鈍行


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▼奥底に秘めた


「はああああ……」
 鉢屋 三郎の口から深い溜め息が漏れる。先だってのオリエンテーリングで受けた深い心の傷――と彼自身は思っている――は未だに癒えていない。けれど、彼がその出来事に大きな衝撃を受けているとは知りもしない不破 雷蔵はいつもと同じくへらへらと笑っているし、彼自身も矜持が高すぎて素知らぬ顔をするしかない。幸いにも雷蔵は人一倍そういった感情の機微に聡いゆえに、踏み込むべき時と踏み込まざるべき時を本能的に知っている。そのために少しだけ困った顔で三郎を見ることはあっても、それ以上は踏み込んでこないのだ。そのことが三郎にとっては有り難くもあり、また雷蔵と自分との間に隔たる差を見せつけられたようで悔しかった。
「大きな溜め息だねえ、何かあったの?」
「べっつにー?」
「それなら良いけど。あ、それとね三郎君、この前の実技のことなんだけど……」
 思わせぶりに溜め息を吐いても、雷蔵は一向に気にすることがない。いや、気にはしているのだろうが、彼が拗ねていることに気付いて放置しているということの方が正しいのだろう。雷蔵には兄弟姉妹が多いと聞くから、もしかしたらこういう態度にも慣れているのかも知れない。――そこまで考えて、三郎は自分の振る舞いが余りにも子ども染みていることに気付き、そのもやもやを心の奥底に押し込めた。
 雷蔵はそんな三郎を本当に気にしていない。迷う割に大雑把なところがある、と本人が言う通りに細かいところは気にしないことが多いのだ。そのために今でも三郎は顔を隠したままで居られるし、同室の雷蔵が平気で過ごしている以上他の人間も何となくそのままで流されてくれる。少しは気にしろよ、と思わないでもないのだが、何となくそれを本人に言うことは憚られて三郎は今日も面を付けている。
「……でね、どうして真っ直ぐ前に飛ばないのかなって……聞いてる?」
「聞いてるよ、手裏剣が前に飛ばないんだろ? 投げ方が悪いんだよ」
「三郎君はそうやってまたあっさりと……はああ、僕にも三郎君みたいな才能があったらなあ。手裏剣ひとつちゃんと飛ばせないなんて」
 雷蔵は三郎の言葉にがっくりと項垂れる。どうして投げ方が悪くなるのかの方が知りたいのだが、彼に聞いても応えてくれるかは甚だ疑問だ。何せ、三郎は何故か雷蔵を目の敵――というのは少し違うが――にしている。彼女自身は彼に何をした記憶もないのだが、三郎はどうにも彼女を意識していた。意識するほどの相手ではないと思うのは雷蔵自身で、そこに三郎と彼女の間に隔たる距離を感じて再び雷蔵は溜め息を吐いた。……先程から思わせぶりに溜め息を吐く三郎だが、本当に溜め息を吐きたいのは彼女の方である。
「……雷蔵は投げる時に身体がぶれてるんだよ。重心をきちんと定めなきゃ」
「え!? 嘘! 本当に!?」
「何で私が嘘を言わなきゃいけないんだよ。君、ちょっと重心が偏ってるんだよ。だから、よくすっ転んだり躓いたりするんだ。直せるうちに直しておくべきだと思うな」
「えええ……!? うっそお……重心ってことは、身体が傾いてるってことだよね? うーん、どっち側に?」
「右」
 三郎の簡潔な返答に雷蔵はハッと気付いた。右手は常に弟や妹たちの手を引いていた手だ。――要するに、そういうことなのだろう。無意識に自分が身体を小さな弟妹たちの手を引くために傾けていただろうことに思い当って、雷蔵は深い溜め息を吐いた。
「……なるほどね、よく分かった有り難うね、三郎君。道理で……」
「道理で?」
