鈍行
▼0016 マシンガントーク
口を挟む隙がない、というのはこういう状況をいうのだろうか、と四郎兵衛は頭のなかで考える。かれこれ四半刻は喋りつづけているだろう先輩に、彼は呆れとも感動ともつかぬ感情を覚えていた。
普段ならこの長口上を遮るはずのほかの体育委員はいない。それもそのはず、滝夜叉丸と四郎兵衛は先程から木陰で伸びている金吾のお守りとして残ったのだから。――では、残りの小平太と三之助はといえば、三之助は相変わらずの方向音痴を発揮して行方不明、小平太はそんな三之助を探して獣道を走り去っていった。
(でも、なぜ七松先輩は滝夜叉丸先輩を置いていったんだろう……)
普段ならば、金吾の世話は四郎兵衛に任せ、二人で三之助を探しに行くはずだ。しかし、今日は滝夜叉丸をこの場に残し、小平太ひとりが三之助捜索に出向いている。
(……一緒に連れていってくれたら良かったのに)
そろそろ滝夜叉丸の自慢話も聞き飽きて、四郎兵衛はげんなりと肩を落とした。そんな彼の様子には気づかぬまま、滝夜叉丸はなおも口を動かしつづける。しかし、そんな彼の雰囲気が一瞬だけ変化した。肌にピリッとした感覚が走り、四郎兵衛は周囲を見回そうとしたが、それは滝夜叉丸の手によって阻まれた。
「……というわけで、わたしは美しく、才長け、素晴らしいのだ! 分かったか、四郎兵衛?」
「いえ、あの……」
頭をがっちり固定されては、問いに答えることすらできない。けれど、傍に寄せられた滝夜叉丸の視線が何かを伝えていた。
「しかし、七松先輩はお戻りにならんな……仕方がない、先に下山するか! 四郎兵衛、準備しろ。金吾は私がおぶっていく」
「良いんですか、勝手に降りて」
四郎兵衛の問いに滝夜叉丸は呵々と笑ったあとにぐだぐだとまた話を始めた。しかし、その間にチラチラと投げられる視線に四郎兵衛はこくりと頷いた。まだぐだぐだと話しつづける滝夜叉丸の背に金吾を乗せ、襷で彼の身体を固定する手伝いをする。その間も絶えることのない話には辟易したが、とにもかくにも彼らは下山を開始したのであった。
金吾を背に負った滝夜叉丸のあとに続くが、背後が気になる。何度も視線を向けたいと思ったが、それは己の前を走る滝夜叉丸からのピリピリとした気配で止められる。仕方なく滝夜叉丸の背をじっと見つめてしばらく駆けると、突如横の薮からがさがさと音がした。すわ獣かと身構えたが、そこから顔を出したのは先程別れた体育委員長、七松小平太である。驚いて息を飲んだ四郎兵衛とは対照的に滝夜叉丸は呆れた表情で薮から出てくる小平太を見遣った。その腕にはうんざりとした顔の三之助が捕らえられており、それを見た滝夜叉丸が露骨に溜息をついた。
「なんだよ」
「相も変わらず、世話をかけおって。少しは自分の悪癖を自覚したらどうなんだ」
「悪癖だらけのあんたにだけは言われたくない」
三年と四年というだけでも仲が悪いというのに、さらにこの二人の言い合いは辛辣だ。しかし、 普段ならばもっと続くはずのやり取りは、当たり前のように小平太が滝夜叉丸と三之助に輪にした縄をかけたことで終わった。滝夜叉丸は何も問わずにその縄を引いて強度を確かめ、四郎兵衛を視線で呼び寄せる。彼は四郎兵衛を輪のなかで殿につけると、襷で自分に縛りつけた金吾の身体をさらに頭巾を外して厳重に己へと縛りつける。多少のことでは落ちないことを確認すると、滝夜叉丸は小平太に向かって頷いた。
「では」
それだけで全て理解したように小平太は同じく頷き、彼は明るく笑って滝夜叉丸たちに手を振った。それと同時に滝夜叉丸が走りだし、四郎兵衛は半ば引きずられる形で走りだすことになった。
しばらく駆けたあとに、背中に悪寒のようなものが走る。それに四郎兵衛は驚いて振り返ったが、先を行く滝夜叉丸が足を止めないために縄に引きずられる形となった。慌てて再び足を動かしながら、ちらりと視界の端に見えたものへ鳥肌を立てる。――小さく見えた小平太は、黒い忍服を着た数人の男たちと対峙していた。
「先輩……!」
「良いから、足を動かせ! ……私たちでは足手まといだ」
苦々しく吐き捨てた滝夜叉丸に、四郎兵衛は息を飲む。普段は何かと反抗する三之助ですら、今は何も言わなかった。それに四郎兵衛も唇を噛みしめると、強く地面を踏みしめる。滝夜叉丸の唇から漏れた矢羽音はまだ四郎兵衛には理解できなかったが、それが向けられたであろう人間は大きな声で「いけいけどんどーん!」と雄叫びを上げた。
