鈍行
▼泣かないで 笑っていて
※この作品には月経の少々生々しい表現が含まれます。
「――あめ?」
「ん? 雷蔵、起きたのか。いつもより早いな」
常と同じ時間に起きた三郎は、ぽつりと漏らされた声に振り返った。朝から常に隙なく身支度をしたい三郎は雷蔵よりも一刻は早く起きる。故に、まだ起きてから半刻も立っていないのに発せられた声に少しだけ瞬きを繰り返した。しかし、寝起きの良い雷蔵にしては珍しく本日は寝覚めが悪いらしく、枕に頭を押し付けながら不機嫌そうに続けた。
「……降ってるの……?」
「ああ、残念ながら土砂降りとまではいかないまでも大雨だ。――今日の実技は中止になりそうだな、いくら何でもこの雨だ」
「むー……雨か……嫌だなあ……」
うつ伏せからもそもそと身体を動かし、雷蔵はようやく身体を起き上がらせる。まだ眠気が飛ばないのか、布団の上に座り込んだ状態で天井を仰いでいた。部屋の外から響く雨音が耳障りらしく、ひどく不機嫌な表情をしている。布団の上で足を曲げている所為で覗く白いふくらはぎが何故か艶めかしく、三郎は思わず視線を逸らした。――普段は大らかで柔らかい笑顔を浮かべているために性的な色など微塵も感じられぬ雷蔵だが、今のように眉をしかめただけで表情がほとんどないと途端に大人びた様子になる。どちらが雷蔵の本質なのか未だに掴みかね、三郎は思わず目を眇めた。
しかし、その間にも雷蔵はようやく頭に血が巡り始めたらしく、何度か顔をごしごしと手のひらでこすっていつも通りの表情に戻る。その瞬間に先程の色香は霧散し、常の子どもっぽさが現れた。それでもいつの間にか出会った初めよりも大人びているように見えるのは、あちこちに残る痣や生傷の所為だろう。顔に怪我があるなど女子とは到底思えないが、彼女は全く気にした様子もない。むしろ、その怪我が勲章でもあるかのように指摘されても笑っていた。
「相変わらず生傷だらけだな。不機嫌だったのは、雨で傷が痛むからか?」
「へ? ああ、違うよ。何かお腹痛くってさあ。んー……雨で冷えてるから、お腹冷やしちゃったのかなあ。まあ、でも、実技ないなら良いかな、別に。二年になってから実技厳しくなったから、やっぱり体調悪いとちょっと辛いよねえ」
三郎がからかうように口元に残った傷を突くも、雷蔵はそれに嫌がる風も見せずに笑っている。その寛ぎきった様子に三郎は少しだけ心が揺れた。
(――信頼されていることを喜ぶべきか、それとも異性と思われていないことを悲しむべきか)
彼女への想いを自覚したのは遥か前。己にそんな情緒があったものかと驚きもしたものだが、一度自覚をしてしまえば転がるように堕ちていく。次第に盲目となっていくこの想いに、三郎は忍の三禁に色が入っていることに納得した。――このようにたったひとりの相手でも無条件に受け入れてしまうようになれば、その相手が裏切ったら最後だ。けれど、不思議とそれでも良いと思えてしまう辺り、三郎は己の変化を嗤った。
「三郎はいつも早いねえ、僕も着替えなきゃ」
「じゃあ、私は顔を洗って歯を磨いてくる」
「うん、いつもありがとね」
ようやく活動する気になったらしい雷蔵は、大きくひとつ伸びをして立ち上がった。それを機に三郎は用意していた桶と傘を持って腰を上げる。毎朝、雷蔵が着替える時には三郎は部屋を外す。大抵は用事を作ってさり気なく出ていくのだが、大雑把な割に人のことをよく見ている雷蔵には彼が気を遣っていることなどお見通しらしい。いつも笑顔で礼を述べ、彼女は出ていく三郎に手を振った。三郎もそれに手を上げて応え、井戸へと向かって行く。普段からこの時間は余り人が多い方ではないが、今日は雨ということもあって尚更人が少なかった。
しかし、その井戸をさり気なく通り越して三郎は更に奥へ奥へと進んでいく。ほとんど誰にも知られていない、寂れた井戸が学園の片隅にひとつあるのだ。但し、その井戸へは渡り廊下が繋がっておらず、三郎は持っていた傘を開いて雨の中を歩き出した。
