鈍行
▼八つ当たり
「待って下さいよ〜、利吉さーん!」
「君ねえ、まだ仕事残ってるんでしょう? 何で私についてくるかなあ! 私もこれから空手部に行かなくちゃならないんで忙しいんだ! 君も忙しい、私も忙しい! お互いに利益を取ろうじゃないか!」
パタパタと自分の後を駆け足でついてくる少女に山田 利吉は苛々と告げた。普段なら彼も女性に対してこのようにきつい物言いなどしないのだが、彼女――小松田 秀子だけは別だった。何せ、初めて出会った頃から彼女との相性は最悪だ。常に足手まといの彼女のお守りを――それも自分と二つしか変わらないのである――しなければならないと思っただけで機嫌が急降下する。しかし、それほど利吉が露骨な態度を取っても、彼女は全く意に介さない。いや、気付いてすら居ないのだ。
「あれえ、利吉さん、何かご気分悪いんですかあ?」
「――……そう思うなら、是非放っておいてくれ」
「でも、具合が悪いのなら保健室に行った方が良いですよ?」
「私が悪いのは機嫌であって気分ではない。気遣いにだけ感謝しておくよ」
何ともピントのずれた応答をする少女に利吉は溜め息を吐いた。この娘がよくぞまあ例えお情けと言えど就職できたものだと思う。もっとも、このしわの少なそうな脳味噌ではどこの大学にも受からなかったのだろうと思うのだが。
「そうですかあ? でも、具合が悪かったら無理をしちゃいけませんよ。人って案外脆いですからね」
袖を引かれて仰がれる。その瞳には真摯な光が宿っていて、利吉の良心を刺激した。自分はただ降りかかる災難から逃れようとしただけなのに、どうしてこう罪悪感を抱かなければならないのだろう。仕方なく彼女をくっつけたまま、利吉は自分の仕事場のひとつである空手部の道場へと向かった。
「あ、留とめちゃん!」
「あれ? どうしたんですか、って……また利吉さんを困らせていたんですか、小松田さん。駄目ですよ、利吉さんは無理を言ってウチのコーチをわざわざ引き受けてもらっているですからね。それに、放送ちゃんと聞いてました? さっき吉野先生がお呼びでしたよ。一体何をやってないんです?」
空手部では既に練習が始まっていて、利吉は秀子をくっつけたまま道場へと足を踏み入れた。それと同時に中で練習していた生徒たちが一様に動きを止めて、続々と頭を下げる。その中のひとり、女子部長である食満 留に自分の傍らでにこにこしている秀子が反応した。
利吉はそこで初めて、留が美化委員長であったことを思い出す。確か、秀子は美化委員会に特別措置として補佐に入っているはずだ。しかも、見習いとして。どこまでも情けない年長者に溜め息を吐く利吉を余所に、まるで年齢が逆転した問答が女子二人の間で繰り広げられていた。身長も留の方が高い所為か、それとも秀子が童顔すぎるのか、本当に秀子よりも留の方が年上のようだ。その光景に何とも言えない気持ちにさせられて、利吉は思わず溜め息を吐いた。
そのうちに二人の会話が終了し、秀子は留に道場の外へと送り出される。その際にも彼女は振り返って自分に頑是なく手を振り、笑顔で駆けていった。そんな風に走れば転ぶぞ、と思うより早くずべっと足を滑らせる。慌てて飛び出した利吉と留の下で、彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑ってから再び駆け出した。――何とも学習能力のないことである。
「……君はいつもあの子の相手をしているのかい?」
「相手と言うか……まあ、そうですね。やはり美化委員会は何でも屋に近いので、人手はあった方が良いんですよ」
「アレでも?」
「……まあ、悪気がないのは確かですから。それに、小松田さんも少しずつ成長はしているんですよ。こちらに就職した当時はできなかったこともできるようになってますし」
その視点自体がまず逆転していることに留は果たして気付いているのだろうか。いや、気付いていないだろうと自己完結して利吉は溜め息を吐いた。普通ならばその視点自体がおかしいと誰か気付くはずなのだが、小松田 秀子という少女にはそれを許容させるような雰囲気がある。更に言えば、彼女はもう十八歳で大人の女性の部類に入るはずなのだが、未だに〈少女〉と呼んでも違和感がないことも挙げられるだろう。
