鈍行
▼0006 こ、殺してやる!!
「こ、殺してやる……!」
いつものようにアルバイトへ励んでいたきり丸は、耳に飛び込んできた物騒な言葉に顔を青くした。――もちろん、恐怖からなどではない。厄介なことになった、という焦燥からである。
それもそのはず、今日のアルバイトは有難迷惑な三人組――もとい、好意できり丸のアルバイトを手伝ってくれている六年生の潮江文次郎、中在家長次、七松小平太と一緒だからだ。忍たまの先輩としては尊敬もし、また頼りになる三人であるが、これがアルバイトとなると話は別だ。図書委員会で一緒の中在家長次はまだマシなほうだが、三人とも見事な忍者馬鹿であるため、どうにも世間一般と感覚がずれている。そのため、どうにも商売を手伝ってもらうのに支障が出るのだ。しかも、その最たる理由が彼らの喧嘩っ早さとなれば、現在のきり丸の危惧はすぐに理解できるだろう。――そして、その危惧は哀しいかな、的中してしまうのである。
「何だ何だあ!」
手伝っていた店から真っ先に飛び出してきたのは、暴れるのが大好きな七松小平太である。出てこなくて良い、ときり丸が思うより先に、続いて潮江文次郎、最後に中在家長次が表に現れた。その瞳は三者三様に輝いており、それまでの平穏――つまり、彼らにとっての退屈である――を塗り替える新しい出来事を歓迎しているように見えた。
「せ、先輩……」
「……危険だな」
顔を引きつらせたきり丸の側で、長次が小さく呟く。その視線を辿れば、若い女性が刃物を突き付けられて立ちすくんでいた。その光景にきり丸は目を見張る。
正直なところ、ただの喧嘩だと思っていたのだ。町中での喧嘩など珍しいことでもないし、気の荒い連中であれば物騒な発言のひとつや二つ、平気で飛び出してくる。しかし、目の当たりにした状況はそんな可愛らしいものではなく、きり丸は思わず傍らの長次を見上げた。
「小平太、文次郎」
「あいよ」
「分かった」
阿吽の呼吸、とでも言うのだろうか、彼らは名前を呼び合うだけで意志の疎通を果たし、あまりにも自然な動きで人ごみのなかへと溶け込んだ。その背中を見送った長次は、不安げに己を見上げるきり丸の頭を撫で、傍に落ちていた小石を拾う。その重さを確かめるように小石を握った拳を揺らすと、長次は目にも留まらぬ速さでその小石を投擲した。
それは寸分違わず男の手元へと命中し、男は手から刃物を取り落とす。それに男が動揺した一瞬の隙をついて小平太が男へと飛び掛かり、その男を地面へと組み伏せた。文次郎は恐怖で身動きができない女性を背にかばい、安全な場所へと移している。――それですべてだった。
「いやー、先輩方すごかったっすねえ! さすがは六年生!」
「はっはっはっ! そうだろう、そうだろう!」
アルバイトを終えた帰り道にきり丸が明るく言うと、上機嫌だった小平太がきり丸の背中をバシバシと叩いた。その馬鹿力にきり丸がひどく顔をしかめても、小平太は全く気にした様子がない。
一方の文次郎といえば、またも活躍の機会を得られなかったということで、こちらはひどく不機嫌だ。平常と変わらぬのは長次だけで、彼は背中の痛みに顔をしかめるきり丸の頭を撫でた。
「今日は、驚いたろう」
ぼそりと呟かれた言葉は、己を案じるもの。それにきり丸は少し驚いたあと、いつもの少し小憎たらしい笑みを浮かべて口を開いた。
「ぜーんぜんっ! だって、先輩方が一緒だったんスから!」
それを耳にした三人はそれぞれ顔を見合わせた後、手を伸ばして小さな後輩の頭をかき混ぜた。
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▼0007 人間は本当に怖い時、笑うしかないんだ
「はは……」