「――僕の家、兄弟が多いって言ったろ? 右手でよく小さいのの手を引いてたから、多分その所為だ。しかし、重心って直せるものなのかな。新野先生に聞いたら答えてくださるかしら?」
 雷蔵は三郎の問いに困ったように笑って答えた。今はもう、そのためにはほとんど使わない右手。利き手を空けておくのが忍者の習い。それゆえに雷蔵もいつの間にか物を持つにも左手を使うようになっていた。思わず手を握ったり開いたりして、苦笑する。少しずつ、彼女もまた変わっているのだと思い知らされた気がした。
 ――そんな様子を三郎が興味深げに眺めていたことなど、雷蔵は気付きもしない。三郎は雷蔵がどこか複雑な表情で手のひらを見つめる様を見ながら、どうしてそんな表情をするのだろうと考えていた。







 更に時は過ぎて、二人は一年生の半分を過ごした。一年生と言えどもそれなりに知識を得て、二人は少しだけ大きくなる。特に三郎は妖物(ばけもの)の術を勉強した後に悪戯の技術を更に上げた。――こういう無駄な部分に実力を注ぎ込むところに雷蔵は三郎らしさを感じて、少しだけ悔しく、けれど楽しく感じている。
 彼は冷静なように見えて、あれで案外子どもっぽい。一言で言うのならば、背伸びしたがる子どものような。雷蔵は自分より少し下の弟を思い出して、何だかおかしくなった。自分はもう一人前だと思っていて、一生懸命背伸びをする子ども。もっとも、三郎は既に背伸びできるだけの実力を身に付けているので、雷蔵の弟のように滑稽ではなかったが。
「……あれ?」
 雷蔵はそんなことを考えながら無人の部屋で着替えていたのだが――そこで、自分の身体の変化に気付いた。少し、胸が膨らんで来ている気がするのだ。もっとも、まだよくよく見てみなければ分からないが。それでも、出て来ている。ふっくらと、少しだけ。そっと胸に手を当ててみるとしこりのようなものが存在し、触れれば少し痛かった。
「……ど、どうしよう」
 いつかは自分も女の身体になるとは分かっていた。分かっていたが、今ではないいつかだとずっと思い込んでいたのだ。予想よりもずっと早く自分の身に訪れた変化に雷蔵は慌てる。思わず装束の襟を掻き合わせた。誰が居るわけでもないのだが、何となく恥ずかしくなったのだ。さすがに厚い装束の上から胸が目立つことはないが、それでも胸が膨らみ始めたということは次第に目立つようになるということである。雷蔵はどうしたら良いのだろうか、と前を掻き合わせた状態のままでうろうろと部屋を歩き始めた。
「善法寺先輩のところへ行くべきか、でもまだ平気かも知れないし……」
「何がだよ?」
「うわああっ!? さ、三郎君……って、あれ? お面はどうした……ええええっ!? って、その顔、僕の顔!? え、何、どういうこと!? 実は僕の生き別れの兄弟だったとか? いや、でも、ウチの母さんはそんなこと一言も……」
「違うって。――ほら、これ」
 頭を抱えて混乱する雷蔵に対し、三郎は自分の顔の皮を一枚剥がした。よもやそのような暴挙に出るとは思わず、雷蔵は「ひえっ!」と声を上げ、顔を手で覆って目を閉じた。しかし、痛がる声どころか何も聞こえず、雷蔵は恐る恐る三郎の顔を窺う。その頃には彼は既にいつもの面を装着しており、その手には先程引き剥がした皮が提げられていた。
「い……痛くないの?」
「馬鹿だな、この前習っただろう? 妖物の術だよ。ほら、顔を新しく一枚皮を付けることで変えてるんだ」
 三郎が差し出した薄い膜を雷蔵は恐々と受け取った。それを指で摘んでぶら下げると、確かに自分の顔がそこにある。何だか気味が悪くなって、雷蔵はそっとそれを三郎に返した。
「どうして僕の顔にしてたの? 驚いちゃったじゃないか」