「……あの子に就職活動させたのは何でなんだろうなあ……」
「あ、そうか……利吉さん、ご存じないんですね」
小さく呟いた言葉に留が少しだけ困ったように返した。それに利吉が留を見やると、彼女は少し苦い笑みを浮かべた。
「すみません、私からは。お知りになりたいなら本人からお聞きになってください。込み入った、深い事情があるんです」
「気になることを言うねえ」
「ええ、少しだけ。小松田さんが利吉さんを尊敬してるのは見てすぐに分かりますしね」
肩を並べて道場に戻った二人はそれぞれに練習を始める。上級生二人はお互いにやらせておけば大抵は十分すぎるほどに練習をする上に、利吉の父親でもある山田 伝蔵が二人を指導するだろう。それゆえに利吉は下級生たちを集めて練習を始めた。
「小松田さん、また利吉さんにくっついて来たんですか」
「そうだよ。何とかならないかい、あれ」
「あはは……」
「全く、親の顔が見てみたいよ」
小さく呟いた利吉の言葉に、一瞬空気が止まった。彼らが皆微妙な表情で視線を交わし合うのを見て、利吉は彼らをねめつける。それに困ったように、任暁 佐吉が口を開いた。
「利吉さん、ご存じないんですね。……その、小松田さんのご両親がもう亡くなっていること」
「おい、佐吉!」
佐吉を咎めるように富松 作兵衛が声を上げた。そこで初めて利吉は彼もまた美化委員だったことを思い出す。――要するに、学内では結構有名な話なのだろう。しかし、その中でも特に事情を知る美化委員が話を止めるとなると、本当に込み入った事情があるのだろう。利吉はそれ以上は聞こうとしないで、練習を再開させた。
「あ、利吉さーん!」
「また君か……」
「今お帰りですかあ? なら、来校者名簿にご記入をお願いしますね!」
「はいはい、君の大事なお仕事のひとつだもんな」
皮肉った調子で呟く利吉に、彼女は全くその棘にも気付かぬまま笑顔で頷いた。その無垢さが利吉の良心を更に刺激する。更に留と作兵衛の反応を思い出して、利吉は口の中に苦い味が広がった。
「――君は、どうして就職したの? どう考えてもまだ学生の方が良かったと思うけど」
「でも、働かないとお金かかりますから。いつまでもお兄ちゃんに迷惑かけられないし。――あ、えっと、うち両親が早くに亡くなって、それでお兄ちゃんが私を育ててくれたんです。だから」
「ふうん……でも、社会人になったのなら、せめて人にお兄さんのこと話す時ぐらいは〈お兄ちゃん〉じゃなくて〈兄〉を使いなさい。はい、名簿」
「あ、有り難うございます! お気をつけて。特に調子が悪い時には無理をしてはいけませんよ」
自分から名簿を受取ってにっこりと微笑む少女に、利吉はもやもやとした気持ちになるのを抑えられなかった。仕方なしに傍にあった自販機でジュースを二本買い、そのうちの一本を彼女に手渡す。驚いて目を丸くする秀子の頭を撫でながら、利吉は小さく溜め息を吐いた。
「お見送りのお駄賃だよ」
「わあ、有り難うございます、利吉さん!」
利吉は本当に本当に嬉しそうに笑う少女を見て、小さく溜め息を吐いた。――彼女の何が一番性質が悪いかと言えば、どんなに苛々させられても本当の意味で嫌いになれないところだ。要領が悪くてドジをしても、彼女がそれを一生懸命やろうとした結果だということを彼は知っている。それに、こんな風に純粋に慕って来られては嫌いになれるはずもない。
手を振って彼を見送る秀子を背に、利吉は自分のために買ったジュースの口を開ける。喉が渇いていた所為か、すぐに飲み干してしまったその空き缶を彼は苛立ちに任せて握り潰した。悲鳴を上げてひしゃげる空き缶をゴミ箱に手荒く投げ捨てると、利吉は先程よりも少し早いペースで歩き出した。彼の背中が見える限り手を振り続ける少女を早く校舎に戻すために。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