したしたと雨が屋根を打つ音がする。雷蔵はそれを聞きながら心張り棒をした。着替える時に防衛をするようになったのも、三郎に言われてからである。昔は三郎が居てくれるならごまかしてもらえるのでは、と考えていた時期もあったが、今では彼が正しいと分かる。溜息と共に膨らんできた乳房を見下ろし、雷蔵は溜め息を吐いた。
布や服で抑えてはいるけれども、どんどん大きくなる。さらしの巻き方は既に養護教諭の新野や保健委員の善法寺 伊作に教わっていたが、このままでは明らかに目立ってしまう。伊作などは雷蔵の母もふくよかな体格をしていたと聞き、親譲りなんだろうねと笑っていたが、今〈男〉して生きている雷蔵にとっては余り嬉しくない贈り物であった。
雷蔵は夜着を肩から落とし、腰にまとわりつかせたままで戸に背を向ける。もし万が一心張り棒が役に立たなかったとしても、背中を見ただけでは雷蔵が女だとは分からないはずだ。第一、今の雷蔵の身体は痣や生傷だらけで、とても女の身体とは思えない。厳しい鍛練を始めた所為か、大分筋肉も付いてきて尚更だ。三郎には見せられないな、と思いながら、雷蔵は手早く手拭いを何枚か重ねて胸の下に置いた。布で高さを調整し、きつくさらしを巻く。正直なところ、余りきつく巻くと胸が苦しくて仕方がないのだが、それでも緩んで恐れている事態になるよりかは己の苦痛を雷蔵は選んだ。
(――絶対に忍術学園を退学なんてしないぞ)
今はもう、家に帰りたくないからという理由だけではない何かが雷蔵に芽生えていた。それは、覚悟のようなもの。雷蔵はさらしを一巻きするごとにその覚悟を締め上げて、固く固く絞り上げた。さすがに真っ平らにはもうできないが、それでもかなり男性の胸に近い。雷蔵はぽんと己の胸を叩いてその感触を確かめてから、勢い良く夜着を脱いで制服に手を掛けた。肌小袖に袖を通し、その上から上着を羽織る。更に袴を穿こうとして屈み、その拍子に鈍く痛んだ腹部をさすった。昨日食べた夕飯のうちで何かが悪かったのか、と思ったが、おばちゃんの料理に関してそれはない。では原因は何だろう、と思ったが、いつまでも袴を半分穿いただけで居るわけにもいかず、またさほど痛みが強いわけでもなかったので雷蔵はそのまま袴を引き上げた。
帯を結んでいる頃に三郎が部屋に戻ってくる。いつも良い頃合いに戻ってくるのは偶然ではなく、三郎が頃合いを見計らっているのだと分かっていた。ほとほとほと、と二人で取り決めた合図として三度戸を叩く三郎に、雷蔵は帯を締めながら足で心張り棒を外す。その音を聞いて三郎が戸を引いたが、彼は毎度毎度彼女の行動に眉をしかめた。
「君は大雑把と言うよりも、横着なんじゃないかと思うよ」
「そうかもね」
一年以上も同室で過ごせば遠慮もなくなる。いつの間にか雷蔵は三郎の言葉を流すことを覚えていた。逆に言えば、そうでもないとやっていられないのである。
――鉢屋 三郎という男、意外に神経質で繊細だ。あちこちから天才と囁かれるほど実力のある男だが、これで案外器は小さい。確かに大物ではあるのだろうが、許容範囲が狭いと言うべきか。とにかく自分の中で決めた線を越える人間を許さず、ひとりになりたがる傾向があった。傍に居続けると似ると言うが、さすがの鉢屋 三郎もご多分にもれず己に似てきたらしく随分と大らかになった、とは同じ組の竹谷 八左ヱ門の言である。
しっかりと帯が締められたことを確認すると、雷蔵は大雑把に髪を両手で束ねた。自分の髪はどうも剛毛でいけない。邪魔にならない高さに持ち上げると手櫛でがしがしとまとめ上げ、雷蔵はそのまま髻を束ねようと元結を掴む。そのままぐるぐると締め上げようとした矢先に、三郎が溜息と共に雷蔵の行動を止めた。
「何だよ?」
「『何だよ』じゃないよ、雷蔵。お前、それで本当に結ぶ気か?」
「そうだよ? 第一、いつもこんな感じじゃないか。確かにちょっと跳ねたり膨らんだりしてるかもしれないけど、雨だから仕方がないよ。それに頭巾をかぶってしまえば分からないだろ」
