鈍行


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▼喉にひっかかった小骨のような



「何か最近、三郎変わったよな」
「ああ、ちょっと大人しくなったと言うか……行動自体はあんま変わらないけど、穏やかになったよな」
 竹谷 八左ヱ門は合同授業で同じ組になったい組の久々知 兵助にこそりと漏らした。その視線の先にはどういったくじ運の良さか、それとも教師にも気付かれぬように細工をしているのか、常に雷蔵と組んでいる鉢屋 三郎の姿。同じ顔で笑い合う二人の姿はどう見ても異様なはずなのだが、既に見慣れてしまったためか何とも思わなくなって来ている。それどころか、三郎が雷蔵の顔を使わないでいると何があったのかと思うほどだ。これも雨鳥の術になるのか、などとぼんやり眺めていると、三郎が視線を感じたのか真っ直ぐに彼らへと振り返った。
「何だ、ハチは兵助とか」
「おう」
「三郎はまた雷蔵となんだな。どんなくじの引き方してるんだか」
「本当に不思議だよねえ……どんな時も三郎と一緒になるんだもん」
 雷蔵を引き連れて八左ヱ門の許へとやって来た三郎は、雷蔵の顔でありながらも鉢屋 三郎独特のニヤリとした笑みを浮かべて口を開く。いつの間にか完全に雷蔵を真似ることは止めたその笑みを見ながら、八左ヱ門は軽く応えを返した。兵助は半眼になって三郎が毎回くじでどんなからくりを使っているのかと訝しむ視線を投げたが、毎度巻き込まれている(と兵助には見える)雷蔵は全く気付いた様子もなく柔らかく微笑んだ。その笑みはまるで無垢な子どものようで、忍のたまごとして様々な物事を叩き込まれている兵助たちは何だかひどく困惑すると同時に胸を撫で下ろすような気持ちにさせられるのだった。
「雷蔵はそのままで居てくれよな」
「そうそう、そのままで居て欲しいよ」
 左右から八左ヱ門と兵助に肩を叩かれ、雷蔵は困惑した様子で二人を見つめる。助けを求めるように三郎へと視線を移しても、彼はいつも通りに肩を竦めて意地悪な笑みを浮かべるばかりで、雷蔵を助けてはくれなかった。雷蔵に分かるのは、どうやら彼らが自分を弟分のように思っているということだけ。家では一番上だったのに、と思いながらも、不思議と嫌だと思わないのは上が居る生活に憧れていたからだろうか。
 そんな遣り取りを交わせるほど穏やかな雰囲気だったので、彼らはまだ誰一人として気付いていなかった。忍の園で油断や慢心を抱くことがどれほど恐ろしいことかということを。



 ――それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 険しい山道を駆けている時に、雷蔵が何かに足を引っ掛けたのだ。あ、という声と共に転んだ雷蔵に、ヒュン、と風切音が届く。罠だ、と気付いた時には細くしなる木の枝が自分の背中へと向かっていた。雷蔵はそれを身体を反転させることでかわす。しかし、かわした先が悪かった。そこには新たな――そして、上級生に向けた罠が仕込まれていたのだ。
 運が悪かった、としか言いようがない。咄嗟に身構えて衝撃に備えた雷蔵を、しかし横から飛び出してきた影が押し倒した。同時に罠に仕掛けられていた刃物が嫌な音を響かせる。雷蔵が考えるより早く、視界に朱が散った。
「さぶろ……三郎!」
「うっ……大丈夫か、雷蔵」
 背中が一文字に裂けていた。青い制服を朱の斑が彩っていく。半ば恐慌状態に陥った雷蔵を引き戻したのは、己を庇ったままの状態で動かない三郎の呻き声。悲鳴染みた声を上げながら雷蔵が彼の背中を慌てて頭巾で抑えると、三郎は苦しそうに唸った。
「さぶ、さぶろ、大丈夫?」
「へいきだ……雷、蔵こそ、だいじょうぶか?」
「ぼくはへいきだよ、三郎が庇ってくれたから……ごめん、ごめんね三郎、僕の所為で」
 後から追い付いてきた同級生たちが三郎の惨状を見て騒ぎ始める。雷蔵はその騒ぎの中、ひとり大きな眼から涙をぼたぼたと垂らしながら、必死で傷口から溢れる血を押さえていた。
(――僕の所為だ)
 上級生向けの罠が取り払われていなかったのは不運だとしか言いようがないが、そもそも雷蔵が罠に引っ掛かりさえしなければ別の罠を発動することもなかったのである。誰かが呼んだのだろう、教師たちが雷蔵たちの傍へと駆け付けた。ただ傷を押さえるだけの雷蔵とは違い、適切な応急処置をして三郎の身体を抱え上げる。赤く染まった手を泳がせた雷蔵を、別の教員が押さえつけた。
「三郎……!」
「雷蔵、落ち着け! お前、怪我は!?」
「ぼ、ぼくは、僕は平気です。三郎が、三郎が庇ってくれたから……! 先生、どうしよう、僕がぼんやりしていたから、三郎が、三郎が……!」
 視界に満ちる赤は全て三郎のもの。それが雷蔵の動揺を否応なしに増させた。悲鳴染みた声で「三郎が、」と繰り返して、連れて行かれた三郎を動揺したまま追っていこうとする雷蔵に押さえていた教師が手刀を浴びせる。何かを求めて泳いでいた手が地に落ちると同時に、周囲は沈黙が支配した。