滝夜叉丸は己の喉から乾いた笑い声が漏れたのを聞いた。それはあまりにも実感がなく、彼の耳を素通りしていく。危機に際して放心するなど忍たまとして失格だ、と内なる声が頭に廻ったが、身体は言うことを聞いてはくれない。彼に今許されたことはみっともなく尻餅をついたまま後退りするだけで、しかしそれすらも背中に当たった壁が阻んだ。
「どうした、滝夜叉丸?」
「あ……はは」
それはこっちの台詞だ、という言葉は滝夜叉丸の喉の奥で潰れてしまい、舌にのることすらない。ただ引きつった笑い声だけが喉に押し出されている。そんな滝夜叉丸を不審に思ったのか、目の前で笑う男――七松小平太が彼の頭を掴んだ。容赦のない力で髪を引かれ、滝夜叉丸は苦痛に顔を歪ませる。しかしそれすらも意に介さず、小平太は滝夜叉丸に顔を寄せた。
「お前が大人しいなど、珍しいな」
「はは」
返事をしなければ、と思うものの、滝夜叉丸の喉からは笑い声しか出てこない。それは小平太が先程から発している殺気のせいなのだが、小平太はそれに気づいているのかいないのか、一向にそれを消すことがない。それどころか、獣じみた獰猛さを滲ませ、滝夜叉丸に迫ってくる。
「なあ、滝夜叉丸。私の相手をしてくれよ。猛って仕方がないんだ」
「は、はは……」
今すぐ逃げるべきだ、と本能が警鐘を鳴らす。しかし、滝夜叉丸の身体は指の先さえ動くことはなかった。
寄せられた小平太の瞳には獲物をいたぶる肉食獣のような光が宿っている。――それが何を意味するのか、四年生にもなった滝夜叉丸が分からないはずもない。
(――逃げなければ)
頭のなかで転がった言葉は虚しく潰え、瞬きをするより早く、小平太が滝夜叉丸の喉に喰らいつく。――滝夜叉丸の喉からは、もはや笑い声さえ出なかった。
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▼0008 唇を寄せて
あ、と思ったときには遅かった。止めるよりも早く、その唇が己の黒髪に寄せられる。たった一房に寄せられた唇の感覚は自覚できるはずもないのに、髪を伝って脳の奥深くまで染み込むような心地がした。それに顔が熱くなるのを感じる。表情が硬いのが己の常だとあちこちで言われたものだが、今この瞬間にこそそれが発揮されればいいのに、と兵助は思った。――こんなふうに表情を崩しては、いくら忍たま経験が少ないこの男であっても、兵助の心情を理解してしまうであろう。
「兵助くん」
どこか舌足らずな口調ははじめこそ苛々させられたものだが、今は聞き慣れたせいか、むしろ心地好くすら感じる。それに兵助が思わず顔をしかめると、未だに彼の目の前で髪を捉えたままのタカ丸が兵助の視線をその視線で搦め捕った。
「――あなたが好きです」
何かを言わなくては、そう思うものの、普段ならばいくらでも湧いて出る言葉が出てこない。まるで唖のように黙ってしまった兵助へ、タカ丸は少し身を寄せる。後ろに退がろうとした兵助だが、それは未だ捉えられたままの髪が許してはくれなかった。
「タカ丸、さん」
唯一喉からこぼれ落ちたのは、今己を追い詰めている男の名前。それに問い返すように、男が眉を上げた。けれど、兵助の唇から漏れるのは微かな吐息ばかり。――応えられるわけがない。どんなに想い合ったとしても、自分たちの未来は明るくない。忍という立場にしても、同性という事実にしても、いずれは道を分かつときが来る。それならば、つかの間の幸福など知らないほうがいい。
喉の代わりに瞳を使って、兵助は相手にその思いを伝える。しかし、タカ丸は兵助のその視線を瞼を落とすことで遮り、未だ動けぬ兵助の唇に己のそれを寄せた。
それは兵助の瞳よりもさらに雄弁にタカ丸の想いを伝えてくる。その甘さに兵助はもはや抗うことすらできず、ただ己の瞼を下ろした。
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▼0009 手刀
