鈍行
▼うつつとゆめ
「――つまらんな、変わらず」
「そう言うなよ、仙ちゃん。仕方ないだろ、親父様のご意向なんだからさ」
「腹違いの兄弟姉妹全て集めても、親の嫉妬心や競争心を煽るだけだろうに。そうは思わんか、長次」
「……それでも、集まるのは楽しい」
「ほら、長次だってこう言ってるじゃん! それに全員が集まるなんて滅多にないんだからさ! ね、兵助!」
眞子は兄姉たちが何だかんだと言いながらもじゃれ合う様を、少し離れた場所から眺めていた。彼らとは少し年が離れた眞子は、幼いこともあってかどうも彼らとの会話に馴染めない。更に中宮である母が常に彼らの悪口を言い続けるため、幼い彼女にとって彼らはどうも懐きにくい存在だった。――優しい兄姉たちであるのは分かる。けれど、仲良くすれば母が怒る。まさに板挟みとなった眞子は、父の命で部屋から出ることもできず、広い部屋の隅で手慰みにと持たされた雛人形を抱えて縮こまっていた。
「全員じゃないですよ、そこの末姫の弟君はいらっしゃらない」
「ああ! でもほら、左近はまだ赤ん坊おややじゃん。さすがに乳母までは連れて来られないし」
はしゃぐ七宮に水を差すように冷たい八宮の声が届く。それに自分が注目を集めたことを知った眞子は、膝に置いていた雛人形を思わずぐっと握りしめて俯いた。――注目を集めるのは、特に苦手だった。母は彼女に誰よりも素晴らしい姫君となり、いつか国母になるのだとずっと言っているけれど、彼女はそんなものにはなりたくない。ただ、誰にも何も言われない場所で静かに暮らしていたかった。幼い少女には余りにもそぐわぬ願いだったが、それは偉大なる異母姉と比べ続けられる眞子にとってのまぎれもない本音である。それほどまでに彼女の母が常に比べ、超えろと声高に告げる女性の存在は大きかった。
黙って俯いてしまった眞子をどう勘違いしたのか、七宮小平太は胡坐をかいた膝を叩いて彼女を手招く。
「そんな端っこに居ないでこっち来たらどう? ほら、兄ちゃんのお膝においで」
眞子はその言葉に声もなく首を横に振った。そんな恐ろしいことはできるわけがない。もしその事実が誰かの目に留まり、母の耳にでも入ったら自分はどうなることだろう。特に小平太は彼女の母が目の敵にしている六宮と仲が良すぎる。そんな彼と仲良くなったと知れれば、眞子は間違いなくお仕置きされるであろう。しかし、それを遠慮に取ったのか、小平太は更ににじり寄ってくる。どうしたら上手く断れるのか分からない眞子は泣きそうになりながら首を何度も横に振って、まるでそれ以外に縋るものがないかのように雛人形を抱き締めた。
「小平太、駄目だ」
「……ちえ、振られちゃった」
天の助けは五宮長次。彼は眞子が本当に断っていることをすぐに見抜いて、更ににじり寄ろうとする小平太の襟首を掴んで止めた。小平太もそれでようやく彼女が本当に嫌がっていることに気付き、唇を尖らせつつも引き下がる。それにホッと息を吐いた眞子を隠すように、九宮兵助と八宮三郎が場所を移動した。
「大丈夫か、眞子? あんまりここに居るのが辛いようなら、先に戻っていて良いんだぞ?」
「馬鹿か、兵助。あの中宮様が許すわけないだろ。――末姫様、他に何か遊び道具が欲しいなら用意しますが」
比較的良識のある二人にそれぞれ声をかけられて、眞子は申し訳なさと情けなさで更に深く俯き、首を横に振る。――特に九宮兵助は六宮仙子と同腹の親王だ。彼女にとっては(正確に言えば、彼女の母にとっては)敵であるも同じ存在に助けられ、幼心に眞子はまた母に失望されると雛人形を抱き締めた。
「駄目だな、これは。放っておいてやるのが一番だ」
「三郎、変な言い方するな。――眞子、何かあったら誰にでも良いからすぐに声をかけなさい。いつでも応えるからね」
優しい言葉に眞子は消え入りたい気持ちになりながらも、せめてその優しさに報いることだけでもできるようにこっくりと頷いた。自分から声をかけることはまずないだろうが、応えることで相手が安堵するのは知っていたから。この中で唯一何の取り柄もない眞子は、その分誰よりも周囲の心に聡かった。
「あ……」