「……ん」
 次に雷蔵が目を覚ました時、目の前にあるのは木目の天井だった。見覚えのあるその光景に目を瞬かせると、柔らかい笑みを浮かべた上級生が顔を出す。
「目が覚めた? 気分はどう?」
「ぜんぽうじ、いさくせんぱい……?」
 一つ上の先輩が自分を見下ろしている。その状況が掴めずに瞬きを繰り返した後、雷蔵は全てを〈思い出した〉。同時に跳ね起き、自分を覗き込んでいた善法寺の額へと見事に頭を打ち付ける。
「いっ……!」
「あたた……だ、大丈夫、不破?」
「平気です、すみません……じゃない! 先輩、三郎は!? 三郎は無事なんですか!?」
 額を押さえて前屈みとなった雷蔵だが、己の痛みよりも三郎のことが気にかかった。同じく額を押さえて悶絶している伊作へとすぐ向き直り、肩を揺さぶるように問い詰める。それに伊作は少し困った笑みを浮かべた後、彼を奥にある衝立の裏へと招いた。
「ようやく眠ったから、起こさないでね。――顔を剥ぐな、見るなともう暴れてさ、治療よりも彼の駄々の方が大変だったよ。
 不破、大丈夫。鉢屋の怪我は命に別条ないよ。出血は多かったけど、傷はそんなに深くなかったから縫うほどでもなかったし。傷が塞がればすぐに動けるようになるさ」
 傷が残るかもしれないけれど、という言葉は伊作の喉で殺された。自分を庇って傷付いた友人を見ながら、自責の念で自殺しそうな後輩にこれ以上負担を掛けられはしなかった。
 雷蔵はと言えば、頭巾をしっかりと巻きつけて眠る少年の姿を見て安堵とも恐怖ともつかぬ涙を零している。彼女自身も意識して流しているわけではないようで、三郎を見詰めるために開かれた目から自然に涙が落ちているようだ。手を伸ばそうとして、頭巾から除く目元や肌の白さに怯えたようにためらって手を引く。それでも静かな部屋に染み入る小さな寝息に、雷蔵は深い吐息を洩らした。
「……三郎、生きてる……」
「うん、生きてるよ。大丈夫、さっきも言ったろ、命に別条はないってさ。――さ、不破も少しお休みよ。興奮してたし、君の心にも負担が掛かっていたから辛いはずだよ」
「僕は平気です! 僕の所為で三郎が……。僕が、気付かなかったから。あんな罠に掛からなければ、三郎を巻き込むこともなかったのに! 僕が、弱い所為で!」
 時に心の傷は身体の傷を凌駕する。それを身を以て知っている伊作は雷蔵の肩を抱いて先程の(しとね)に導こうとする。しかし、雷蔵は自責の念と心配とで三郎の傍を離れることを頑として受け入れず、伊作はまたしてもひとつ下の子どもの駄々に困ることになったのだった。
 最終的に雷蔵を再び薬で沈めた伊作は、崩れ落ちた彼女の身体を抱えながら溜め息を吐いた。気持ちは分からないでもないが、保健委員として看過できない状況である。自分のことを棚に上げても、雷蔵には休んでもらわねばならなかった。
「……ひどい顔してますね」
「起きていたのかい、鉢屋」
「あの騒ぎで起きない方がおかしいかと。――ああでも、雷蔵に怪我がなくて良かった」
 雷蔵を先程寝かせていた床へ戻そうとした時、傍らから声が聞こえた。視線を下げれば、頭巾から覗く目がこちらを見つめている。三郎の視界に入る雷蔵の顔は泣き疲れていて、瞼は赤く腫れ、何とも痛々しい様子だ。しかし、それ以外に怪我などはないようで、彼は心底ほっとしたように安堵の溜め息を吐いた。その様子は普段飄々と周囲をからかってはするりと逃げていく鉢屋 三郎の姿とは全く違っていて、伊作は呆れた様子で笑った。
「――鉢屋は不破のことが好きなんだねえ」
「ええ、とても」
「…………そうかい」
 伊作の喉から漏れた答えは、どこか吐息のようで。三郎はその声音に含まれた複雑な感情に気付いて視線を上げた。けれど伊作はただ笑うだけで彼の問いには答えず、ただ一言だけ口にする。
「大切にしすぎて、何が一番大切かを見誤らないようにね」
 三郎がその言葉の真意を問うより早く、伊作は雷蔵を抱えて背を向けてしまった。そして、三郎がその意味に気付くのはもう少し先のこととなる。



