鈍行
▼プロローグ
チャプン、という音に食満 留三郎は顔を上げた。
現在は食堂の給仕当番として、食堂のおばちゃんの手伝いをしに来ている。その中で明らかに調理と違う音が聞こえたのだ。気になって視線をさまよわせると、同級生の手に収まった小さな筒が目に入った。
「伊作、何だそれ」
「うん、新薬」
その言葉に留三郎はうっと顔をしかめる。善法寺伊作という男は保健委員長という役柄故か、それともただの趣味なのか、時折こうやって自分で新しく薬を調合する。勿論、普段は効能の全て分かっている薬品や薬草を組み合わせての作成なので何が起こるわけでもないのだが、やはり新しい薬というのは警戒してしまう。
勿論、伊作自身が留三郎にその薬を盛るわけではない。伊作はその辺りのことは決して誰か他人で試そうとはしなかった。必ず効能は生物委員会で借り受けた小動物で危険性を確かめた後、人体への影響に関しては己の身で確かめる。だが、もうひとつの彼の身上である〈不運〉が、留三郎を度々騒動へと叩き落としていた。それ故に留三郎は伊作の新薬を苦手とする。それは彼も分かっているのか、ただ苦笑を洩らしただけだ。
「大丈夫、今日の夕飯に混ぜて食べようと思って持って来ただけだから」
「そんじゃ、一応は安全確認済みってことか」
「うん。竹谷には毎度戦々恐々とされてるけどね」
それはそうだろう、と留三郎は思う。虫獣遁で使うと言えど、世話をすれば情が移る。時折しか生物に触れない自分たちですらこうなのだから、普段から丹念に世話をしている生物委員たちは伊作の生体実験を本当に恐れていた。
勿論、彼らとて効能の曖昧な薬をいきなり人体で試すわけにはいかないと知っているからこそ、伊作に請われるがままに生物を貸し出すのだ。しかし、だからと言って平気であるというわけではない。以前に自分たちの長屋まで借りた動物を引き取りにきたことがあった竹谷は、態度にこそ現わさなかったが、無事で動いているその獣に本当に胸を撫で下ろすようだった。
そこまで考えて、留三郎は伊作の持つ筒へ視線を落とした。訳の分からない効能が含まれたその薬品はちゃぷん、と伊作の手が揺れるたびに水音を立てる。一体どんな効能があるのか、留三郎はふと気になって口を開いた。
「今度は何を作ったんだ?」
「んー……それがさあ、この間明から新種の生き物の粉末? が届いてさ。で、新野先生のご許可を頂いて、薬に直してみたんだよ。一応貿易商から人体に無害ではある、ってお墨付きは貰ったけど、実際どんな効能があるのやら」
「じゃ、本当にどんな薬かも分かんないのか?」
「そうなんだ。とりあえず、生物委員会から借りたカエルに与えてみた時は命に別条はないみたいだったし、後は人体に投与してどんな影響があるかだね。と言うわけで、今晩は部屋に戻らないと思うから宜しく」
「それは構わねえが……あんまり無理すんなよ。お前がやられちまったら、新野先生と他の保健委員だけでどうやって治療するんだ」
「ウチの子は皆優秀ですから〜、なんてね。――大丈夫だよ、留三郎。心配してくれて有り難う」
にこ、と伊作が笑う。この二人は六年間同室で恋仲でもある。当然、ふわりと桃色じみた空気が辺りに流れた。
しかし、状況は厨房。更に言えば、もうすぐ夕飯時の一番忙しい時期である。離れた場所で忙しそうに立ち働いていたおばちゃんは、固まって話し込んでいる伊作と留三郎に叱咤を放った。
「こらっ、忙しいんだから仕事して頂戴!」
「うわ! す、すみません!」
「あ、馬鹿伊作……!」
飛び上がって驚いた伊作は反射的に万歳の姿勢になる。反転しておばちゃんに頭を下げた時、ぼちゃんと何かが水に落ちる音が聞こえた。同時に留三郎の声が上がる。それで己の手の内に収まっていた筒が消えたことに気付いた伊作は、血の気を引かせて陽に掛けられたままの鍋へと向き直る。そこには逆さまに突き刺さった筒が覗いており、留三郎が慌ててそれを引き抜こうとしていた。――栓はしている、大丈夫だ。
そう伊作が思ったのも束の間、筒を引き抜こうとした留三郎へ不運が襲った。どうしたことか、火にかけていた汁物が跳ねたのだ。当然、予想だにしなかった痛みに留三郎は思わず手を離した。それが鍋に当たったのが原因か、きちんと閉めていたはずの栓が抜けるきっかけとなる。更に床へ零れれば良いものを、何故か中身は全て鍋の中へ。あ、という声が漏れるよりも早く、筒に満ちていた薬は全て汁と同化してしまっていた。
「「あーっ!?」」