管弦の遊びが続く中、眞子は視線を外した先に見慣れぬ存在があることに気付いた。青緑色をした大人の親指ほどのものがうねうねと動いている。初めて見る存在は床の隅を身体をくねらせて進み、眞子はそのものにじっと視線を合わせた。次第に部屋の後ろへと向かっていくそれを追って、眞子はそっと御簾に背を向ける。背中の方では名手たちが思い思いの楽器を演奏していたが、その妙なる音曲も彼女の興味を引くことはなかった。
(――うねうねうね、うねうねうね)
小さな身体が波打って、少しずつ少しずつ床を這って行く。じりじりと眞子もその後を追っていくと、ふと頭上が翳った。ハッと視線を上げると、自分を覗き込むように上から見下ろしている九宮をはじめ、兄姉たちが皆自分を眺めていた。
「!」
どうして良いか分からずに雛人形を抱いて固まる眞子を余所に、柔らかく笑んだ兵助が彼女の傍らに腰を落とす。そんな彼の背中に、ひどく面白そうな顔をした姉宮が声をかけた。
「遊びにも我々にも興味を抱かぬ末姫がお気に召したのは何だ?」
「虫ですよ、姉上」
「……外に出しておけよ」
寸分違わず自分の頭へと飛んできた扇に兵助は小さく溜め息を吐いた。小さな妹がようやく退屈しのぎを見つけたというのに、姉宮はさっさとそれから引き離そうとしている。とは言え、彼もまたその理由を既に理解していたため、投げられた扇を傍に居た三郎へと手渡すと、彼は自分の扇をさっと広げて虫の進路へと置いた。
「このままここに置いておけば、間違いなく殺される。――その前に逃がしてやろう?」
「……はい」
眞子は兄の言葉に頷く以外に為す術を持たなかった。彼女の意志など常に尊重されない。それゆえに眞子は反抗を諦めるということを生まれてすぐに覚えた。少なくとも従順に頷きさえすれば被害は少なくて済む。それを彼女は身に沁みて分かっていた。
そんな彼女の心を露ほども知らぬ虫は進行方向の小さな段差など気にすることもなく、兵助の差し出した扇の上へと這い上がる。それをすかさず持ち上げた兵助は、簀すの子に出て外に控えている人間へと声をかけた。
「八、これ逃がしておいてくれ。いつの間にか入り込んでた」
「何ですか、って虫ですか。――可哀想に、確かにちょっと不細工かも知れないが、ずっと見てりゃ愛嬌あるんですがねえ。これを嫌がる人間の気が知れませんや」
「皆が皆、お前のように生物なら何でも可愛がれる人間じゃないんだよ。――殺されるよりマシだろ、扇は家に戻ってから返してくれりゃ良いから」
「ま、確かに。小さなひとつの命、確かにお預かりいたしました。――こいつらも成長すりゃ綺麗な蝶になるってのに、成虫は受け入れられて幼虫は受け入れられないってのも皮肉な話ですな」
眞子は自分の目の前で小さく這っていた虫が遠くへ連れて行かれるのを御簾越しに眺めていた。その背中では歌舞音曲が最高潮の盛り上がりを見せている。けれど、彼女には先程兵助の侍従が呟いた言葉の方がずっと気になった。
「――あにうえ、あのへんなものがちょうになるのですか?」
「え? ああ、そうだよ。あれが大きくなって蛹さなぎになって、そうしたら蝶になるんだ。不思議だよな」
「はい、ふしぎです。ぜんぜんかたちがちがうのに」
眞子に急に話し掛けられた兵助は少しだけ驚いた顔をしたものの、すぐににっこりと微笑んで彼女の隣に腰を下ろした。その横にさり気なく他の兄弟も集まってくる。さすがに仙子せんこと五宮までは寄って来なかったものの、小平太などは素早く彼女の後ろに気付かれぬように陣取っていた。
「眞子は虫が怖くないんだな。他の女の子は気持ち悪がったりするのに」
「きもちわるい……? なぜですか?」
「さあ、何故だろうな。色が変だからじゃないか?」
「あおかったですけど」
「ああ、他にも色んな色の奴が居るぞ! 斑まだらなのとか!」
珍しく兄たちと会話を続ける眞子であったが、背後から突然聞こえた大声に身を竦ませて咄嗟に三郎の影へと隠れた。その瞬間に方々から小平太へと刺々しい視線が突き刺さる。さすがの彼もそれに苦い笑みを浮かべる中、小さな声がその重苦しい空気を割いた。
「……あおくないのもいるのですか?」
「居るぞ! いっぱい居るぞ! 何なら今度取ってきてやろうな!」
「え! あ…………いえ、けっこうです。その、おかあさまが、おきにめされないとおもいますので……」
