く、三郎はそれ以上彼女に何かをするのは諦める。ただ彼女の柔らかい身体を掻き抱き、戯れのように軽く口を吸うに留めた。
雷蔵は三郎の行為に驚いて身を固くするものの、柔らかく何度も繰り返される行為にくすぐったそうに笑った。先程まで口論していた険悪な雰囲気から打って変わって仲睦まじい空気に変わり、雷蔵は授業の疲れもさることながら何より安心したのだろう、いつの間にかべったりとくっついたまま眠ってしまう。三郎は己の腕の中でぐっすりと眠ってしまった雷蔵の頬にもう一度口付けを落とした後、彼女を抱えたまま布団を被り、自身もまた眠りに就いた。
――その日から五年生の現在に至るまで、二人はお互いを高め合う好敵手であり仲間であり、また何よりお互いを理解した恋人同士となり、学園でも名立たる双忍の術の使い手となるのであった。
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「最後の約束」より【記憶の中で】――『でも ね』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