「驚かせることが目的だったんだよ。全く、雷蔵は初めて会った時以来、何をしても驚かなくてつまらなかったんだ。でも、今回はさすがに驚いてたね。反応は予想してたのと何か違ったけど」
「そう? ……でも、あんまり急にああいうことするのはやめてよね。僕、心臓が止まるかと思ったじゃないか」
「その割には結構冷静だったけど? 普通、同じ顔を見て驚いても、生き別れの兄弟の存在は考えないでしょ」
「え、そうかなあ? だって、お化けだとか考えるよりもそっちの方が可能性は高くない?」
「……そういうところが冷静だって言うんだよ。全く、遊び甲斐がないったら」
 三郎の言葉に雷蔵は「人で遊ぶな」と言いたかったが、例え言ったところで聞く相手ではないのはこの半年の間に分かっている。第一、教師に注意されてもなお面を外さないし、悪戯も止めないのだ。同室というだけの雷蔵が何を言ったところで聞く耳は持たないだろう。未だに飛び跳ね続ける心臓を上から押えながら、雷蔵は深く深く息を吐いた。
「――で、そういう雷蔵は今度は何を悩んでたんだ? 善法寺先輩に用ってことは、どこか怪我したとか、具合が悪いのか?」
「え? ああ、いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……ちょっとね」
 先程とは少し雰囲気が変わった三郎に、雷蔵は思わず微笑んだ。――人をからかったりと悪趣味なところは多いが、それでも根っからの悪い人間ではない。それはいつもどこかでヘマをしたりうっかりしたりする雷蔵を助けてくれたり、今もこうして何だかんだ言いながらも心配してくれることから分かっている。心配してくれたことが素直に嬉しい雷蔵だったが、その内容が内容であるが故に打ち明けることもできずに曖昧に笑った。
 それに三郎は訝しげな顔をして雷蔵を見やる。それに彼女はもう一度にっこりと微笑んで、大丈夫だよ、と繰り返す。――大丈夫、まだ大丈夫。雷蔵は自分自身に言い聞かせるように心の中で呟いた。まだ普通に生活できるはず。今のうちに対処しなければならない。そうしなければ……自分はここに居られなくなるのだから。
「……本当に大丈夫なのか? ちょっと顔色悪くないか?」
「うん、平気だよ。心配してくれて有り難う。別に具合は悪くないから、光の具合じゃないかな。ほら、どう?」
 雷蔵は不安を噛み殺して、部屋の奥から光の当たる場所へと自ら足を踏み出す。自分の不安を、不調を噛み殺すことには慣れている。にっこりと微笑めば両親ですら騙されることを彼女は知っていた。そんな雷蔵に三郎は未だ少し納得しかねる顔をしていたが、そのまま「ちょっと出てくる」と言い残して部屋を出てしまえば有耶無耶になるだろうと彼女は踏んで、部屋を後にする。――意外に自分も計算高い、と雷蔵はちらりと思った。
 しかし、その予想は外れる。三郎が彼女の腕を取ったのだ。歩き出そうとしていた方向とは逆の方向に引っ張られる形となった雷蔵は思わずたたらを踏む。予想以上に強い力で引き留められ、雷蔵は思わず後ろにひっくり返った。
「うわっ、たったったっ……ごめ――いっだぁっ!」
 三郎を巻き込む形で後ろに転がった雷蔵は慌てて謝りながら起き上ろうとして――その言葉を途切れさせた。胸に走った痛みによって。
 咄嗟に支えようとしたのだろう、三郎の手が雷蔵の身体に触れていた。それが腰や腹なら大したことはない、彼女だって笑って済ませる。だが、それは先程雷蔵が違和感を感じた場所――胸に当たっていたのだ。図らずも力いっぱい押し上げられるような形となった胸は少しの刺激でも痛みを走らせるわけで、雷蔵は思わず激痛に声なき悲鳴を上げた。