「……先輩」
急いで学園に戻った体育委員会の面々は、その足で学園長の許へ訪れて曲者の存在を彼に告げた。そうして教師たちが小平太の残る裏々山へと向かったところで、四郎兵衛は未だ渋い顔をしたままの滝夜叉丸に声を掛けた。彼は先程とは打って変わって沈黙を保ち、ただ眉を上げるだけで四郎兵衛の言葉の先を促す。それに四郎兵衛は少し視線を彷徨わせたあと、小さな声で呟いた。
「いつから分かってたんですか……? その、曲者がいるって……」
「裏々山を登ったり降りたりしているとき、だな。七松先輩が先に気づかれて、それで私も気づいた。しかし、迂闊に動いて敵に悟られては、我々のほうが困る。――だから、通常通りの活動を敢えて続けていた」
では、活動のかなり最初のほうから気づいていたのだ、と四郎兵衛は驚く。それゆえに今日の活動が非常に早く切り上げられたのだ、と理解した。そして、普段なら滝夜叉丸も加わる三之助の捜索に彼が向かわなかったことにも合点する。
「……僕たちのこと、守ってくださっていたんですね」
「下級生を守るのは上級生の役目だからな。――まあ、この優秀な私にかかればお前たちを守りながら敵を迎え撃つのもできなくはないことだったが」
いつもどおりの自信ありげな言葉に四郎兵衛は脱力しつつも、ひどく安心した気分になった。ぐだぐだと続く自慢話にこんなに安堵する日が来るとは思わなかった。しかし、四郎兵衛はふとあることを思い出し、珍しく滝夜叉丸の言葉を遮って口を開いた。
「先輩、最後七松先輩に何て伝えたんですか? 矢羽音、飛ばしていらっしゃったでしょう?」
「ああ、あれか……別段大したことではない。気にする必要もないことだ」
けれど、滝夜叉丸はそれ以上は何も言わない。大したことがないなら内容を教えてくれても良いのでは、と思ったが、少しだけ気まずそうな顔をしていた滝夜叉丸があまりにも珍しかったので、彼はそれ以上追求することをやめた。――何より、滝夜叉丸が少しだけ頬を赤くしていることで内容も何となく理解できたことが大きい。これで案外心配性の滝夜叉丸にくすぐったいような気持ちを覚えながら、四郎兵衛は気づかれないように笑みを浮かべたのだった。
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▼0017 私の半分は優しさで出来ている
「……分かっていましたが、多分風邪ですね」
冷たい視線とともに呟いた一回りも年下の少女に、タカ丸はベッドのなかで気圧されるように首を竦めた。もはや、どうして家にいるとは問わない。――それもそのはず、店を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちたタカ丸を抱き留めたあと、閉店作業をほかのスタッフに任せ、熱と眩暈で立ち上がれなくなったタカ丸を支えてこの家まで連れてきてくれたのは彼女なのだから。その細い体躯のどこにそんな力があるのか、と思うほど安定した力でタカ丸を支えながらこの家までやってきた兵子は、タカ丸に手洗いうがいだけきっちりさせると、上着とベルトを剥いでベッドへと彼を突っ込んだ。
テーブルの上に放ったらかしの薬の箱に顔をしかめた彼女は、明らかに何かを言いたげな様子でタカ丸をねめつける。タカ丸はそれに何か言い訳しようと口を開いたが、声よりも先に咳が飛び出したせいで尚更兵子に睨みつけられた。
「保険証、どこですか?」
「財布のなか、だけど……病院、もうやってないでしょう?」
「夜間診療の病院があるはずです。調べますから、病院に行く準備をしてください」
普段は人前でいじることのない携帯を取り出しながら、兵子はタカ丸に吐き捨てる。珍しく彼の前で苛々した様子を見せる兵子に、タカ丸は瞬きをしたあとに口を開いた。
「大丈夫だよ、薬飲んで寝たら治るって……明日は仕事の途中でちゃんと病院に行くから」
「自分ひとりで立ち上がれないほど重症なのに、一晩寝ただけで治るわけないでしょう。第一、貴方の頼りにしている当の薬だって、もはや咳止め程度にすらなっていないようですが」