「そういう問題じゃないだろう……それじゃ君、大雑把を通り越して無神経だぞ。八左ヱ門みたいになりたいのか?」
何と言う失礼な言い草、とは思ったが、確かに櫛も使わないのはどうかと思い、雷蔵は片手で髪を押さえながら櫛を手に取る。わしわし、と手荒く髪を梳くと再び髪を結ぼうとした。――が、それも三郎に止められる。
「今度は何だよ?」
「……雷蔵、もう今日は私がやってやる。いつも以上にひどい。――今日は何かあったのか? 手付きも荒っぽいし、おかしいぞ」
「そんなことないと思うんだけど……」
三郎の言葉を否定はしながらも、雷蔵は己がどうも常とは違うことに気付いていた。その不機嫌が普段はない腹痛から来ているのか、それとも雨から来ているのか(けれど、雷蔵は雨が嫌いというほどでもない)は分からなかったが、とにかくどうにも普段の調子が出ないのだ。思わず溜め息を吐いて、雷蔵は諦めたように櫛に引っ掛かる髪を無理矢理引いた。
「――もう良い、私がやる。見ていて痛いし、何より凄いことになっている」
「別に僕は構わないし、良いよ。悪いし」
「馬鹿言うな、君がぼさぼさ頭のままだと、髪型で君と私の区別がついてしまうだろうが。――二年にして〈妖物ばけものの術〉の名人と聞こえ高い私の矜持に反する」
その言葉に雷蔵はどこか詰まっていた気が抜けた気がした。手から抜き取られた櫛は器用に髪を梳いていく。己の手の中では何度も櫛に引っ掛かった髪も、三郎に対しては従順だ。自分のやり方が悪いのか、それとも三郎のやり方が上手いのか(多分、その両方だろう)。何だか再び鬱々としたものを感じながら、雷蔵は今日何度目かの痛みを伝える腹部をさすった。
「? 雷蔵、まだ腹が痛いのか?」
「ん? ああ、うん、ちょっとね。大したことはないんだけど、時々気になるんだ。何か悪いものでも食べたかなあ、と思ったんだけど、三郎は何ともないよね?」
「ああ。全く平気だ。――君、何か間食でもしたのかい? 食べ過ぎて痛いということもあるし」
「そんなことはないと思うんだけど……昨日も間食らしい間食なんて、おやつくらいだし。それも、三郎と一緒に食べたじゃない? だから、僕だけお腹が痛くなるってことはないと思うんだ。――冷やしたかな、雨だし。僕、お腹出して寝てた?」
「いや、分からないけど。私が起きた時にはちゃんと布団かぶってたぞ」
「だよねえ」
二人の会話が進む間にも三郎の手は素早く動いている。さすがに変装名人だと自称するだけはあるようで、彼は髪の扱いも抜群に上手かった。顔を洗ってきたせいだろう、少し冷たい手が首元をくすぐっては離れていく。あれよあれよという間に雷蔵の髪は普段自分がやるよりも丁寧にまとめ上げられ、元結で綺麗に結ばれていた。
「ほら、こんな感じで良いだろう?」
鏡を渡されて雷蔵は己の頭を見遣る。一筋のほつれ毛もなく結い上げられた髪は完璧すぎて少しよそよそしい気もしたが、人にやってもらって文句を言うわけにもいかない。それよりも普段なら感謝の気持ちしか浮かばないはずの己が、今日だけこんなにも不平不満が溢れて来ることに雷蔵は首を傾げた。
「――っ!?」
実技の授業が雨でできなくなったため、今日は一日中教科の授業となる。あともう少しで昼食だ、と思いながら授業を聞いていた時に、違和感を感じて雷蔵は息を飲んだ。――いや、違和感などではない。むしろ羞恥だ。尿意を催したわけでもないのに、股間を何かが流れる感覚が分かる。それが分かった瞬間、雷蔵は己を信じられない気持で俯いた。
『雷蔵、どうした?』
息を飲む音が聞こえたのだろう、隣で授業を受けていた三郎が声をかけて来る。雷蔵はそれに咄嗟に首を横に振って笑みを浮かべた。己でも笑みが引きつっているのが分かる。三郎が心配してくれているのも分かるが、今だけは何も触れないで欲しかった。
(早く、授業終わって……!)
