鈍行
▼0011 地獄巡り
「よし! 今日は裏々々々々々々山まで登ったり下りたりしたあと、みんなでバレーボールしよう!」
委員会開始早々に告げられた言葉に、平滝夜叉丸以下体育委員会の面々は揃って顔を引きつらせた。それもそのはず、今委員長が告げた言葉にいくつ「裏」が入っていただろうか。しかも、登ったり下りたり、と簡単に言うが、実際に行く道は平坦どころか獣道も良いところなのである。委員のなかで誰よりも早く我に返った滝夜叉丸は、背後で始める前から魂を飛ばしている下級生二人に気づき、精一杯の険しい表情で目の前の青年へと口を開いた。
「な、七松先輩! いくらなんでも無茶苦茶すぎます!」
「何が?」
しかし、返ってきた言葉は彼の危惧など気づいてすらいないもので、滝夜叉丸は思わず絶句した。――しかも、これが本気なのだから性質が悪い。
「何が、って……」
「ほら、早く準備しろ! 出発するぞ!」
追い撃ちをかけるように告げられた言葉に、滝夜叉丸は今度こそ絶句する。どうしたら、と別の切り口を求めて周囲を見遣れば、ひとつ下の後輩が下級生二人の魂を鼻から戻していた。その瞳には既に諦念が浮かんでおり、滝夜叉丸はそれ以上もう何も言うことができなくなる。魂を戻された下級生たちも委員長の様子を見て抵抗は無駄だと悟ったらしく、暗い顔で走る準備をしはじめた。けれど、その背中があまりにも悲痛であったため、滝夜叉丸はせめてもの抵抗として口を開いた。
「七松先輩……登ったり下りたりは一回までにしましょう」
「何で?」
「……バレーボールもなさりたいのでしょう? 裏々々々々々々山まで何度も登ったり下りたりしたら、すぐ夕飯の時間になってしまいますよ」
これは事実だ。それ以前に、裏々々々々々々山まで往復する時間があるかどうかも怪しい。勿論、小平太と滝夜叉丸だけならば彼の望みを叶えることもできよう。しかし、ここには無自覚方向音痴の三之助にまだ体力のない四郎兵衛、金吾がいるのだ。彼らのことを考慮すれば、どうしたって時間は有り余るほどに必要になる。
「……さすがに仕方がないかあ」
さすがの小平太も下級生の体力については把握しているらしい。とにもかくにも何とか下級生たちを屍にしないで済みそうなことに滝夜叉丸は胸を撫で下ろしながら、それでも地獄の入口となるであろう忍術学園の校門を見て深い溜息をついたのであった。
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▼0012 ヤケ酒
「いってえ……七松先輩、容赦なさすぎだろ……」
「潮江先輩もだよ……あー青痣できてる。何か、兵助と鉢屋は平然としてるよね、立花先輩と中在家先輩だっけ? 羨ましい」
ボロボロになった身体を気力だけで風呂まで運んだ五人は、五年の集合場所としてお決まりとなった三郎と雷蔵の部屋まで引きずり、部屋の戸を後ろ手に閉めた瞬間、それぞれ床へと崩れ落ちた。しかし、床にぺったりと頬をつける八左ヱ門、勘右衛門、雷蔵に対し、兵助と三郎は座り込みはしたものの、まだ体勢を保っている。それに勘右衛門が唇を尖らせると、彼ら二人は揃って顔をしかめた。
「そんなわけないだろ。さんざっぱら遊ばれたんだから。……もう立花先輩の私的使用の火薬、絶対融通しない」
「すぐに無言の圧力に負けるくせに」
「うるさい。三郎だって中在家先輩に散々振り回されていたくせに」
茶々を入れる三郎を睨みつけた兵助は、不機嫌なまま三郎へと吐き捨てる。その発言に三郎は明らかにムッとした表情を浮かべ、二人の間に険悪な空気が流れた。
「あーあーやめやめ! それでなくても疲れてんだから、これ以上疲れさせんな!」
その間に割って入ったのは八左ヱ門だ。彼は手に掴んだ何かを二人の間に差し入れ、その注意を逸らす。しかし、その手にあるものを見た三郎が柳眉を跳ね上げ、目の前に突き出された八左ヱ門の手首を掴んだ。
「これは私の秘蔵の酒じゃないか……どっから出してきた」
「あ、僕が出した。もう飲まなきゃやってられないでしょ?」
「雷蔵!?」