半分は優しさで出来ている、というお馴染みのフレーズの市販薬は、兵子の威圧感からか、急にその存在を萎れさせる。今朝までは実に頼りがいのありそうだった佇まいも、もはや風前の灯のような儚さだ。それにタカ丸が眉を下げると、溜息をついた兵子が少しばかり穏やかな調子で口を開いた。
「……風邪を甘く見てはいけません。こじらせれば死ぬことだって充分あるんです。ましてや、風邪に似た症状の別の病気だったらどうするんですか? そういうのをちゃんと調べてもらうために病院に行くんですよ」
兵子の言葉は端々に不安が覗いている。それに彼が考えを巡らせるより早く、彼女がタカ丸を強い視線で射抜いた。
「病院見つかりましたから、タクシー呼びますよ」
「あ、じゃあ兵子ちゃんはそろそろ」
帰って、という言葉は、彼女の怒りに満ちた視線で止められる。むしろその視線で症状が悪化しそうだ。思わず再び布団に顔を隠すと、兵子は小さく溜息をついた。
「そんな状態でひとりで出歩けるわけないでしょう」
「だけど、もう遅いし。早く帰らないと終電が」
「そんなことはどうでもいいんです。どっちにしろ今晩貴方の看病をする人間が必要でしょう。それにいざとなれば野宿だってできますから」
「なっ……! だから、そういうこと言わな――ゲホッゴホッ」
妙齢の女性にあるまじき発言を咎めようとしたタカ丸であるが、その言葉は込み上げてきた咳によって阻まれる。さらに飛び出す咳に背中を丸めると、温かい手がその背中をさすった。
「ほら、そんなに咳をして。水分を取って、大人しくしていてください」
「誰のせいでむせたと……」
しかし、その呟きに兵子が応えることはない。彼女は常と同じテキパキとした様子でタクシーの手配をすると、水を入れたコップをタカ丸へと運んできた。そのままタカ丸の寝ているベッドに腰を下ろした兵子であるが、その様子は常にもまして大人しい。顔色もよく見れば冴えなく、タカ丸は自分の風邪を感染したかと少しばかり不安になったが、ベッドに置かれた拳が真っ白になるほど握られているのを見て、彼は少しだけ目を眇めた。
(――これは、恐怖だ)
普段はどんなに怖いものを見ても怯える様子など欠片たりとも見せない少女が、なぜか今、こうして怯えている。それにタカ丸が疑問を覚えて拳から流れるように視線を彼女の顔へと移動させると、少女はひどく張り詰めた表情で真っ直ぐ何もない空間を見つめていた。噛みしめられた唇が白くなっている。ああ、それでは噛み切ってしまう、とタカ丸が思わず彼女の拳に手を触れると、弾かれたように兵子が彼を振り返った。
「どうしましたか? 水分を取りますか? それとも汗を掻いた?」
「違うよ……」
先程の感情をすぐに隠して己へと向き直る少女に、タカ丸はそれ以上何も言えなかった。――先程垣間見えた表情が嘘のように、今の彼女はいつもどおりなのだ。まるで先程の表情が自分こそが不安だったから見えたような気すらしてくる。けれど、タカ丸に触れられた手はひどく冷たく、それが兵子の緊張を伝えていた。
「――タクシー、そろそろ来る時間ですね。タカ丸さん、辛いでしょうが起きて支度してください。外で待ちましょう」
「うん……」
何かを言おうと思うものの、何を言って良いのかも分からずにタカ丸は兵子に促されるままベッドから立ち上がる。眩暈と熱でふらつく身体を持て余せば、タカ丸の上着を持ってきた兵子が彼にそれを着せながらその身体を支えてくれた。その力強さはいつもと全く変わらないのに、兵子の身体はどこか小さい。自分よりも一回りも下の少女を小さいと思うことなど当たり前のはずなのだが、その細い体躯から感じられる不安にタカ丸は思わず腕を伸ばしていた。
「――大丈夫、俺本当に大したことないんだよ。だからね、心配しないで」
「そんな風に熱でふらふらしている人の言うことなど信用できません。……ほら、行きましょう」
抱きしめた少女はタカ丸の言葉に大きく身体を震わせたが、それがどんな感情から来るものかタカ丸には分からなかった。けれど、先程より少しばかり柔らかくなった兵子の雰囲気にタカ丸は内心で胸を撫で下ろし、己を促す少女の手が少しだけ温かくなっていることに少しだけ微笑んだ。
「病院へはひとりで行けるから、兵子ちゃんはもうお家へ帰りなさい。――毎度毎度、こんな風に遅かったんじゃお母さんもお父さんも心配するでしょう」