まさしく切なる願いである。担任の説明はまだまだ滔々と続いている。せめて当てられることだけはありませんように、と必死で願いながら、雷蔵は次第に赤らむ顔を感じながら俯いた。己の膝に置いた手が袴を強く掴むのが分かる。十一にもなって〈お漏らし〉など情けなくて泣けてきた。いつの間にか教師の話も耳に入らず、雷蔵は零れ落ちそうになる涙を堪えるために目をきつく閉じていた。
(早く、早く、早く……ヘムヘム、雨だからってさぼってないよね!?)
理不尽なことまで考えながら、雷蔵はとにかく響くであろう終業の鐘を待つ。それとも雨に遮られて音が聞こえてこないだけで、もう本当は授業など終わっているのではないかと思って目を開けて外を窺った瞬間、雷蔵の耳に待ち望んだ鐘の音が届いた。
「では、授業はこれまで。――号令!」
「気を付け、礼! 有難うございました!」
教師はようやく雷蔵の望んだ言葉を吐き出し、同級生たちがざわざわと立ち上がり出す。雷蔵はその音を聞いて、思わず机に突っ伏した。早く厠へ駆け込みたいが、袴がどうなっているのかが分からないために立ち上がることもできない。早く全員出て行ってくれ、と必死で祈りながら、雷蔵はぐったりと机に身体を預けた。
「何だ、雷蔵! やけにお疲れだな、昨日も鍛練辛かったのか? あんまり無茶すんなよ? ――で、昼行こうぜ。早く行かねえと席なくなっちまう」
「ハチ……うん、そうなんだけど……あの、僕ちょっと用があって、先に行っててくれない?」
「用? 委員会とかか? じゃ、先に行って席取っといてやるよ。早く来いよな! 三郎、俺たち先に行こうぜ」
「いや、私も学級委員長としての仕事が残っててな。ハチ、私の分も席取っといてくれ」
「はああ? お前もかよ! しっかたねえなあ、早く来いよ! 待ってるから!」
「ああ、頼む」
「ごめんね、すぐ行くから」
相変わらず気持ちの良い男だ、と思いながら、雷蔵はそれでも八左ヱ門が早く行ってくれるようにと望んで手を振った。今日の自分はどうかしていると自分でも思うが、今は形振り構っていられない。場合によっては人としてまずいこととなる。とにかく早くひとりになりたくて、雷蔵は怪しまれないようにのろのろと片付けを始め、級友たちが皆教室を出るのを待った。
――が、最後の最後まで三郎が出ていかない。隣でじっと己を見詰めている三郎に、雷蔵は諦めたように声をかけた。
「……学級委員長の仕事があるんじゃないの?」
「あれは嘘だ。――授業の最中から様子がおかしかったが、雷蔵こそどうしたんだ?」
嘘、という言葉に雷蔵は思わず目を瞬かせた。――同時に悟る。三郎は己を待っているのだと。しかし、彼が居れば自分も動けない。どうしたものかと思っていると、三郎が己に更に寄って来ていた。ぎょっとして身を引き、後ろに手をつく。体勢を崩した瞬間に、先程と同じ不快な感覚が再び襲った。
「うっ……!」
「どうした、雷蔵!」
「な、何でもない、何でもないから……!」
だから早く行ってくれ、とは言葉にならなかった。正直なところ、二回も漏らしたという事実に雷蔵は打ちのめされていたのだ。年寄りでもなければ我慢の利かぬ年頃でもない。しかも、普段からそういった悪癖があるわけでもなく、むしろそう言った子どもの世話をする側だった雷蔵にとって今の状況は死にたいくらいのものだ。とにかく早く何とかしたいのに、目の前の三郎が退いてくれない。焦る気持ちが再び涙腺を緩め、雷蔵はいつの間にか嗚咽を漏らしていた。
「は、早く行ってくれよ……そうじゃないと、ぼく、ぼく……」
「ら、雷蔵……!?」
幼子のように服を掴んでぽろぽろと涙を零す雷蔵に困惑したのは三郎だ。驚いて彼女に手を掛けると、雷蔵はその手を振り払うように腕を動かした。しかし、動くのを怖がるようにその場に固まっているため、三郎は思い切って雷蔵を抱き締めた。
「どうした、雷蔵。――困っているなら力になるから、言ってごらん? 大丈夫、何を聞いても笑ったりしない」
「う、うえええ、さぶろ、さぶろう……ぼく、ぼく、この歳になって……うええええ」
