鈍行
▼決まりごと
「そう言わずにさあ。お姉さん」
「――えっと、私は忍ヶ丘学園の事務員で、今は仕事中なんですけど……。貴方がたは学園に御用ではないのですか?」
「お姉さんに御用なんだってば」
山田 利吉は常のごとくに忍ヶ丘学園正門への道を辿っていた。大きな山が連なるその麓に佇む学園へと続く道はなだらかな上り坂が続き、特に大きくそびえ立つ学園の影が見える。しかし、常とは違い、その途中で人の話し声が聞こえたため、利吉はその歩みを止めた。
目を凝らして見ると、数人の男が円になっている。更によくよく見てみると、その真ん中に囲まれる形で小さな人影がひとつ。――見慣れたくないが見慣れてしまった小松田 秀子の人影を見つけ、利吉は深い深い溜め息を吐いた。
「……何をやってるんだ、あの娘は」
利吉が溜め息を吐くのも無理はない。何せ、こんな辺鄙な場所にある学園にはまず来客以外の来客はない。しかも、彼女自身普段は学園の外にほとんど出ないのだ。勿論、出ても学園の周辺付近を掃除に出るくらいである。それが今日はこんなに学園から離れた場所に出てきて、更に例外的に学園に用がない――もしくは用があったとしても全く目的は別の――輩に絡まれるとは、何という運だろう。不運に関しては百発百中とまで言われる善法寺 伊緒いおとはまた別の運の悪さである。
「ほらほら、行こうよ」
「駄目ですよ。私はお使いの帰りなんです。それに、お使いが終わったらまた入門と出門の管理をしなくちゃならないんで、忙しいんですから」
「そう言わずにさ、仕事なんて偶にはさぼっちゃえば良いじゃん」
利吉はそっと彼らに歩み寄る。円の中心に居る秀子に夢中の彼らは、利吉の存在になど全く気付いていないようだ。さてどうしたものかと溜め息を吐いた瞬間に、何かのセンサーでも反応したのか、自分を囲う男たちの人垣など何のその、彼女は利吉へと気付いて男の輪を掻き分けた。
「利吉さん! 今日もお仕事お疲れ様です! 出門表……あ、持ってなかった」
「分かった分かった、サインするから。――すいませんね、この娘ウチの子なんでちょっかい出さないでください。下手に手出しすると、彼女の怖ーいお兄さんから恐ろしい報復に遭いますよ。じゃ、私たちは仕事なんでこれで」
全く空気の読めていない秀子に利吉は内心もう嫌だと思いつつ、彼女の肩を抱いて男たちの群れを通り越した。正直なところ、彼らが呆気に取られているうちに逃げたかったと言うのが本音なのだが、さすがにそうは問屋が卸さない。
「ちょっとちょっと、ふざけんなよな」
「……ああもう! 君と居るとどうしてこう面倒に巻き込まれるんだろうね!」
「ええ? 何ですかあ?」
苛々と吐き捨てる利吉に対し、全く状況を把握していない秀子がのんびりと問い直した。それだけで彼の苛々は頂点に達し、自分の肩を強く掴んだ男の手首を捉える手に力が籠る。握力のすこぶる強い利吉が握り締めた柔(やわ)な手首は悲鳴をあげ、同時に男の口からも聞き苦しい悲鳴が迸った。
「悪いけどね、こっちは仕事なの。急いでるんだ。――これ以上関わるようなら、容赦しないよ」
空手有段者どころか名人級の人間による睨みである。当然、現代社会の柔らかい空気しか知らない彼らには恐ろしいものである。本能的に恐怖を感じるだけの才覚はあったのか、男たちはそれだけで逃げ去ってしまった。それに利吉はようやく溜飲を下げ、きょとんと逃げ出した男たちの背中を見ている秀子の身体を学園へと向け直した。
「ほら、もう戻るんだろ。君が居ないと私が学園に入れないじゃないか。勝手に入って良いんならそうするけど」
「あ、駄目です! 絶対入門表にサインしてください! 決まりなんですから」
「それならほら、歩いて。……全く、どうしてこんな辺鄙な所で、しかもあんな頭の悪そうなのにナンパされるかな」
「……? ナンパ、されてたんですか? 利吉さんが?」
「何で私が男にナンパされにゃならんのだ! 君だよ、君! まあ、もっとも? 君が余りにも鈍すぎて不首尾に終わったみたいだがね」
利吉は何となく悔しくなって、自分が追っ払ったのだとは言わなかった。頭の中にクエスチョンマークを飛ばしまくっている秀子の頭を軽く手で押すと、利吉は深い溜め息を吐く。
「君、お兄さんに甘やかされすぎたんだろうな……」
「? 私のお兄ちゃんはとっても優しいですよお? でも、利吉さんも優しいと思います」
「……誰が今そんな話をしてる。ああ、だから君と話すのは嫌なんだ!」
「でも、私は利吉さんとお話するの好きですよお。利吉さん、凄く物知りですよねえ」
全く話が噛み合わないことに利吉は頭を掻きむしりたい衝動に駆られたが、結局は堪えて何度目か分からない溜め息を吐く。――できれば関わり合いになりたくないのに、学園で仕事をする以上は絶対に関わらなければならない存在。けれども不思議と学園の仕事を断ろうという気は起きないことに、利吉はまだ気付いていなかった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