「らいぞっ……おま、おま、まさか……っ!?」
 動揺したのは三郎も同じで、彼は先程自分が押し上げた箇所の思いもかけない柔らかさに絶句した。起き上がった際に膝の上に乗る形となった雷蔵が胸を押さえて悶絶している様を見下ろした三郎は、彼女の身体をひっ掴んで先程飛び出した部屋へと放り投げる。同時に自身も部屋に滑り込んで、後ろ手に障子を閉めた。
「雷蔵、お前……どういうことなんだ?」
「さ、三郎」
「お前、まさかおん――「わーっ、駄目言わないで!」
 ようやく胸の痛みが治まった雷蔵は、慌てて三郎の口を塞ぐ。その際に勢い余って三郎を押し倒していたが、雷蔵はそんなことを気にする余裕がない。馬乗りの状態のまま、彼女は三郎の口を塞いでいる。普段とは違い危機迫る表情の雷蔵に三郎はどこか背徳的な喜びを覚えた。
「――お前でもそういう顔するんだな」
「え……?」
 雷蔵は三郎にまたがった状態のまま、うろたえた様子で彼に応じる。三郎は不思議と動揺する雷蔵とは対照的に冷静さを取り戻し、彼女の乗せたまま上半身だけ起き上がった。
「何故、ここに?」
「……ウチ、兄弟が多いって言ったろ。あのまま家に居ても食えなくなるだけだし、それなのに親はポコポコ子ども作るし、大きいのがひとり減るだけでも食い扶持は減るから、それで来たんだ」
「入学金とか、学費はどうしたんだ? そんなに金ないなら、払えないんじゃないのか?」
「いや、僕のお嫁入りのために用立てておいたお金を崩してもらって、それで……」
 そこまで話してから雷蔵はハッと我に返った。そんなことを話しているバヤイではない。一言で言うならば人生最大の危機に瀕しているというのに、どうして今こんなに普通に会話をしているのだ、自分は。慌てて不安そうな表情を引き締めて雷蔵は三郎を睨み付けた。しかし、三郎の方は彼女の鋭い視線などどこ吹く風で雷蔵を見上げている。その余裕にどうして良いか分からなくなった雷蔵は、混乱していた所為もあるのだろう、普段なら絶対にやらないであろう行動へ出た。
「――私のこと、黙ってて。じゃなきゃ……」
 懐にあった苦無で彼女は三郎の頸動脈を狙う。真面目に手入れをしているため、その刃は鋭い。しかし、手が震えているために狙いがきちんと定まっていない。その方が逆に危険であったので、三郎はさっと彼女の腕を掴んだ。
「誰にも言わないから安心しろ。――その方が面白そうだからな」
「ほ、本当に? 本当に本当?」
 泣きそうな顔で自分を見つめる少女の瞳が、涙で潤んでいることに三郎は初めて気付いた。じわりと涙の幕が瞳に張って、自分の顔――面なのだが――を映し出す。大きな瞳が普段以上に黒く見えて、三郎はおかしくなって笑った。
「言っても私が何の得をするんだ。それなら秘密にしておいて、いざという時の切り札にした方が良いじゃないか」
「い、いざという時の切り札って何だよおおおお!」
「いざという時の切り札はいざという時の切り札さ。――それに言ったろう、黙っていた方が面白そうだと。君がどこまでやれるのか、興味も湧いて来たしな」
 三郎はにやりと笑って、雷蔵の手に握られたままの苦無を取り上げた。くるりと刃先を回して彼女に柄を向けると、それを雷蔵に突き返す。
「ほら、とりあえず物騒なもんは仕舞えよ。言ったろ、私は面白い方が好きなんだ」
「でも……だって、ばらされちゃったら、もうここに居られなくなるから、困る……木下先生がそう仰ってて、だからばらされると本当に困るんだ……」
 返された苦無を胸の前で握り締めて、雷蔵は小さく呟く。黙っていると繰り返しているにも関わらず全く納得していない雷蔵の様子に不審を感じて、三郎は問い返した。