雷蔵は三郎の言葉に何かが切れてしまったようだ。元々、今日は朝からどこか不機嫌だったりと様子がおかしかった。いつの間にか己にしがみつくように泣き始めた雷蔵をあやすように抱えながら、三郎は嗚咽交じりに呟かれた言葉を拾い上げる。――曰く、漏らしたと。
その発言に三郎は驚いたものの、雷蔵が粗相をするようには思えない。何か理由があるのだろう、と彼女をまず立たせることに決めた。袴の状態を確認したかったのだ。それに、どちらにせよ昼食の時間もある、いつまでもここに座っているわけにもいかない。
勿論、雷蔵はそれを嫌がった。当然だろう、座っていて体勢を変えただけでもその現象は起こるのだ。立ち上がるなど以ての外である。それではどうするつもりだったのだ、と三郎は思ったが、ぐずる雷蔵を何とか宥めて三郎は彼女の身体を持ち上げた。嫌々と頭を振って三郎にしがみついて抵抗する雷蔵に良からぬ気持が起こらないでもなかったが、今はそれどころではない。しがみついてくる身体を剥がして彼女の袴を見下ろすと、確かに何か股間に染みができていた。
「――これか」
「ううううう、うわあああん」
「ああ、分かった、悪かった。私が悪かったから泣くな、雷蔵。ほらほら、良い子だから」
普段とは全く立場が逆になったな、と思いながら、三郎は再び自分にしがみついて泣きだした雷蔵を抱き締めてあやした。普段はどちらかと言うと機嫌を左右しやすい自分が雷蔵に宥めてもらう側なのだが(そして三郎自身も彼女に甘やかしてもらいたい気持ちがある)、今はこうして雷蔵を慰めている。しかし、と三郎は抱き付いてくる雷蔵を抱えながらその股間をもう一度見下ろした。
(――何か変なんだよなあ)
本人曰く、二度も粗相をした染みにしては濡れている範囲が少ないのだ。それに色が少し暗い気がする。そう思ってしがみつく雷蔵を上手くあしらいながら、三郎はまじまじと彼女の袴を見た。
「……あ!」
そこで三郎は初めて彼女の「粗相」の原因に気付く。同時に彼自身も血の気を引かせ、慌てて懐から手拭いを取り出すとそれを雷蔵に持たせた。
「雷蔵、それは粗相じゃないから安心しろ。――それよりも袴を脱ぐんだ。袴まで滲んでるってことは下帯がえらいことになっていると思うが、その辺りは見ても失神しないように。病気でも何でもない、むしろおめでたいことだから安心しろ。汚れた袴は私が代わりに穿いて部屋まで行く。雷蔵は私の袴を代わりに履いて、今すぐ医務室へと直行するんだ。で、新野先生に、えっと……何て言ったら良いんだ……うんと、初花が咲きました、と言うんだ。それで多分大丈夫だ、後は新野先生が全て教えてくれる」
雷蔵は今まで落ち着いていた三郎が逆に顔を青ざめさせたことでようやく我に返り、彼の言葉にこっくりと頷いた。よく分からないが、雷蔵よりも三郎の方が知識が広いことが多いため、いつの間にか真面目な場面では彼の言葉を受け入れる癖ができている。言われるがままに帯を解いて袴を降ろすと、そこには赤黒く染まった下帯が覗いた。
「ひっ……!」
「大丈夫だ、落ち着け。――その、雷蔵は女になったんだよ。それ以上は私に聞くなよ、私だってよくは知らないんだから。新野先生ならきちんと答えてくださるはずだ。ほら、さっき渡した手拭いを下帯の上に巻いて。そっちじゃないよ、股を潜らせるんだ、じゃないと血がまた袴に滲むだろ。そう、良い子だ雷蔵。そのままこの袴を穿いて、歩いて新野先生のところに行って来い。私はお前の袴を穿いて一度部屋に戻って、着替えてから先に食堂へ向かうから」
三郎はいつもより饒舌になっている己に気付きながらも、それを抑えることもできぬままに雷蔵へと世話を焼いた。お互いに袴を降ろして下帯だけになっている様子は滑稽だが、そんなことを言っている余裕もない。とにかく三郎はこれ以上血が滲まないようにだけ処置すると、雷蔵に己の袴を急いで穿かせ、そのまま医務室へと送り出した。同時に自分は手甲を外し、持っていた苦無で軽く手を斬る。これでもし袴に血が付いていても、怪我をしたと言い訳ができる。そんなことをすれば後々雷蔵にこっぴどく叱られることになるのだが、今の三郎にはそのような考えもとてもじゃないが巡らせられる状況ではなかった。