今回はさすがの眞子も興味が勝ったのか、少しだけ隣の三郎の影に隠れるように小平太へと声をかける。それに小平太がようやく会話が成立した末の妹に喜んで応じたが、彼女は一瞬嬉しそうな顔をしたきり、すぐに顔を俯けてしまう。細い声で呟かれたのは、彼女を縛める生母のこと。それに一瞬明るくなった空気もすぐに萎んで、年長者たちは苦々しい視線を交わし合った。普段はそのような負の感情を表すことのない仙子ですら、忌々しげに手元に戻っていた扇を音を立てて閉じる。再び深く顔を俯けてしまった眞子を、気を取り直した調子で小平太が膝に乗せながら告げた。
「なら、取ってきて見せるだけにしよう! その後はまた元居た場所に離してやれば良い。そうすれば眞子は虫が見れるし、虫は殺されなくて済む」
「……はい!」
「宮様、もうすぐ着きますよ」
聞き慣れた女房の声で彼女はハッと目を覚ました。――随分と幼い頃の夢を見ていたことに気付く。膝の上に乗せた虫籠が車の動きと共に揺れている。乗せている手の下でしゅるりと音を立てて、長虫が動いた。それに彼女は少しだけ笑みを零す。
「――じゅんこ、もうすぐだから待って」
思えばあの出来事が自分の趣味の始まりだった、と眞子は懐かしそうに思い出す。あの後、迎えが来るまでずっと七宮の膝に乗せられていたため、そのことを知った母から随分と怒られた。眞子の母は自分の血族以外の皇族は皆嫌いなのだ。そうして、叶いもしない願いを今も抱き続けている。出来損ないの娘と、まだ幼い息子に過剰な期待を注ぎ込むことで。
(――出来損ないの私が、六宮様に敵うはずもないのに)
自分は昔から高貴な女性が嗜むべき何もかもを上手くこなすことができなかった。歌舞音曲も人並み程度、和歌の才能は言うに及ばず、手蹟ても大したことはない。姫君たちが好んで行うようなことにも大した興味は持てぬ彼女にとって、唯一心の慰みとなったのは生き物たちだった。特に虫を好んだ眞子を周囲の人々は更に出来損ないだと陰口を叩いたが、それでも彼女が唯一誰にも奪わせなかった趣味が虫の成育。他の生物も飼わぬことはなかったが、眞子は特別虫が好きだった。――それで母や弟に何度も冷たい言葉を浴びせられることになっても。
『――また虫遊びですか。貴方は本当にご自分のお立場を分かっていらっしゃらない』
遠い日の記憶が頭の中に甦る。
自分の室へとやって来た弟の十一宮左近が、開口一番に冷えた声で眞子に言い放った。母にせっつかれてやって来たのか、それとも自分の悪い評判を聞きつけて腹を立てたのか。それは眞子には分からない。ただ、彼が自分の行動を咎めに来たことだけは確かだった。
『虫を好むことは許されませんか? ……蝶や小鳥を好む姫君は世に多くいらっしゃるでしょうに』
『蝶なら典雅とも言えましょう。ですが、そのように長虫や毒のある虫ばかり集められる方は貴方しかいらっしゃいません。皆笑っておいでですよ、十宮は人より虫の方がお好きなのだと』
『……それは多分、事実でしょうね。――虫たちは、人の悪口も陰口も言いませんもの』
眞子の言葉に左近は初めて言葉を絶った。多分、それは彼自身にも覚えのある感情だからだろう。中宮腹であっても、彼らに皇位継承権は遠い。それゆえに母は何とか彼女たちを権力の中枢に近付けようとありとあらゆる方策を使った。けれど、それが一番堪えたのは権力を望まなかった当の本人たちである。――彼女たちに自由は存在しない。ただ、母の言うことに頭を垂れる以外に生きる術はないのだから。
『……それでも、わたくしだって少しだけなら夢を見ても良いでしょう?』
『夢?』
『虫たちは幼い頃はこのような姿をしていますが、成長すれば蛹となり、羽化して蝶となります。――美しく育った彼らは、空を飛んでどこまでも行ける。わたくしたちには決して許されないけれど、夢を見るくらいなら』
『――仕方がありますまい。私たちは、あのお方の子どもなのだから』
『ええ。それでも、願うだけなら誰にも咎められないでしょう? 姉の我儘で貴方にも苦労をかけますが、どうかこれだけは許してください』
左近はその言葉に苦い顔をした。――彼はまだ良い。乳母子めのとごである伏木ふしきが傍に居るから。けれど、眞子には他に誰も居ない。親族以外の男どころか、身の回りに居る女房すら厳選された人間ばかりが侍る。いつか東宮妃に、と目された彼女は本当に籠の中の鳥だった。