「木下先生は何て仰ってたんだ?」
「女だってことで問題を起こしたら、即退学にするって。――私のように帰る場所がある子どもを問題含めて預かっていられるほど、忍術学園は甘くないって……」
 その言葉に三郎は眉を上げた。雷蔵は確かに親があり、兄弟が居て、家がある。しかし、帰ることに彼女は異常なまでの恐怖を感じているようだ。先程の勢いはどこへやら、いつの間にか苦無を握り締めながら大粒の涙を瞳に溜めた雷蔵を三郎は溜め息と共に眺めた。
「――もしかして……帰る場所、ないのか?」
「え?」
「ここを出るの、嫌がってるみたいだから。お前なら案外どこでも平気でやって行きそうだけど、家に戻るの嫌がってる――怖がってるみたいだからな」
「……もう、多分居場所、ないから」
 雷蔵は三郎の言葉に小さく呟いた。――本当は知っている。自分をどこぞの師匠に預けようという話が何度も出ていたこと。その際に見返りとして少々の金子(きんす)を得れば、その場凌ぎであっても生活はできる。それに師匠の認可を得て雷蔵が独立すれば、仕送りも期待できるかもしれない。兄弟の多い雷蔵の家にとって、子どもをどうやって一人前にして世間に出すかが最大の悩みだった。
 そのことをぽつぽつと語ると、三郎は軽く頷いた。――師匠に付く、というのは、芸能者もしくは遊女(うかれめ)として生きるということだ。どちらにしても世の外の者、普通に生活している人々とは一線を画する生活となる。忍もまた似たようなものではないかと三郎は思うのだが、雷蔵は二つを天秤にかけて忍を取ったらしい。
「……案外、師匠に付いてた方が楽に生きられるかもしれないぞ? 何せこっちは騙し殺しの生臭い仕事ばっかりだ。お前には辛いんじゃないのか?」
「――遊女になって、師匠についても私じゃ多分何もできないで終わるよ。見ての通り、大した美人でもないし、男の子の中に混じってもあんまり変わらないしね。だったら、自分で何でもできる方が良かったんだ。勧めてくれる人も居たしね」
「女の子に忍を勧めるような男は碌な奴じゃないと思うぞ」
 思わず口を挟んだ三郎に、今度は雷蔵が笑った。――普段は自分が彼を抑える側に回るのだが、今は三郎が常識を語っている。その状況の反転におかしさを感じた雷蔵に、三郎が顔をしかめる。
「ごめん、つい……。うん、まあ、似たようなもんだったんだけど。その人も芸能者だったし。――仲が良かったから相談してみたんだ。そうしたら、自分や誰かに付いて修業をするよりも忍術学園に行った方が良いって言うから。たくさん迷ったんだけど、どうせ行くなら勧められた方が良いかなって」
「……相変わらず肝心なところで大雑把なんだな、雷蔵は……」
 呟く三郎は頭を掻いて溜め息を吐いた。だが、彼女は確かに忍――順忍向きかも知れない。性格も温和で人好きのするものだし、何より相手に警戒心を抱かせにくい。町中に潜ませれば十二分に活躍するだろう。とはいえ、それでも女子をこの学園に突っ込むというのは少々やり過ぎではないだろうか。そんなことを考えていると、とうとう雷蔵の瞳から大きな涙が一粒零れた。
「ああ、もう、泣くなってば! だから、言わないって言ってるだろ! もう、忍になるなら泣くんじゃない!」
「だってえ……」
「分かった分かった。何にも見返りがないのが不安なら、君の顔を貸してくれ。それで貸し借りなしにしよう」
 三郎の言葉に雷蔵は瞳に涙を溜めたまま、目を一度だけ瞬かせた。その拍子に再び涙が零れ、三郎はごしごしと手拭いで彼女の顔を拭った。――全く、一度は強いかと思えば、今度は童のようにボロボロと涙を流す。一体この娘は何なのだ、と三郎は何度目か分からない溜め息を吐いた。