パタパタと軽い足音を立てて生徒が部屋までやってくる。それに顔を上げた土井半助は、視界に入った生徒が手に持っているものを見た瞬間に顔をしかめた。――もはや見慣れたとすら言っても良いそれは、ある人物から自分へと宛てられた矢文である。しかし、その内容があまりにも好ましくなかったため、半助は差し出されたそれをめちゃくちゃにして投げ捨ててやりたい衝動に駆られた。
「土井先生」
「諸泉尊奈門さんからです」
「お返事を門の前で待ってらっしゃいます」
三人組が口々に告げる内容に頭が痛くなる思いがした。
「追い返しなさい」
「土井先生〜俺たちがプロ忍に敵うと思ってるんですかあ?」
半助の言葉に生意気な口を利くのはきり丸だ。それに半助は露骨に嫌な顔をしたが、きり丸が言うことも道理である。
「……行くしかないのか」
半助が小さく呟くと、キリキリと胃の痛みが生じはじめる。やらなければならないことは山ほどあるのに、こういった雑事に時間を取られては作業が遅れている。ただでさえ学園長の突然の思いつきや一年は組の良い子たちが巻き込まれるトラブルに授業時間が大幅に削られているのだ。その遅れを取り戻すためには、いかに効率よく授業を進めるかが重要であるのに、その準備のために使えるはずの限りある時間を削られ、半助は深い溜息をついた。
「やっと来たか、土井半助! 私に恐れをなして逃げ出したのかと思ったぞ」
「諸泉くん、私は忙しいんだが……」
いつものとおりに指定された場所へ行くと、既にやる気十分の尊奈門が立っていた。それに半助は小さくぼやくが、溜息とともに吐き出されたそれは一切合財無視される。ひとり盛り上がりはじめる尊奈門に、半助はまた深い溜息をついた。
「文房具を武器にすることは認めないからな!」
「……はいはい」
もはやお決まりとなった台詞に惰性で答え、半助は軽く身構える。真っ直ぐに尊奈門を見れば、あれこれ策を練っているのはすぐに分かった。
(……着眼点は悪くないんだが、如何せん未熟なんだよなあ)
視線の動きやちょっとした仕草から、何を狙っているのか丸分かりである。半助は己に向かってくる尊奈門を軽くいなすと、その脳天に手刀を入れた。
「いっ……!」
「これで一本。もう良いだろう、私は忙しいんだ」
「なん、だと……! もっと真面目にやれ、土井半助!」
「真面目も真面目、大真面目なんだけどね。――大体、今のが真剣だったら間違いなく頭割られてるんだぞ。分かったら今日は帰った帰った! さっきから言っているけどね、私は忙しいんだ」
いつもならもう少し構ってやるところだが、今日は本当に忙しいのだ。半助は己を射殺さんばかりに睨みつける尊奈門を片手で追い払う仕草をすると、自分たちの〈決闘ごっこ〉を見物していた三人組を促して学園のなかへと戻っていく。
――最後に残された尊奈門はといえば、相変わらず自分と半助の間に隔たる大きな実力差に悔しさを噛みしめ、怒りの雄叫びを上げたのであった。
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▼0010 ミステイク
「合わない」
目の前に揃った帳簿を眺め、会計委員長潮江文次郎は低い声を吐き出した。息を詰めて彼の計算を見守っていた会計委員たちは、その言葉に揃って泣き出しそうな顔をする。それもそのはず、すでに計算は三回目、時刻も亥の刻を過ぎたところだからだ。もうずっと合わない帳簿と戦いつづけて早数刻、もはや心身ともに限界が訪れていた。
「……もう一回だ」
「潮江先輩、しかし」
唸るように呟いた文次郎に、三木ヱ門が小さく声を上げる。帳簿とそろばんに落としていた視線をちらりと上げれば、精根尽き果てた下級生たちが目に入った。
「左門、佐吉、団蔵! 起きんか! やり直しだ!」