三郎は雷蔵の言葉に泣きそうな声を上げた。普段から顔を借りている手前、三郎は雷蔵に強く出られない。雷蔵もそれをよく分かっているため、もう一本隠してあった三郎の酒を既に開けて勘右衛門と飲みはじめている。それを目の当たりにした三郎はがっくりと肩を落とし、口のなかで泣き言ともつかぬ愚痴をこぼした。
「あ、良い酒だな。さすがは三郎」
対する兵助は勘右衛門から回されたお猪口に八左ヱ門の手から奪った酒を注ぎ、ひとり先に楽しんでいる。それを見た三郎は力尽きたように八左ヱ門の手首を放し、深い深い溜息をついたあとに引き寄せたお猪口を八左ヱ門に突き出した。
「こうなったらトコトンまで飲んでやる! さあ、八左ヱ門注げ!」
「ほらよ。あ、雷蔵、肴は?」
「あー今はおまんじゅうしかない。勘右衛門たち何かある?」
「部屋に戻れば豆腐がある」
「豆腐以外で!」
「あとは炒り豆くらいかなあ……兵助、取ってくる?」
「そうしよう」
八左ヱ門の拒否を意に介した様子もなく、勘右衛門に促されるまま兵助は立ち上がる。無視される形となった八左ヱ門はムッとした顔をしたが、酒が喉を通ると機嫌を直し、彼らをにこにこと見送った。――しかし、彼らは知らない。このときが最も幸せで穏やかな時間であったことを。
しばらく後にその部屋の戸を開けたのが先程出て行った二人よりも六人ばかり多かったことから、彼らの平穏な時間は一瞬にして崩れ去ったのである。
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▼0013 泥酔拳
「世のなかには、酔えば酔うほど強くなる武道家がいるらしいですぞ、土井先生」
「何を馬鹿なことをおっしゃるんですか、山田先生。そんなの、あるわけないでしょう」
「いや、それがどうも本当らしい。松千代先生が唐土の本でそんな武道家の話を読んだとか」
半助は伝蔵のその発言に少しばかり眉をひそめた。常識的に考えるならばそんなことはありえない。けれど、それがただの噂話ではなく、二年生の教科担当である松千代万から出たというなら話は別だ。極度の恥ずかしがり屋という欠点はあるものの、図書委員会の顧問でもある彼は世間の情勢に詳しく、慎重であるためにもたらす情報も正確だ。――つまり、彼がそう言うのならば、本当にそういう武道家がいるのだろう。
しかし、その存在に半助はなおさら大きく顔をしかめた。伝蔵を見れば、彼もまた険しい顔で溜息をついている。二人は揃って顔を見合わせ、小さく首を振り合った。
「生徒たちには内緒ですな」
「全くです。
――酒、欲、色。子どもたちには今まで忍者の三禁として教えてきたのに、そんな特殊な武道に傾倒されては困りますからね」
「誰もが酒に強いわけでもありませんしな。第一、酒に寄って敵に勝てたところで忍働きに役立つことはない。忍の本分は飽くまで忍び、影として動くこと。敵と面と向かって戦うなど、忍の策としては下の下と言わざるを得ない」
伝蔵の発言に半助は深く頷いた。忍の道を教える彼らにとって、忍術とは科学。そして、人の為すものである。――下手に奇天烈な技術を耳に入れて、本分に身が入らなくなることは避けたかった。それは伝蔵としても同じ思いのようで、彼らはもう一度顔を見合わせると、揃って小さな溜息をついた。
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▼0014 煙草を逆さに咥え、そのまま火をつける。
煙草は随分前に止めたはずだったが、今ばかりは煙草でも吸わないとやっていられない。たまたま残っていた安物のライターで火を点けようとしたが、点火をしようとしてもカチカチと音を立てるばかり。――火が点かない。火花を散らすばかりで反応の悪いライターは、それからさらに数回試したあとにようやく彼の望みを叶えた。少し古い煙草をくわえ、その先に火を点ける。しかし、くわえた煙草の前後が逆だったことで濃厚な煙を吸う羽目となり、盛大にむせたタカ丸は苛々とそれを近くのコップに突っ込んだ。灰皿はとうに捨ててしまったためだ。らしくなく「くそっ!」と悪態をつくと、彼の動揺の原因がもぞりと隣で動いた。