「でも、顔を貸すって、何?」
「そのままの意味だよ。さっきの皮を見たろう? あれを使えば面を使わずにも生活できる。一番傍に居る同室のお前から始めれば、周囲も然程不審は持たないだろう。――何せ、四六時中監視して姿行動全てを写し取れるのは雷蔵、同室であるお前が一番やりやすいというのは誰でも分かることだからな。
 それに、同じ顔同じ仕草ができるようになれば、いざという時お前と私が入れ替わることもできる。男の身体が必要な時に成り代わってやっても良いということだ」
「え、でも……」
「その代わり! その代償は高いぞ。お前は常に私に真似られ、同じ顔と暮らさなければならない。正直言って、常人なら気が狂うところだ。
 ま、面よりも面倒だが、私にとっては中々やりがいのあることだし、それにお前の弱みを握るというのは中々良い気分だ。――さて、どうする、不破 雷蔵?」
 雷蔵はにやにやと自分を見上げる三郎に唇をぐっと引き締めた。――何て嫌な奴だろう! と頭の中で繰り返す。しかし、彼の申し出は雷蔵にとっては有り難いばかりなのも事実であり、彼女はぐっと唇を噛み締めた後に目の前にある彼の胸倉をむんずと掴んだ。
「――もし、約束を違えたら……」
「違えたら?」
「……ええっと……三郎の変装を皆の前で暴く!」
「――何とも言いがたい脅しだな。まあ、良い。私が簡単に素顔を雷蔵に引っぺがされるようになったら、どっちにしろ私もお終いだ」
「……それ、すごーく私に失礼な物言いだよね。まあ、良いけどさ」
 深い溜め息を吐いて雷蔵はがっくりと肩を落とした。確かに彼と雷蔵の実力の差は今のところ凄まじい。噂によると元々忍集団の出身らしく、忍としての基礎を既に叩き込まれているらしい。つまりは忍術学園一年生の授業などとっくの昔に習ったものばかりということだ。雷蔵は己の身との格差を感じて、何だか物悲しくなった。
「じゃ、そろそろ私の上から退いてくれるか? そろそろ足が痺れてきた」
「あ!? うわ、ごめん! 忘れてた……」
 三郎に言われてようやく自分の体勢を思い出した雷蔵は慌てて彼の膝から飛び降りる。それに三郎はようやく重しが退いたことで、足を曲げ伸ばしして血を通わせていた。その飄々とした態度がまた雷蔵の気に障ったのだが、今や彼女は弱い立場。何も言えずにもう一度がっくりと肩を落とした。
「――まあ、そうしょげるなよ。ようやく私は君を好きになれそうな気がしてきたんだから」
「それってつまり、今までは嫌いだったってことかい? 私は結構頑張ったのに」
「ああ、それは知ってる。だが私は裏表のない人間より、裏表のある人間の方が人間らしくて好きだというだけだ。気にするな」
「…………本当に本当に本当に、三郎君って嫌な奴だね!」
「お褒めに預かり恐悦至極。――それと、私のことは〈三郎〉で良い。いつまでも君なんぞ付けられてもこそばゆいばかりだ。私も雷蔵と呼んでいるしな」
 何とも我が道を行く三郎に雷蔵は今度こそ深い溜め息を吐く。前々から振り回されていると感じていたが、ここに来て彼女は自分が本当に三郎という存在に右往左往させられていることを自覚したのだった。



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「最後の約束」より【記憶の中で】――『奥底に秘めた』
お題提供:それでも僕らは今日もまた 己の生を紡ぎ 歩いていく



鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒


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