「母はタカ丸さんのところにいると知っているから大丈夫です。父は単身赴任でいないですし」
「明日も学校でしょう」
「少し夜更かししたくらいでは大した影響もありません」
しかし、安堵したのも束の間、彼女はやはり頑固だった。もう十七の女の子が出歩くには宜しくない時間帯であるのに、彼女はタカ丸の言うことに一向に頷くことはない。それにタカ丸が思わず溜息をつくと、兵子は少しだけタカ丸の上着を強く握って、小さく小さく呟いた。
「――病院の診察をちゃんと受けて、ただの風邪だって分かったら帰りますから」
「さすがにここまでされて逃げないよ……俺どこまで信用ないの」
「そうじゃなくて……」
何かを言いかけた兵子であるが、マンションのエントランスまで出たところでタクシーが待機しているのに気づき、それ以上の言葉を発することはなかった。タカ丸を支えてタクシーへと近寄り、運転手と二、三話をしてから開いたドアにタカ丸を押し込む。その隣に自分も乗り込んだところで彼女は運転手に行き先を告げ、車を発進させた。動き出した車の振動が身体に響き、少しだけ辛い。それに気づいたのか、兵子がタカ丸の身体を己へと寄りかからせた。
「一番楽な姿勢取ってください。病院まで少しかかりますから」
「うー……ごめん」
さすがにもう見栄を張ることもできず、タカ丸はその細い身体に身を寄せる。膝枕をされるような形になったタカ丸の手を、兵子の手が握った。先程よりもずっと温かくなったそれを思わず握り返すと、優しく宥めるようにタカ丸の頭が撫でられる。自分は一回りも年上なのに、と思いながらも、タカ丸はまるで子どもにするようなその行為の優しさに引き込まれるように、まどろみのなかに身を委ねた。
――その頭の隅で考えるのは、今自分を支えている少女のこと。たった十七の、最近まで見ず知らずの少女がここまで自分に入れ込む理由と、そしてあまりにも歳にそぐわぬ態度や知識をタカ丸は不思議に思う。けれど、その考えはすぐにまどろみのなかに消え、タカ丸は傍らの心地よい温もりに己の身を預けたのだった。
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▼0018 催眠術
『平行線』より、その後の二人。
※妊娠描写など注意。
慣れ、というのは催眠術に似ている。繰り返す毎日がいつの間にか当たり前になり、はじめに覚えた違和感も流水に角が取れる石のように丸くなり、感じなくなっていく。そんなことを滝子が考えるのは今まさにその慣れを思い出したからで、彼女はいつの間にか馴染んだ生活に小さく溜息をついた。
「……下らない」
テレビに映るのは、海外に遠征中の夫の姿だ。噂によると力のあるバレーボール選手というだけでなく、男性としても人気なのだそうだ。
(知らぬが仏、とはこのことか)
結婚した自分が言うのも何だが、彼女の夫――七松小平太ほど厄介な男もいない。欲しいものは力ずくでも奪い取り、やりたいことは全て押し通す。男というよりも人としてどうかと思うことばかりである。それがただバレーボールが強いというだけで評価されるのだから、世の人々の目は節穴なのだろう。
自分がその男と結婚しているという事実を棚に上げ、滝子はもう一度小さく溜息をつく。無意識に手を当てた腹部は一目見て分かるほどに大きく、彼女が妊娠していることを教えていた。
「馬鹿馬鹿しい」
己の胸にわだかまる不可解な感情に苛立ち、滝子はテレビを消して吐き捨てた。見たくもない顔を毎日見なければならないだけでもストレスなのだ。その原因が幸いにもしばらく目の前から消えていたのだから、わざわざ自分からストレスに晒されに行く必要はない。
リモコンをテーブルの上に置いた滝子は、椅子から立ち上がった。家事も終わった以上、リビングにずっといる必要もない。妊娠して疲れやすくなってもいるのだから、もう休もう、と彼女は自分に言い聞かせ、寝室へと足を向けた。
暗い寝室に足を踏み入れ、滝子は小さく溜息をついた。そこにはキングサイズのベッドが据えられており、普段はそこに二人で寝ている。その端に腰を下ろし、滝子はもう何度目かになる溜息をついた。
「……疲れた」