「煙草は身体に悪いですよ、タカ丸さん」
「……何で一緒に寝てるの」
低く問いかければ、傍らの少女が肩を竦める。そして、タカ丸を打ちのめすように口を開いた。
「先に言っておきますが、放してくれなかったのはタカ丸さんですよ。帰ろうと思ってたのに」
「……俺、君に何したの」
嫌な予感を覚えながら、タカ丸はさらに低い声で問いかける。それに兵子は少し眉を下げて、彼の胸に手を置いた。それで自分が裸であることを無理矢理にでも意識させられ、タカ丸は先程からガンガンと響く頭の痛みがなおさら強くなった気がした。しかし、兵子はそんなタカ丸にただ溜息をつき、その手を彼から離す。手の動きを追えば服を着ていないせいで惜しげもなく晒されている滑らかな白い肌が視界に映り、タカ丸は吸い寄せられそうになる視線を無理矢理引きはがした。
そんなタカ丸に兵子はもう一度小さく溜息をつくと、寝乱れた髪を手櫛で整える。そして、少しだけ淋しそうに笑った。
「まあ、あれだけ酔えば記憶もなくなるでしょうね。
――貴方が危惧しているようなことは一切ありませんでしたよ。わたしは飽くまで酔っ払いの介抱をしたまでですから」
タカ丸はその言葉にようやく昨晩自分の美容院のスタッフと飲みに行ったことを思い出す。いろいろと丸め込まれるようにアルバイトに雇ったこの少女も、アルコール類を摂取しないという約束の下で連れていった。しかし、少し疲れていたタカ丸は盛大に酔ってしまったらしく、途中から記憶がない。年甲斐もなくやらかした失態に頭を抱えると、もう一度小さな溜息が傍らから聞こえた。
「だから、あれほどもうやめておけと言ったのに」
「子どもには分からないイロイロが大人にはあるの」
「それで正体なくして子どもに世話されてたんじゃ、意味ないでしょう。――因みに一応説明しておきますが、泥酔したタカ丸さんをタクシーでここまで送って、部屋まで連れて帰ってきたあと、ベッドに運ぼうとしたら途中で貴方が戻して、服がめちゃくちゃになったために上下どちらも脱がしたんです。よく見てください、パンツはいてるでしょう」
タカ丸はその言葉に自分の下半身を見下ろし、確かにその言葉のとおりに自分が下着をはいていることに気づく。それに大きく胸を撫で下ろしたあと、ハッと我に返って兵子を睨みつけた。
「ちょっと待って! じゃあ、何で兵子ちゃんまで脱いでるの?」
「それは勿論、貴方が戻したときにわたしが貴方を前方から支えていたからです。お陰さまで、服どころか下着まで汚れましたよ」
「…………マジで?」
「こんなことで嘘をついたって仕方がないでしょう」
タカ丸はその言葉に絶句した。――確かに彼女はタカ丸をからかったり、ひっかけたりすることも多いが、こういった類のことに関して嘘をつくことはない。それはつまり、そのまま彼女の説明が本当であるということで、タカ丸は己のあまりの情けなさに頭を抱えて俯いた。
頭を抱えて小さくなっているタカ丸を他所に、兵子は無言で立ち上がる。ペタペタと裸足の足音が遠ざかり、タカ丸はとうとう彼女にも呆れられたかとなおさら情けない気持ちになった。けれど、足音はしばらくしてからタカ丸の許へと近づき、傍らに戻った気配に顔を上げるより早く、彼女が熱くて柔らかい何かを己の顔に押しつけた。覗き込まれるような形で顔をこすられたことで、タカ丸はそれがホットタオルであることに気づく。驚いたタカ丸がそれに顔を上げると、少しだけ呆れた顔で兵子が口を開いた。
「立てるようなら、一度うがいをしたほうが良いと思いますよ。今はまだ気づいていないようですが、口のなかも随分気持ち悪いんじゃないですか?」
「……そうする」
指摘されたとおり、口のなかが随分と気持ち悪い。記憶にはないが、彼女の言うとおりに昨晩戻したあと、うがいもせずに寝てしまったからだろう。そう理解すると途端に吐き気のようなものがこみ上げてきて、タカ丸は促されるままにベッドから這い出した。立ち上がるだけで、頭痛がひどくなったような気がする。それを我慢して立ち上がるものの、ふらつく足に思わずたたらを踏んだ。しかし、転ぶ、と思うより早く脇から兵子が身体を支えてくれ、タカ丸は安定を取り戻す。視線よりかなり下にある頭を見下ろしながら、タカ丸はこの細い体躯のどこにこんな力があるのだろう、と己を危なげなく支える兵子を少しだけ疑問に思った。