文次郎は三木ヱ門の意見を無視し、よく通る声で下級生たちの名を呼ぶ。一年の二人はそれに弾かれたように姿勢を正したが、三年の左門はぼんやりと中空を見ながら小さく呟いた。
「ぼくはねていない……」
「寝てるよ」
溜息とともに三木ヱ門が同じく呟いた。さすがに四年の彼はまだしっかりした意識を保っているようだが、顔には明らかに疲れが見える。それに文次郎はお決まりの台詞を言おうとしたが、あることに気づいて声の調子を落とした。
「三木ヱ門、団蔵の机の下に落ちている紙を拾ってくれないか?」
「えっ……? ああ、これですか。って、団蔵! こらお前……!」
「ふぇ?」
「ふぇ? じゃない! お前これ……帳簿じゃないか!」
「ええーっ!?」
文次郎の予想どおり、落ちていた紙は帳簿の一部であったらしい。道理で計算が合わないはずだ、と文次郎は深い溜息をついた。
「何度計算しても帳簿が合わないと思ったら……そりゃ一枚分抜けてたら合わないはずだよ!」
文次郎の次に年長である三木ヱ門には、先程までの計算し直しの三回の間に随分負担がかかっている。それを思えば責める口ぶりになっても仕方がないであろう。
しかし、文次郎はさらに言い募ろうとする三木ヱ門を制し、残った一枚の帳簿を手招いた。
「それを足してさっきの帳簿と合わせて、帳尻が合えば今日は仕舞いだ」
「やったー!」
文次郎の言葉に一年生二人がそれぞれ歓声を上げる。しかし、計算が合わないために三度も計算させられた三木ヱ門としては怒りが収まらないらしく、少しばかり険しい表情で団蔵をねめつけた。
「う……すみませんでした……」
「三木ヱ門、そろばんを持て」
「え?」
「お前も計算だ。俺がこっちを計算するから、お前はこの帳簿の合計をもう一度出してくれ」
文次郎は三木ヱ門を呼ぶと、目の前に詰んであった帳簿数冊を手渡した。何度も計算しているとはいえ、この最後の詰めで計算が合わないという事態にだけは陥りたくない。その考えは三木ヱ門にも伝わったようで、彼は一変して表情を引き締めると、自分の席へ戻り帳簿とそろばんを揃えた。
パチパチ、とそろばんの珠を弾く音と紙を繰る音だけが部屋に響く。息を詰めて二人を見つめる下級生たちの唾を飲む音すら大きく聞こえそうだ。それに一年生二人がなおさら身を固くしたとき、文次郎の手が止まった。
「三木ヱ門、そっちは」
「終わりました。お願いします」
「…………よし、間違いないな。あとはこれを」
文次郎は再度帳簿を確認し、最後に残った一枚分の計算を合わせた。――パチパチ、とそろばんを弾く。数度弾いて動きを止めた文次郎は、固唾を飲んで見守る下級生たちを見やって大きく口を開いた。
「全て合った。――これで委員会を終了する」
「や、やったあああああっ!」
「ふおっ!?」
三木ヱ門と一年生たちが揃って歓声を上げる。その声に今まで目を開けたまま寝ていた左門も覚醒した。それを横目に見やりながら、文次郎は自分の前に積み上がった帳簿類を全て揃えて片付け、特製の十キロそろばんを懐へしまい込んだ。
「では、解散!」
文次郎の一声で、委員たちは各々長屋へと戻っていく。それを見送った文次郎は、小さく息をついてから立ち上がった。――計算が合わないのは、また誰かが計算間違いをしているのかと思ったが、まさか帳簿が一枚足りないせいだったとは。全く予想だにしなかった事態に文次郎は頭を掻く。同時に、二回目の計算と三回目の計算の値が同じだったことに小さく口の端を上げた。
(――少しはやるようになった、ってことか)
これまでは三度計算し直しても合わなかった計算が、二度でぴたりと合うようになった事実に文次郎は笑う。いつの間にか随分と成長していた彼らに少しの頼もしさを感じながら、彼もまた委員会室を離れたのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