「……何か、雷蔵ちょっと変わったよな」
「ああ」
 鉢屋 三郎の怪我が全快して数日、不破 雷蔵の様子がおかしくなった。――いや、おかしくなった、と言うのは語弊があるかもしれない。雷蔵の様子は全く常と変らない。優しい笑みも致命的な悩み癖もそのままだ。ただ、長屋へ戻る時間がひどく遅くなったことと、その身体が汚れと打ち身、擦り傷、切り傷だらけになったのである。
 初めはまた自分に間違えられて誰かに絡まれたのかと邪推した三郎であるが、雷蔵自身がそれを笑顔で否定した。同時に図書委員の先輩である中在家 長次に色々と教えてもらっているのだと彼女は言う。その時の鍛練でどうしても生傷が絶えないのだと。顔も身体もいつの間にか痣やかさぶたにまみれ、日に日に雷蔵は痛ましい姿に変わってゆく。そして、愛しい娘がそのような姿になっていくのを、黙って見ていられるほど三郎は大人ではなかった。
「雷蔵、鍛練なら私が相手になるぞ。あんまり傷を増やすと、授業にも支障が出るだろう?」
「ううん、中在家先輩方がせっかくお相手してくださるから。それに……三郎は、僕に手加減するだろう?」
 その言葉を三郎は一瞬理解できなかった。瞬きを一度すると、雷蔵が困ったように笑う。
「三郎。……僕はね、この前初めて鼻血を出したんだ。顔を殴られてね」
「なっ……!」
「そこで初めて気付いたよ。――僕は今まで甘やかされていたんだなあって。
 だって、そうでしょう? 顔を狙うなんて戦闘では当たり前のことだ。目にしろ人中(じんちゅう)にしろ、急所を狙うは戦いの道理。それをこの歳になるまで知らなかったなんて、おかしいじゃないか。……ああ、別にお前を責めてるんじゃないよ。僕が弱いから手加減するんだと思うしね」
「そんなつもりじゃ……!」
 三郎には雷蔵が女だという意識が刷り込まれている。故に彼女の顔や身体に痕を残すようなことは極力避けるようにしていた。それを雷蔵自身も分かっているのだろう、だから彼女は決して三郎を責め立てるようなことはしない。ただ、困ったように笑うだけだ。
「だから、強くなろうと思って。三郎が本気出して掛かってきても平気なくらい、強く。そのためにはお前と鍛練できない。――だって、お前と鍛練したら、お前との差が埋まらないだろう?
 三郎は先に行っててよ。――僕もすぐに追い付くから」
 「待ってて」とは言わない。それは雷蔵の矜持だった。そんな雷蔵に三郎はただ言葉をなくし、最後には小さく俯く。己と同じ顔が目の前で落ち込む姿は少し滑稽にさえ見えたが、それでも雷蔵は三郎を傷付けても彼の隣りに並びたかった。同級の忍たまとして、同室の、一番近しい友人として、彼と胸を張って並べる間柄になりたかったのだ。