洗面台まで支えるようという兵子の申し出を、男のプライドから断固として断ったタカ丸はなんとか自分ひとりで洗面台に辿り着いく。言われたとおりにうがいを繰り返して再びベッドに戻ろうとしたときに、二人分の服がハンガーにかけられて部屋干しされていることに気づいた。しわを綺麗にのばされたそれはまだ生乾きで、とてもじゃないが着られたものではない。タカ丸はふらつきながらも兵子の分だけ手に取ると、それを浴室のなかへと運んだ。天井近くに伸びるポールへとハンガーをかけ、換気扇を乾燥モードにする。それだけで疲れきったタカ丸が再び覚束ない足取りでベッドへと戻ろうとすると、未だあられもない格好のままでそこに座る兵子が目に入った。
こちらに背を向けているために表情は分からないが、朝日に照らされた彼女のその体躯が類を見ないほど均整を保っていること、その肌が白く美しいことは見て取れる。惜しむべくは右肩に残る傷跡だが、以前にタカ丸がそれを見たときも彼女はそれを一向に気にした様子がなかった。それが逆に好ましく思えたことを思い出し、タカ丸は小さく溜息をつく。――彼女の姿はまるで一幅の絵のようで、タカ丸は一瞬その光景に目を奪われた。けれど、タカ丸の気配に気づいたのか、兵子が振り返った瞬間にその印象は霧散する。彼女もまた上半身裸であるのに、堂々と彼へと歩み寄る姿にタカ丸はさらに頭痛がひどくなった気がした。
「タカ丸さん? 大丈夫ですか?」
「あ……うん、平気。っていうかね、兵子ちゃん。君せめて前を隠すとかしたらどうなの」
「見たければ好きなだけどうぞ?」
「いやだからそういう問題じゃなくてね……ああもう! とにかくこれ着て!」
タカ丸はよろよろと自分のクローゼットに歩み寄ると、そこからシャツを一枚取りだし、それを兵子に押しつける。それに彼女は少しだけ不満げに顔をしかめたものの、溜息をつきながら渡されたシャツを大人しく着こんだ。兵子には大きすぎるそれは逆に背徳感のようなものを増させたが、これ以上裸でいられるよりかは良い。それだけで疲れ果ててベッドに倒れ込んだタカ丸に、兵子は追い打ちをかけるように呟いた。
「これが男の人が萌える、と評判の、噂の彼シャツというやつですか」
「……違うからね。そうだけど違うからね……」
「別に遠慮しなくても。わたしはいつだってタカ丸さんを受け入れる準備はできてますよ」
「俺のほうにそんな準備ないから……っていうか、兵子ちゃん学校は?」
「今日は休むって親に連絡入れました。気分が悪いということで」
その言葉にタカ丸は深いため息をついた。彼女の母は兵子がタカ丸の家に押しかけることも、ずる休みすることも何にも思わないらしい。むしろ、兵子曰く「ようやく人間味が出てきた」と喜んでいるそうだ。それは親としてどうなのか、と常識的なことを考えながら、タカ丸は己の身体に布団をかけてくれる兵子に顔を向けた。
「……布団をかけてくれるのは大変ありがたいんだけど……どうして兵子ちゃんまで一緒に入ってるの……」
もはや疲れきって語尾を上げるだけの気力もない。しかし、対する兵子は生き生きとした様子でタカ丸に寄り添う身を落ち着けると、当たり前のように口を開いた。
「わたしの服、まだ乾いてませんから」
「いや、うん……そうなんだけど」
「まさかタカ丸さん……わたしにノーブラのうえ、サイズの合ってないこのシャツ一枚でひとり電車に乗れと?」
兵子のわざとらしく咎めるような言葉に、タカ丸はもはや返す言葉すらなかった。身体を押しつけてくる兵子を最後の気力で引きはがすと、彼女に背を向けるように寝返りを打ち、また傍に寄ってくる体温を意識するまいと目を閉じた。けれど、兵子がその背中に胸を押し当てるように身を寄せてくるため、タカ丸は再び彼女へと口を開く。
「……襲われたくないなら離れてくれる?」
「むしろ襲っていただきたいくらいですが。――でも、どちらにせよ今日は無理でしょう。その体調では、まず勃たないでしょうから」