いけない、と思いつつも、そのまま身体を横に倒す。瞼を落とせば、すぐに闇が迫ってくる。このまま眠っては身体を冷やすと思いながらも、もはや身体が動かない。
普段ならば、人一倍口うるさい小平太に併せて家事をこなしてもこんなに疲れることはないのに、どうにも調子が出ない。妊娠して体調を崩しやすくなったせいか、とも思ったが、ひとりの身体ではなくなった時点で体調管理には人一倍気をつけているし、目立った体調の変化はない。ただ、ひどく気が重いだけだ。そして、彼女はその理由を実は理解していた。
(――認めたくない)
普段ならば隣にある熱がない、というだけで精神的に変化を来している自分を、彼女はずっと見ない振りをしている。けれど、それももう限界だ。
「……馬鹿馬鹿しい」
そう思っても、感情が理性でどうにかなるわけではない。普段ならば嫌だと思っても傍にある熱が、そこにない。それは滝子にとって思っていた以上に堪えたらしく、逢えない時間が長ければ長いだけ、ひどく心がざわついた。
昔は顔を見るだけで虫酸が走るような相手だった。何度も蹂躙され、心も身体も屈服させられかけたこともある。けれど、その関係に馴染んでしまえば――嫌うほどに意識している自分に気づいてしまえば、あとは一直線に堕ちていくだけ。過去、あれだけ小平太といがみ合っていた自分が今その男の妻だなんて、きっと高校時代の自分が知ったら軽蔑するだろう。けれど、もう自分の気持ちに目をつぶるのも限界だった。
「……さみしい」
今だって決して優しいとは言えないけれども、それでも己に触れる手は温かいことを知っている。普段は手荒なくらいの手つきが、膨らんだ腹部に触るときはひどく優しいことも。
(――結局、惚れたほうが負けってことか)
小平太が戻るまであと数日ある。今日放送されている試合は昨日行われたものの録画で、小平太自身は今日はオフ。明日の飛行機で戻ってくると聞いている。明日の夕方にはきっと帰ってくるだろう。それを心待ちにしている自分がひどくおかしく思えて、滝子は笑う。けれど、その目尻からは滑るように涙が零れ、それは次第に小さな嗚咽へと変わった。
こんな風に弱くなっているのは、妊娠して情緒不安定になっているせいだ。だから、小平太がいなくて淋しいだなんて思うのも、そのせいに違いない。
認めようと思いながらもまだ抵抗してしまう自分の心に呆れすら感じながら、滝子はさらに深い闇へと沈んでいく。身体の感覚がなくなり、考えの全てが溶けていく。伝う涙の温かさに何かが混じった気がしたが、それが何かを理解することはできないまま、滝子はさらに深い眠りへと落ちていった。
「……全く、どこまでも強情な奴だ」
小平太は大きなベッドの端で丸まっている滝子の涙を指で拭うと、その身体を抱え上げて布団へと押し込んだ。涙の痕がまだ残る顔は、小平太にとって見慣れないもの。妻が見せた珍しい姿に、小平太は一抹の仄暗い喜びを感じて口の端を上げた。
「まあ、そうでなくては困るけど」
手に入れるには随分苦労した女だ。――頭が良く、見目麗しく、勘も良い。初めにちょっかいをかけたときはただ生意気だとばかり思っていたのが、今では他の男を視界に入れさせるのすら不快に思うほどの己の変わりように小平太は自嘲する。外巻きに形作られた前髪を優しく払えば、眉間に寄せられていたしわが少しだけ緩む。その表情に満足して、小平太はゆっくりと立ち上がった。
本来ならばまだ海外にいるはずの小平太が、この場に戻ってきたのには訳がある。と言っても、予定を繰り上げて日本に戻ってきただけではあるのだが。
最後の試合が終わり、反省会まで済ませたあとにせっかく海外に来たのだから、と選手全員に一日自由行動が許されるのはいつものことだ。ただ、小平太は妊娠中の妻が心配である、ということで監督に許しをもらい、先に帰国を許されたのだ。もっとも、その理由は口実なのであるが。
小平太は実力の高い選手として注目されている分、マスコミからの取材も殺到する。しかし、彼自身はいちいち外面を取り繕わなければならないそれが一等嫌いで、それを回避するため、というのがその理由である。しかし、滝子のこのような姿を見られたことは彼にとって思いがけない僥倖であった。
「ま、それだけじゃないけどね」