『――それでも、私たちは』
あの時、弟は何と言っていただろうか。頭に浮かんだ苦い思い出は、彼女の心を重苦しくさせる。せめて心を慰めようと膝に乗せた籠をそっと撫でた時、車が大きく揺れた。
「きゃっ!? 宮様、お気を付け――わあ!」
続いて、横に激しく揺れた。辺りが急に騒がしくなる。咄嗟に手形にしがみ付いた眞子の膝から、虫籠が転げ落ちた。ハッと我に返って、その籠を手で追う。しかし、彼女の手が届くよりも早く虫籠は牛車の外へと転げ落ちた。
「じゅんこ……!」
「宮様、危ない……!」
思わず手形から手を離して籠を追う眞子の身体を、もう一度強い揺れが襲った。牛車から転げた虫籠を追っていた眞子は、その揺れに身体が中空へ投げされるのを感じた。あ、と思うよりも早く自分の身体が車の外へと転げ出される。思わず目を閉じて衝撃に備えた眞子の身体を襲ったのは――地面へ無様に転がる痛みではなく、誰かの腕と大きな声だった。
「うお!? 何だ、一体!?」
「あ……」
眞子はその声に顔を上げる。そこにはひどく驚いた様子の男が自分を抱き留めていた。驚いて瞬く眞子を尻目に、男は目を大きく見開いた。同時に彼女の頭を自分の肩へと押し付け、低く囁く。
「早く顔を伏せて隠してください! 衆目があります!」
その言葉に眞子はようやく自分の状況を思い出す。慌てて言われた通りに男の肩に頭を伏せ、自分の顔が衆目にさらされることを防いだ。しかし、それからどうしてよいのか分からない。困って固まる眞子を他所に、男はもぞもぞと動いてから彼女に何かを被せた。大きな布のようだ。驚いて再び目を上げる眞子に、彼は彼女の顔を隠すように被せた布を深く顔に下ろす。
「被衣かづきでなくて申し訳ありませんが、我慢なさってください。さ、牛車に戻しますよ」
「あ、じゅんこが……!」
眞子は自分を再び車の中へ戻そうとする男に思わず抵抗した。転げた虫籠こそが彼女の転げた理由である。自分の何より大切な友人を放って置くわけには行かなかった。しかし、男は腕を泳がせる眞子をしっかりと捕らえて放してはくれない。
「駄目ですよ! じゅんこって誰ですか? 私がその子も探しますから! とにかく貴方は車に戻って!」
「長虫――真虫なのです! 虫籠が転げて……牛に踏まれでもしたら!」
「ながっ……分かりました、分かりましたから! じゅんこという長虫なんですね? それもちゃんと探しておきますから、とにかく貴方は車に戻ってください! 早く!」
男は今度こそ有無を言わさず眞子を抱え上げた。抵抗する暇もなく彼女はを車の中に押し込め、外から見えないように御簾を下ろされる。中で振動に耐えていた女房が牛車に戻った彼女の傍へとにじり寄った。そこで初めて、眞子は自分に被せられた布が装束の上着であることに気付いたのである。
「お怪我はありませんの、宮様!」
「え、ええ、わたくしは大丈夫です。それよりも……一体何が起こったのですか?」
「わたくしにもよくは分かりませんが……どうも、牛が暴れたようですわ。今は落ち着かせているみたいですけれど……ああ、宮様がご無事で良かった!」
女房の白々しい言葉に眞子は少しだけ溜め息を吐いた。勿論、牛が暴れている車に乗っていたのだからそれなりに揺れたのだろう。それでも本当に心ある女房なら主を何とか助けようとするはずだ。しかし、ひたすら揺れに怯え続けて、車から落ちた自分を助けに出るような素振りすら見せなかった女房に彼女は冷ややかな気持ちになった。見ず知らずの、眞子の身分すら知らぬような殿方は咄嗟に抱き留めるだけでなく、上着を貸してくれ、更にじゅんこまで探してくれると言ったのに。――そこまで考えて、眞子は己の胸がギュッと絞られるような痛みを感じた。
(じゅんこ……無事だろうか)
本当は自分自身で探しに行きたかったが、それは多くの人間に迷惑をかけることに彼女は既に気付いていた。例え出来損ないであろうとも、彼女は皇女なのだ。迂闊な行動はもう取れない。なので、今自分を助けてくれた親切な人物が約束を守ってくれることを祈る以外に彼女に為す術はないのだ。
(――神様、仏様、誰でも良いです、じゅんこをどうぞお守りください……!)
