鈍行
▼落書き
「ふざけんなよ、ボケナス!」
女子とは思えぬ荒々しい罵声に潮江 文次郎は顔をしかめた。この声は同輩の食満 留である。彼女の口が悪いのは入学当時から変わらないが、明らかに怒りに満ちたその声は少しばかり看過することのできない類のものだった。仕方なしに声のした方へと足を踏み出すと、見えたのは小さな背中。それが美化委員の面々のものだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「おい、あっちまで聞こえてるぞ。六年の評判が落ちるからやめろ」
「あ、文次郎! そう思う前にこれを見ろ! ……毒づきたくもなるさ」
示されたのは白い校舎の壁一面に描かれた悪戯書き。落書きもあれば理解できない文字もある。まるで一昔前の不良が書いたようなものから卑猥な単語までありとあらゆるものがそこには書き出されていた。
「……これは、ひどいな」
「だろ!? 全く、昨日偶然ナメクジ探ししてた喜三太が見つけたんだよ。報告を受けて見に来たらひでえの何のって。本当はこんなもの一年にゃ見せたくなかったんだが、さすがに私と富松だけじゃ手が回らんでなあ……ああもう、一体誰がこんなことを!」
「まあ、うちにも色々居ますからねえ……それなりにストレスも溜まってんでしょうよ。そのはけ口にこんなことされたんじゃ堪ったもんじゃねえですけど」
ローラーで白いペンキを塗りながら、留は苛々と吐き捨てる。それに同じく脚立の上で高い部分の落書きを消している、呆れた顔の富松 作兵衛が淡々と呟いた。しかし、その調子は普段の明るい彼のものとは全く違い、彼もまたひどく怒っていることだけはよく分かった。
「……一応、写真は撮って仙蔵に回しておいた。後はそっちでも対処頼む。落書きはいたちごっこだからな。根本から立ってもらわにゃペンキ代だけで軽く予算が吹っ飛ぶことになっちまう。第一、風紀の乱れにも通じるからな。しっかり頼むぞ」
「分かった」
文次郎に怒りをぶつけて少しすっきりしたのか、彼女は表情を明るくさせて富松を仰ぎ見る。少し疲れた様子の富松に、彼女はペンキを持ったまま声をかけた。
「富松、そろそろ代わるぞ。降りて来い!」
「代わるって……先輩スカートじゃないっすか」
「別に誰が見るわけでもなし。第一、見えても大したもんじゃないぞ」
「そういう問題じゃありません!」
顔を真っ赤にして彼女を怒鳴り付ける富松に、文次郎はさすがに哀れを催した。普段気にならない女子生徒の下着だって見えればそれなりに動揺するのに、ましてや慕っている先輩のものとなれば動揺も一入ひとしおだろう。普段は聡すぎるほど人の感情に敏感な留だったが、自分に関することは驚くほど無頓着だ。潮江は仕方なしに彼女を押しやり、富松を仰いだ。
「俺が代わる。どちらにせよ現状も把握したいしな。――富松、降りてくれ」
その言葉に富松の表情が変わった。明らかに仏頂面になるものの、さすがに先輩に――それも部活では直属の――逆らうことはできないのだろう。彼はあからさまに渋々といった調子で脚立を降りてきた。嫌そうな顔で潮江にペンキとローラーを預ける富松に、潮江は微笑ましさを感じながらそれを受け取った
「良いのか、文次郎? お前も生徒会とか色々あんじゃねえの?」
「あるはあるが、どちらにせよお前が仙蔵に話を回したなら、今日の議題はこれだろう。なら、先に現状把握しといた方が話は早かろう」
「そんなもんかね」
呆れたように肩を竦める留に、彼もまた溜め息を吐いた。きつい顔立ちをしている所為か、こういった仕草がよく似合う。
「それよりも食満」
「何だ?」
「学内の落書き、前にも何度か消してたな? その場所と範囲、頻度を文書にしてこっちに回してくれ。犯人確保の手がかりになるかも知れん」
「ああ、了解。小平太たちが見つけたのもあるから、あっちにも聞いとく。――全く、校舎は皆のものだっつーのに」
「どこにでも馬鹿は居るもんだ」
「全くだ」
潮江の言葉に留は深々と溜め息を吐いて同意した。そして、彼女もまたペンキ塗りへと戻っていく。潮江は上からそんな彼女を何ともなしに眺めながら、黙っていればそれなりに美人なのにと心の隅で呟いた。――口を開けば何とやら、しかもリアクションが物凄い。
「ねえ、先輩! ――って何ですかあ?」
「わあああっ、喜三太! そんなことを口にしてはいけない! 良いか、その言葉は今すぐ忘れろ! 頼む忘れてくれええ!」
落書きにあった卑猥な言葉を無邪気に口に上らせる後輩を、真っ赤になって揺さぶる姿はまるで彼らの母親に近い。美化委員会が陰で〈忍ヶ丘保育園〉と呼ばれる一因も少なからず彼女の性格や言動にあろう。
「……先輩、手が止まってます。やらないんなら代わりますんで、脚立から降りてください」
「ああ、悪い。――そういうお前はそろそろ食満を止めてやれ。お前に負けず劣らず、あいつも後輩のこととなると暴走しだすからな」
「……分かってますよ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ美化委員たちに富松が駆け寄っていく。その背中を見送りながら、潮江は今後の対策をどう取るか、ローラーを動かしながら素早く頭を回転させていた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