二人分の悲鳴が響き、慌ててその汁物をどうにかしようと二人が手を伸ばした。それが呼び水となったのか、伊作が傍に積んであった釜へ袖を引っかける。ガチャーン! と激しい音を立てて伊作を巻き込み倒れた釜に、思わず助けようとした留三郎が今度は引っかかり、別の場所に積んであった薪を崩した。
当然、それにおばちゃんは眉を吊り上げて怒り出す。これ以上被害を増やされては堪らない、とばかりに二人の傍で煮立ててていた汁物を給仕の場所へと移し、次々にやってくる忍たまたちが頼む定食へと載せて行った。
六年は組の二人はそれが人の手に渡る前に何とか阻止しようとしたのだが、そこを更に不運が遅い、二人は釜と薪と刃物にまみれる羽目となった。幸いなのはかすり傷くらいで済んだことだが、その不運がとんだ騒動を巻き起こす羽目となることになるとは原因を作った彼ら自身も思いもしなかったのである。
「げげっ! 何ですか、それ!?」
「ほんっとーにゴメン! 早くに来た人たちの汁物に混じってるんだ! あの時止められたら良かったんだけど、それでも僕の不運でできなくて……鉢屋、学級委員長委員会から全学年全ての組へと伝達を回してくれ! もし身体に少しでも異常を感じたら、すぐに医務室に来てもらえるようにって!」
結局その汁物がはけるまで不運に見舞われ続け、ようやく身体が自由になる頃には汁物は無害な追加へと変わっていた。薬物入りの汁物を食べた人間の数も分からず、伊作は自分の食事も放棄して咄嗟に五年長屋へと走り込んだ。こういったことは学級委員長委員会に頼むのが一番早い。駆け込んだ先の鉢屋は話を聞くにつれ顔を歪め、深い溜め息と共に首肯した。
「分かりました、とにかく学級委員長たちを招集します。私の又聞きでは説明が漏れる可能性もありますので、善法寺先輩がきちんと彼らに説明をしてください。――六年生には?」
六年には学級委員長が居ない。だが、伊作はそれに首を横に振った。
「今、留三郎が回ってる。――本当にすまないね。こんなことをしでかすなんて、保健委員長失格だ」
「……まあ、一応は生命に関わりのない薬なんでしょう? もしかしたら何にも起こらないかもしれませんし、どっちにしろ時間が経たないと分からないんですから」
「うん……」
がっくりと頭を垂れる伊作に、珍しく鉢屋 三郎が気を遣った。普段はどちらかと言うと誰かを慰める側に回っている伊作が落ち込む様は珍しい。それも下級生の前で、だ。よっぽど堪えているのだろう、と三郎は思いながら下級生を呼びに走る。
――しかし、彼の慰めも全てが無に帰すほどの事態が、既に忍たまたちを蝕んでいたのだった……。
忍たまたちが保健委員長の謝罪と通告に不安を感じながら夜を過ごしたその次の日、長屋の朝は悲鳴から始まった。
「ぎゃああああああっ!」
四年長屋から聞こえたそれは男の悲鳴にしては甲高く、空へと高く昇って行く。それに駆け付けた同級生たちは己たちを侵す恐ろしい薬効へと気付くことになったのである。
「な、ななななな、なななな何だそれは滝夜叉丸!」
「そんなもの私が聞きたいわ! あ、朝起きたら……む、胸が……!」
四年ろ組の田村 三木ヱ門と同じくは組の斉藤 タカ丸が見たのは夜着をあられもなく肌蹴させて絶句する〈少女〉の姿。顔立ちや肢体は常より柔らかくなっているが、その少女は間違いなく彼らの同級生、平 滝夜叉丸であった。
「何だってそんな……っ! ま、まさか……それが善法寺先輩のお作りになったという、薬の効果、なのか……!?」
「何だと!? って言うか、三木ヱ門、お前もよく見たら……」
「はあ? ……うあああああっ!?」
駆け付けた三木ヱ門も、よくよく見てみれば夜着を胸が押し上げている。滝夜叉丸と違って布の持ち上げ方が慎ましかったことと、彼自身がまだ目立つほど声変わりしていないことが発見を遅らせた原因だった。思わず自分の夜着を肌蹴させて下も確認する三木ヱ門はそこにあるはずのものがないことに気付いて血の気を引かせる。さすがの滝夜叉丸も今は何も言うことができないのか、真っ白になったままで沈黙していた。
それを一部始終見ていたタカ丸はハッと何かに気付いたように駆け出して行く。彼がどこへ行くのかも気付かないまま、最初に露見した犠牲者である四年生三人(その騒ぎで起き出した綾部 喜八郎にも変化が確認されたためである)は同じく女性のまろい身体へと変化した善法寺 伊作が駆け付けるまでそれぞれ崩れ落ちたままだった。
――こうして、忍術学園全体を巻き込んだ騒動が始まったのである。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