布団もかぶらずに寝るなんて普段の滝子からすれば有り得ないが、それすらできないほどに今は弱っている。彼女が身ごもっている子どもを大切に思っていることは本当なので、母子ともに危険にさらされるような状況を回避できたことも彼にとっては幸運だった。小平太はそっと眠っている滝子の頬に口づけを落とすと、自分も寝る支度を調えるべく寝室を後にした。
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▼0019 首輪
――いっそ首輪をつけたい。そう思ったのは冷たい床に押し倒されたあとだった。
古い床板は二人分の重みで少し軋む。それでも痛みが些少なのは、忍たまたちが刺などで怪我をしないよう、きちんと手入れをされているからだろう。用具委員と吉野先生、小松田さんに感謝しなければ、とどうでもよいことを考えていると、喉笛に食いつかれた。
一瞬、息が止まる。しかし、感じたのは固い歯が皮膚を食い破る痛みではなく、首筋を這う濡れた舌の熱さだった。
「余裕だな、滝夜叉丸」
「まさか。恐ろしくて声も出ませんよ」
「出ているじゃないか」
掛け合いを楽しむ小平太の顔は穏やかだが、その目は爛々と獲物を狙って光っている。今にも舌なめずりしそうな様子に、滝夜叉丸は小さく溜息をついた。
この男を飼い馴らすことができたらどれだけ楽だろうか。首輪をつけて鎖でつないで、己の命に忠実に従う獣。その考えは滝夜叉丸にとってひどく甘美に思えたが、同時にとてもつまらないものに思えた。
(――馴れないからこそ、美しいのだ)
誰にも、自分にも馴れない孤高の獣。手なづけられる程度の強さなど意味がない。常に喉笛へ食いつかれるような緊張感を覚えるような、そんな獰猛な獣でなければ。
「今度は何を考えている?」
「……貴方のことを」
滝夜叉丸は己に覆いかぶさる男の頬に手を伸ばした。それを小平太は拒まない。けれど、柔らかな手のひらに擦り寄りもしない。ただ熱を秘めた瞳を滝夜叉丸に向けるだけだ。それに滝夜叉丸はただ口の端を上げ、己を喰らい尽くそうとする男にその身体を明け渡した。
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▼0020 装備:蚊取り線香 コマンド:戦う
「暑い」
小さく呟いた喜八郎に、滝夜叉丸は眉をひそめた。――そんなことは言われずとも分かっている。しかし、夏である以上はどうにもならないのが現状だ。
だらしなく床に伸びて再び「暑い」と呟いた喜八郎に、滝夜叉丸はもはや反応もしなかった。ただ溜息をついて、時折前髪を揺らす生温い風に身を任せる。せめてもう少し風があれば、と思ったところで己の頭上すれすれに風切り音が走った。咄嗟に首を竦めると、頭巾を掠めて踏み鋤の先端が横一文字に過ぎていく。己の頭を潰しかけたその行為に抗議しようと振り返れば、ひどく苛立った顔の喜八郎がさらに鋤で中空をないだところだった。
「こンのアホ八郎! 私のこの美しい顔を潰す気か!」
「蚊がいる」
「はあ?」
「蚊だよ、蚊。さっきから耳元をブンブンと」
そう言いながら、喜八郎はもう一度鋤を振り回す。その先を視線で辿れば、確かに小さな虫がせわしなく飛び回っていた。
「ふん、そんなもの私の戦輪で……」
滝夜叉丸は懐から取り出した戦輪を構え、指先から弧を描いてそれを飛ばす。けれど、危険を察知したのか何なのか、その小さな羽虫は滝夜叉丸の放った戦輪の刃からするりと抜け出し、再び音を立てて部屋中を飛び交った。さらに何度か試してみても結果は同じ。
それに痺れを切らしたのか、喜八郎は鋤を振り回しながら部屋を出ていこうとする。滝夜叉丸がその背にどこへ行くのかと声をかけると、彼は苛々と吐き捨てるように言葉を落とした。
「保健室。蚊遣火もらいに行ってくる」
「なるほどな。それなら、私は隣近所に話をしてくる」
蚊遣火は煙で燻すことで蚊を追い払うものだが、傍にいる人間も同じく燻されるという短所がある。この忍たま長屋で焚けば、当然ながら自分たち以外にも影響が出るだろう。それに何より、この暑いなかで勝手に火など焚けば、たちまち周囲から苦情が来るに決まっている。
それでも堪えがたい蚊の存在に、彼らは周囲を巻き込んでの徹底抗戦を決意したのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