「だから! そういう発言はやめなさいと何度言ったら……! もう、女の子でしょう! おじさん怒るよ!?」
あまりに露骨な発言にタカ丸が思わず寝返りを打って彼女に向き直ると、兵子はまた始まった、と言わんばかりに面倒くさそうな表情でタカ丸を見やる。それにさらに小言を振らせようと口を開けば、それを遮って兵子が口を開いた。
「はいはい、分かりました。気をつけます。――それよりもほら、タカ丸さんは二日酔いで頭痛いんでしょう? 怒鳴ったら頭に響きますよ」
「誰が怒鳴らせてるの……!」
「はいはい、私です。ごめんなさい。さ、もう寝ましょう。何なら子守歌くらい歌って差し上げますよ」
「いらない!」
タカ丸は子どもをあやすような調子のその言葉に苛立ち、再び寝返りを打って彼女に背を向けるとそのまま布団を頭まで引き上げた。隣で横になる兵子の布団を奪う形になるが、もはやそんなこと知ったことではない。第一、どうせまた無理矢理入ってくるのだ。そう思いながらタカ丸が固く目を閉じると、兵子が呆れたような溜息をつく気配が届き、布団の塊となったタカ丸をその上から優しく叩く振動が伝わる。しばらくは意固地に目を閉じて彼女を意識の外へ追いやっていたタカ丸も、そのうちその心地よさに布団を引き寄せる力を弱める。力の弛緩と同時に身体が真正面に戻りながらベッドに沈み込む。兵子が己の頬を撫でたことに感じた心地よさを意識するよりも早く、タカ丸は眠りの海へと落ちていった。
力の抜けた顔で眠るタカ丸を見下ろし、兵子は口の端を優しく上げる。二日酔いと体調不良ということを差し引いても、自分が傍にいてもこのように無防備な姿をさらしてくれるタカ丸に愛しさがまた募った。布団からはみ出している手を直してやると、兵子は彼に寄り添うように己もまたベッドへと潜り込んだ。――起きたらまた怒られるのだろう、とは思うが、普段からいろいろと我慢しているのだからこれぐらいは許されるだろう、と己に言い訳する。寄り添った身体から伝わるタカ丸の心音に、兵子は何だか泣きたいような気持ちになった。
ー―この体温も、鼓動も、もう消えることはない。触れた身体が温かいというだけで、兵子は幸せだった。だからこそ、隣の男に触れながら小さく呟く。
「――なあ、俺のこと全部見せるから、もう一回俺に惚れてよ」
良いところも、悪いところも全部。そうして己を全て見て、長所だけじゃなく短所も受け入れて愛して欲しい。そのためなら何だってしてみせるし、必要ならば過去の記憶と経験を全て費やしてタカ丸に臨もう。既に多少は卑怯な手も使っているが、それもまた自分だと、タカ丸に認めてもらいたいのだ。
そんなことを考えながら、兵子は未だ触れたままの頬から指を滑らせ、今はぼさぼさになった左右で長さの違う横髪へ触れる。指に絡む髪の毛を弄びながら、彼女は何もかもが満たされた穏やかな時間に目を細めた。
正直なところ、久々知兵子として生まれる前の経験と知識を生かせば、タカ丸を己の虜にすることなど容易い。けれど、それでは意味がないのだ。己を取り繕って手に入れた愛情など、兵子にとっては何の価値もない。彼女が本当に欲しいのはそんな薄っぺらい好意ではなく、タカ丸が与えうる愛情の全てなのだから。
生まれる前に生きた記憶に刻み込まれている目の前の男の記憶を辿りながら、兵子は小さく息をつく。――そう、偽りなど意味がない。過去の自分がありのまま彼に受け入れられ、愛されたように、今生もまた同じかそれ以上が欲しいと、彼女は飢えるほどにそれを望んでいた。
――けれど、今はまだ欲張るまい。兵子はそう結論し、タカ丸の頬に触れていた手を離した。その代わりにさらにもう少しだけタカ丸へと近づくと、彼女は途切れることなく伝わるその温もりを半ば抱きしめるようにしながらその瞼を下ろす。すぐにとろりとした暗闇が兵子を包み、傍らの体温が彼女を眠りへと誘っていく。その心地よさに溺れるように、兵子はその暗闇へと沈んでいった。
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▼0015 女王様とお呼び