心の中で強く祈る。その祈りが通じたのか、直にその願いは聞き届けられた。――但し、神仏によってではなく、ひとりの男の手によって。
「失礼、虫籠を受け取ってください!」
「じゅんこ!」
御簾の外から籠が差し出される。その中には彼女の大切な友人がしっかりと納まっていた。突然突き出された長虫に息を飲んで固まる女房を放置し、彼女はその籠を受け取って胸に抱き締めた。しゅるり、と聞き慣れた彼女の動く音が眞子の耳に届く。それに一気に安堵した眞子に、男の優しい声が届く。
「その真虫で合ってますね? 籠、留め具が壊れていたのでとりあえず紐で縛ってあります。籠は新しくなさるか、修理に出してください。――貴方がその真虫を大切になさっていて良かった。お蔭で人懐こくて、捕まえるのに苦労しませんでしたよ」
「あの……有り難うございます!」
名も知らぬ、それこそ氏素性も全く分からぬ男に直接声をかけるなど有り得ないことだ。しかし、眞子はその常識の一切を振り捨てて彼に声をかけていた。名を尋ねる眞子に男はただ笑い、物の数にも入らぬ者だとだけ告げる。尚も名を尋ねようとする眞子を遮るように男から暇乞いの声がかかり、彼女が止めるより早くその足音は遠ざかっていった。眞子は何とか男の姿をもう一目見ようと御簾を持ち上げて外を窺おうとしたが、虫籠を持っていたことと重たい装束が邪魔をして上手くいかない。ようやく外を覗いた時には、ひとり上着を着ていない男の背中が見えたきりだった。
「……あの方は、一体どなただったの?」
「み、宮様、そのように身を乗り出しては!」
更によく見ようと御簾を上げて身体を乗り出す眞子を女房が引き止める。それに彼女は肝心な時には全く役に立たないくせに、と苦々しく思いながら、渋々従って牛車の奥へ戻った。――大人しくしておかねば、自分の行動は逐一この女房から母に伝わるのだ。仕方なしに男の姿を追うのを諦め、彼女はもう一度虫籠を撫でた。同時に見慣れぬ紐が虫籠の口を無理やりに閉じているのに気付く。その紐を指で辿って、彼女は先程垣間見た男の顔を思い出した。
その面立ちに引っかかりを覚え、彼女は指折り数えるほどしか知らない男性を次々と思い浮かべる。そこでようやく、彼女は見覚えがあると思う男性を思い出した。――あの男性は多分、異母兄である九宮兵助の侍従である。時折、思い出したように兄弟姉妹が集まる際に異母兄の傍に控えていたり、庭で他の人間と働いている姿を見たことがある。同時に、彼が虫籠を渡してくれた時のことを思い出して、眞子はうっすらと頬を染めた。
(――〈大切にしている〉と。分かってくださった)
長虫など大切にするわけがないと皆が言う。大切にすればするほど、人々は彼女を気味の悪い人間だと囁き合った。けれど、彼は。――彼だけは。
(たったひとこと、それだけなのに)
嬉しいと、眞子は思った。とてもとても、嬉しいと。そうして、自分の手元に残った、未だ肩に掛かったままの上着をそっと引き寄せる。少し擦り切れた、明らかに着古された衣装であるのに、眞子は不思議とそれが嫌だとも賤しいとも思わなかった。逆に彼がどれだけ働いているのかを感じられて、何だかひどく胸が浮き立つ。
「――お礼を、しなくてはなりませんね。助けていただきました」
「後程、文でも送らせれば宜しいでしょう」
「……そうね」
眞子は冷たく言い放った女房に、気付かれぬように溜め息を吐いた。――所詮、自分は籠の鳥なのだと思い知らされる。今こうして自分の膝に乗っているじゅんこのように。自由に動くことのできぬ、もどかしい身が悔しかった。
(……せめて、自分でお礼くらいお伝えできれば良いのに)
その小さな願いですら、きっと許されぬだろうと眞子は知っていた。彼は、九宮――女御腹の皇子側の人間だ。兄弟ですら関わることを嫌がる母が、その侍従に文など出させるはずもない。どこまでも儘ならぬ己に、眞子はもう癖に近い溜め息を吐いた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