「……で、三郎が拗ねちゃったわけだ」
「うーん……拗ねたと言うか、まあ拗ねたのかなあ……でも、僕が理由とは限らないでしょう?」
「いや、あれは雷蔵の所為だろう。あれだ、今の三郎は可愛い弟分に突如手を振り払われ、反旗を翻されたお兄ちゃんだ」
 いやに悪戯を繰り返す三郎に何かを感じ取ったのか、八左ヱ門が雷蔵の許へやって来た。その理由が自分にあるとは思えないが、八左ヱ門に問われるまま、最近の出来事を話すと雷蔵に原因があると断じられる。それに頬を掻きながら困った顔をすると、八左ヱ門が彼女に指を突き付ける。
「でも、雷蔵。俺たちも心配してるんだぞ。毎日ボロボロじゃねえか。このままじゃ強くなる前にまいっちまうんじゃねえかって」
「大丈夫、平気だよ。確かに最初は先輩方についていくのも辛かったけど、今は平気になったし。それに今、色々試してることがあってさ。それが上手くいけば、僕はもっと強くなれるはず」
 八左ヱ門は己の言葉など全く聞く気のない雷蔵に溜め息を吐いた。――柔らかな態度や性格に迷い癖で見誤られがちだが、この級友はとても頑固だ。一度自分でこうと決めたが最後、何があろうと翻すことはない。それを知っている八左ヱ門は、雷蔵が真っ直ぐに突き進むことをただ肩をすくめることで諦めるより他になかった。



「……またそんなに汚れて帰ってきて」
「すぐに風呂に行くから怒るなよ。それに部屋まで汚してないだろ?」
「そういう問題じゃないんだ」
 その日も夜更けに戻って来た雷蔵に、既に部屋で休んでいた三郎が小さく小言を洩らす。それに雷蔵がいつもの通りに笑みを浮かべると、三郎はどうして良いか分からなくなった。
(――雷蔵が強くなりたいと言うのを、私が阻むわけにはいかない)
 同級の友人として、同じ志を持つ者として、彼女の意志を尊重するのが普通だ。しかし、毎日ボロボロになって戻ってくる雷蔵を見るたび、三郎の心が騒いだ。――そして、それが己の背中の傷に起因しているということも、彼の心を波立たせる理由のひとつだ。
(私がもっと強ければ、雷蔵に気負わせる必要などなかったのに)
 雷蔵はあの日から目に見えて変わった。おっとりとした彼女がやる気になったことに教師も周囲も喜んでいるようだが、三郎だけはそれを歓迎できないでいる。しかし、その理由が彼女を己の背中に隠して、守っておきたいという身勝手な願いであることを知っていた三郎は、何も言えずに遅くまで鍛練する雷蔵を待つしかないのだ。「天才」と呼ばれた己の矜持がこの時ばかりは苛立たしかった。
「――私は馬鹿だ」
 彼女のためにも、雷蔵は強くなるべきだと思う。その一方で、三郎は男として雷蔵という娘をずっと守る役目に浸っていたかったのだ。――まだ幼い心には手に余る矛盾に心を揺さぶられ、常に喉に小骨が引っ掛かったような心地悪さを感じながら、三郎はしばらくの日々を過ごすのであった。



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「最後の約束」より【記憶の中で】――『喉にひっかかった小骨のような』
お題提供:それでも僕らは今日もまた 己の生を紡ぎ 歩いていく



鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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