「……タカ丸さん、こういった趣味もおありなんですか。意外ですね」
兵子はベッドの下から覗く本を引き出し、その表紙をとくとくと眺めた。『月刊女王様』とどぎつい色のタイトルが踊るそれは、特集の文字の後ろにボンテージ姿の女性が男性を足蹴にして写っている。中身を確かめるべくページを繰ろうとしたら、バタバタと駆け寄ってきたタカ丸に勢いよく引ったくられた。
「何見てるの!」
「ベッドの下からはみ出していたのを拾っただけです。――しかし、意外ですね。タカ丸さんに被虐趣味があるとは。言ってくださればいくらでも苛んで差し上げるのに」
「ちっがーうっ! これは知り合いから押しつけられたのっ!」
「ベッドの下に隠すほどには気に入ったのでは?」
顔を真っ赤にして雑誌を遠いところへ放り投げるタカ丸に対し、兵子は顔色ひとつ変えず平然と告げた。それにタカ丸がパクパクと金魚のように唇を動かし、なおさらに顔を赤くする。これでは全く男女が逆だな、と思いながら、兵子はタカ丸に一歩近づいた。それにタカ丸が一歩退き、さらに兵子が距離を詰める。壁際まで追い込んだタカ丸が怯えて喉を鳴らすのに、兵子はゆっくりと口の端を上げた。
「どうして逃げるんですか?」
「そっちが寄ってくるからでしょ!」
「タカ丸さんが逃げるからですよ」
兵子はそう言いながら、己の手を持ち上げて、タカ丸の頬に指で触れた。手のひらで優しく撫で、左右非対照に長い横髪に指を絡ませる。そのまま少しだけその髪を引き、兵子はその頬に唇を寄せた。両手で彼の頭を緩く引き寄せ、唇を滑らせる。普段は前髪で隠れ気味の耳へと唇を移動させると、その耳朶を甘噛みした。次の瞬間、強い力で身体を引きはがされた。
「なっ、にするのっ!」
「もっと痛いほうが良かったですか?」
「違うっ! っていうかね、そういう問題じゃなくてっ! 女の子がそういうことするんじゃありませんっ!」
さらに兵子を軽く突き飛ばして壁沿いに逃げたタカ丸は、顔どころか首筋まで真っ赤に染めて耳を押さえている。怒鳴りつける声すらも少しうわずっており、兵子はそれになおさら口の端を上げた。
「生憎と、わたしに嗜虐趣味はないもので。――感じて泣いているのならそそりもしますが、苦痛に浮かんだ涙ではね」
「だから、そういう問題じゃないってばっ! 大体、女の子なんだから恥じらいとか慎みとか、そういうのをまずだね……!」
「ああ、タカ丸さん。女性に〈女性らしさ〉なるものを求めるのはセクハラに当たるそうですよ」
「えっ、そうなの? ごめん……ってそうじゃない!」
タカ丸は問題をすり替えられそうになっていることに気づき、慌てて声を張り上げた。
「だーかーらーっ! 言ってるでしょ! 女の子がそんなことしちゃ駄目っ! 俺だから良いけど、他の男にそんなことしたら即襲われるよ!? 兵子ちゃん可愛いんだから」
「ありがとうございます。でも、タカ丸さん以外にはしませんから大丈夫ですよ」
「そういう意味でもないっ! もおお……! 襲われても知らないんだからね!」
その言葉に兵子は少しだけ目を見開いたあと、艶然と笑った。しかし、先程見せた妖艶さはそこにはなく、ただ目を見張るほど美しいそれにタカ丸は一瞬目を奪われる。けれど、続いて届いた言葉に彼は言葉を失った。
「襲ってくださるのならいくらでも。――むしろ、わたしが襲いたいくらいですよ」
「……そうじゃないってばあ。大体、何で君ウチにいるの……」
「貴方についてきたからです」
「だから、そうじゃないって……」
タカ丸は何を言っても斜め上の言葉を返す兵子に何を言って良いか分からず、彼女から身体ごと顔を背けて言葉に表せない胸のわだかまりに頭を掻きむしった。――初めて会ったときからずっと押しの強い彼女に、明らかに流されている。それに強い反発を感じながらも心の底では嫌だと思っていない自分には気づかないまま、タカ丸は背後から身を寄せる兵子の体温を溜息とともに受け入れたのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