鈍行
▼空缶
「うわっ!?」
「ひええっ!!」
ガン、と自分の頭にぶつかり冷たい飛沫を撒き散らした物体に川西 左近は驚きの声を上げた。ガラゴロと音を立てて転がるのは空き缶で、左近に当たった跡であるへこみがついている。幸いにもそう高くない場所から落ちて来たらしく、頭には小さなこぶだけが残ったのが不幸中の幸いか。そんなことを考えながら、左近は同じく傍らでジュースらしき物体をかぶった鶴町 伏子に声を掛けた。
「鶴町、大丈夫か? 缶は当たってないな?」
「は、はひ……でも、思いっきり濡れましたあ……!」
どうもオレンジジュースの類だったらしく、彼女の制服が少々黄色く染まっている。それでも濡れた部分は然程でもなく、左近はほっと安堵の溜め息を吐いた。見下ろした自分もかなり酷いが、酷い怪我をしたわけでもないので大したことはないだろう。――それにしても、まだ中身の残っている空き缶を下に投げ捨てるなんて、と怒りを覚えた左近が落ちてきた方を見上げると、大きく開いた窓から罵声が飛び交うのが聞こえた。
『お前なあ!』
『てめえに言われる筋合いはねえんだよ!』
ひとつは怒りを抑えてはいるものの、明らかに怒鳴るような調子の声。それに応じるは少し低めの女性の声で、左近はその二人が六年の潮江 文次郎と食満 留とめだと見当をつけた。彼女たちの喧嘩はいつものことで、彼らはそれによく巻き込まれている。それゆえに原因が分かったところで、怒りと「またか」という感情しか浮かんでこない。しかも、二年生の左近と一年生の伏子にとって、彼らは怒りをねじ込むには余りにもやりにくい対象だった。
「またかよ……仕方ない。鶴町、お使いの前にシャワー室借りて着替えようぜ。これじゃどうにもならねえよ」
「ですね……。ああ、せっかく今日は普通の日だと思ったのになあ」
「これでまた〈不運委員〉だなんて言われるんだよな、くそっ!」
度々起こる不運には慣れっこであるが、それでも腹が立たないわけではない。左近は苦々しく吐き捨てた後、がっくりと肩を落とす伏子を促して再び校舎へと戻って行った。
「……留と文次の喧嘩で、か。分かった、あの二人は私がきっちり叱っておくから! それよりも、風邪引かないうちに二人ともシャワー浴びておいで。着替えはいつものところ、バスタオルはあっちから持ってって良いから。お使いはその後ね」
とりあえず荷物を置くついでに、二人は放課後の保健室にはほぼ常駐している善法寺 伊緒いおに事情を話す。それに彼女は明らかに怒った様子で気負った後、毎度の如く保健委員の面倒見の好さを発揮して彼らにシャワーの準備をさせた。幸いと言うべきか、このような事態に陥りやすい保健委員たちのために、保健室には常に着替えやバスタオルなどが常備されている。二人ももう慣れたもので、各々の着替えやバスタオルを腕に抱えて保健室を後にした。
「――じゃ、シャワー終わったら保健室な。頭ちゃんと乾かせよ」
「はい。じゃあ、先輩、後で」
「ああ」
左近は校舎の両端にある男女のシャワー室へと分岐する廊下で伏子にそう告げた。伏子もそれに頷き、彼に手を振って女子シャワー室へと歩いて行く。それを見送ってから、左近も同じく男子シャワー室へと向かう。この間にも不運が起きなければ良いが、などと何とも物悲しいことを考えながら、左近は小さな溜め息を吐いた。
シャワー室は部活棟にもある所為か、通常校舎にあるシャワー室は基本的に空いている。と言うよりも、ほとんど利用するのはこのような不運に見舞われる保健委員ばかりだ。他の生徒は大体において部活後の汗を流すためにシャワーを使ったりするので、こちらの棟まで戻ってくるようなことはほとんどない。それゆえに左近も他の誰かに気兼ねすることなく、シャワーをゆっくりと使えるのである。
「……全く、保健委員だから不運なら、保健委員辞めれば不運じゃなくなるのかな……?」
少し熱めのシャワーを浴びながら、左近は「卵が先か、鶏が先か」という問題と同様の根本問題を考える。自分が保健委員故に不運なのか、それとも自分が不運故に保健委員になったのか。しかし、ある程度まで考えて彼はその考えを打ち切った。自分がいつから不運なのかは忘れたが、少なくともこの不運が今更ジタバタしたところでどうにかなるとは思えなかったし、ここまで保健委員の性質が染み込んでいる以上、他の委員会にはもう移れないであろうことも分かっていたから。
それは多分伏子も同じであろう、と左近は考え、そこで彼はふと彼女が今自分と同じようにシャワーを浴びているだろうことに思い至った。それもそのはず、彼と同じ目的で反対側にある女子シャワー室へと彼女は今居るのだから。そこで左近は思わず彼女がシャワーを浴びている姿を想像してしまい、慌ててそのイメージを頭を振って掻き消した。
「な、何考えてるんだ、俺は!」
見た目よりも細い腕やふっくらとしている割に小さくて軽い身体の感覚を思い出して、左近は思わずむせる。彼が彼女に触れる時は大抵何かしらの不運に見舞われた時であって、他意はない。それでも自分が彼女の身体を知っていることに左近は顔を赤らめた。
「……早く出よう!」
ひとり裸で居るからそのように感じるのだ、と左近は結論して身体を洗うのを速めた。きっとひとりで居る所為で、そんな不埒なことを考えるのだ、と。――第一、伏子はまだ一年生なのだ。いくら左近が中二であろうとも、さすがについ最近までランドセルを背負っていた人間にそのような考えを浮かべるのは不埒に感じられる。左近は自分の身体を乱暴に流すと、その苛々をぶつけるようにコックを捻った。
「――俺は断じて変態じゃない!」
誰に聞かせるともなく宣言しながらシャワー室から出た左近だが、その後湯上りの伏子にやはりドキドキを隠せず、保健委員長からひどく面白そうな視線を向けられることになる。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