血が滴る腕を手拭いで押さえようとして、手拭いは先程雷蔵に渡していたことに気付く。予備がどこかにあったはずだ、と装束を探りながら、三郎は己が動揺していることを改めて認識し、思わず溜め息を吐いたのだった。
「三郎、ただいま」
「おかえり」
結局、雷蔵は昼食の時間に戻っては来なかった。席を取っていた八左ヱ門などは「昼も食べられないほどの委員会活動が図書委員会であるなんてなあ」などと不思議そうな顔をしていたが、そこは三郎がどことなく煙に巻いておく。昼食に関してはおばちゃんに頼んで握り飯を作ってもらい、それを部屋に持ち帰ることにした。――多分、食堂まで来て食事をするだけの余裕はないだろうという三郎なりの気遣いである。
三郎の予想通りに直接長屋まで戻ってきた雷蔵は、顔色も悪いままに三郎の前へ座り込んだ。手に風呂敷包みを持っているのは、多分医務室で汚れた下帯を替えたせいだろう。三郎はとりあえず雷蔵の文机の上に置いていた握り飯を彼女へ差し出す。
「食えよ、腹減ってるだろ? 食堂のおばちゃんに頼んで作ってもらっておいた」
「あ、有難う……うん、そう言えばお腹空いたかも……」
雷蔵は力のない笑みを浮かべながら、素直に三郎が差し出した握り飯を手に取った。もそもそと食べるその姿は明らかに消沈しており、三郎はこの空気をどうにかしなくてはと柄にもなく焦り、何とか場の空気を変えようと口を開いた。
「赤飯、炊いてもらうか?」
「――嬉しくないからいいや」
その言葉に三郎は目を瞬かせる。女子としての成長は嬉しいものかと思っていたのだが、彼女はそうでないと言う。三郎が不思議そうな表情を浮かべるのを見て、雷蔵は困ったように笑った。
「女の子になんて生まれるもんじゃないね、参ったよ。――筋肉も全然付かないし、力もないし、身体だって大きくならないし。
僕、男の子に生まれたかった。三郎や、皆と一緒が良かったよ。そうすれば、こんなことに悩まなくて済んだのに。生まれてしまったものは仕方がないし、親を恨んだってどうにもならないことは分かっているけど……でもやっぱり、僕男の子に生まれたかった」
ぽろぽろと握り飯を食みながら雷蔵は涙を流す。今までこんな風に弱った雷蔵を見たことは一度もなかったため、三郎は心底驚く。困っておろおろと手を泳がせると、雷蔵が困ったように笑った。
「三郎が何でおろおろすんの」
「いや、そりゃだって」
「――ごめん、変なこと言った。忘れて。……生まれてきてしまったものは仕方ないし、どんなに羨んだって悔やんだってこれから僕は一生この身体と付き合っていかなきゃいけないんだもんね。三郎に愚痴ったってどうしようもないし、悪かったよ」
三郎は雷蔵のその言葉にきゅっと唇を一文字に結び、彼女へいざり寄るとその頭をそっと己の肩へ抱き寄せた。雷蔵はそれに少し驚いたように身じろぎしたが、それ以上の抵抗はしないままに三郎へ寄り添う。三郎は己が綺麗に結い上げた髪を乱すほどに彼女の頭を掻き混ぜてから口を開く。
「正直なところ、私は男だから君がそこまで〈女〉になることを嫌がるのかよく理解できないが……君は、随分強くなったと思うよ。だから、その、憂うことはないと思うんだ。それにその……泣かれると、困る。雷蔵は笑っていてくれないと、変だ」
慰めてくれているのだろうか、と雷蔵は己の頭を掻き回した三郎の顔を見遣った。見たところで自分の顔でしかないのだが、それでも一年以上一緒に居れば表情も読めるようになってくる。他のことは何でも器用にこなす割に、こと対人関係――人の心を慮って行動するということを意外に不得手としている三郎の不器用な慰めに、雷蔵はおかしくなって笑った。
――この出来事がこれからの二人にとって大きな転機となることを、彼らはまだ知らずに笑い合う。しかし、その暗雲は確実に彼らの許へ忍び寄り、その影の濃さを増していたのだった。
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「最後の約束」より【記憶の中で】――『泣かないで 笑っていて』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