鈍行
▼空想
「――ないっ! あああ、嘘だろ!? マジで!? 何でないの!?」
「どうしたんですかあ、富松先輩」
「ああああ! 山村、良いところに来た! ここにあったサンドバッグ知らねえ? 黒くてでかいやつ! 食満先輩に頼まれて取りに来たんだけど……ないんだよ! 姿かたちどころか影すらも! うおおお、俺もう駄目だ。しばかれるうううう!」
頭を抱えて床にうずくまる三年の富松 作兵衛を、委員会室に偶然訪れた山村 喜三太は唖然と眺めた。普段は全くまともな先輩であると言えるのに、一度何か予想外のことが起きたりすると彼はこうしてパニックを起こしてしまう。しかも、その起こし方がまた面白く、一体どこの電波を受信しているのだと言わんばかりに突飛な想像ばかりするのだ。空想を通り越して妄想まで行っている。しかも、被害妄想の類である。
「大丈夫ですよお、食満先輩が富松先輩にそんなことするはずないじゃないですかあ! それに、サンドバッグだってもう誰かが持って行っちゃったのかも知れませんよお?」
「有り得ねえ! だって、鍵掛かってたんだぜ? この委員会室の鍵持ってんのは食満先輩で、マスターキーの置き場知ってんのは俺とお前、福富に下坂部、それから食満先輩だけだ! その食満先輩が俺に頼んだんだから、後は居ないだろうが! やべえ、何でねえんだよ……! 部活までに持ってかねえと俺がやべえよ。サンドバッグなくした代わりに俺がサンドバッグになれって言われたらどうしたら良いんだあああ!」
のけぞるような状態になってしまった作兵衛に、喜三太は困ってしまった。こうなったら最後、止められるのは先輩である食満 留ぐらいしかいない。しかし、その彼女が居ない今、もう彼に打てる手はないのだ。いっそ置いて行ってしまいたいとも思ったが、この状態の時の作兵衛は藁にも縋る勢いで頼れる人間を逃さない。ということは当然、鈍臭い彼は作兵衛に捕まってしまうわけであって。――八方塞がりとはこういうことを言うのだろうか、と暢気なことを考えながら、喜三太は何気なく携帯を開いた。
「あ、メール来てる。団蔵からだ」
『from:加藤団蔵 Subject:富松先輩知らない?
部活が始まるのにまだ来ないんだよ。見かけたら教えて! サンドバッグは潮江先輩が持ってきてくれたって!』
何で自分のところにメールが来るんだろう、と思ったら、CCでしんべヱと平太にも送ってある。何とも雑なことだ、と思いながら、喜三太は天の助けを彼に手渡した。
「先輩、団蔵からメールが来てました。サンドバッグは潮江先輩が持ってったんですって」
「何で!? って言うか、見せてくれ!!」
半ばむしり取られるように携帯を奪われた喜三太であるが、富松の暴走がこれで止まれば安いものだ。何度も何度も繰り返し同じ文面を確かめる富松を眺めながら、喜三太は溜め息を吐く。部活の道具を委員会室に置かせてもらっているので取りに来ただけなのに、どうしてこんなことに巻き込まれているのだろう。早く解放されたい喜三太を尻目に、作兵衛は慌てて立ち上がる。
「って、こうしちゃいらんねえ! 急いで行かねえと今度こそ遅刻でしばかれる! 山村、サンキュな! 助かった!」
「はーい。いってらっしゃーい」
バタバタと荷物を抱えて走り出した富松を見送った後、喜三太はやれやれ、と肩を回した。何だか一気に肩が凝った気がする。もう一度溜め息を吐いた後、彼もまた荷物を持って歩き出す。戸締りをして、いつもの場所に鍵を戻して。本当は彼も急がなければならないのだが、もうそんな気持ちは起こらなかった。皆が待っていると思うのだが、今の彼には急ぐほどの気力がなかった。実際に彼の所為なのだから、なすり付けるという表現も間違っているかもしれない。けれど、そんなことはもう喜三太にはどうでも良かった。
「すみません、遅れましたあ!」
「作兵衛、お前携帯電話どうした? メールしたんだけど返事来なかったぞ? ああ、それと。悪かったな、結局サンドバッグは文次郎に鍵渡して頼んじまったんだ。なくて驚いたろ?」
「すっげえビックリしましたよ! ――って、携帯? あれ、俺今日持ってきてたんだけどな……あ、電池切れてる」
部室に飛び込んだ作兵衛に聞き慣れた声が届いた。既に空手着に着替えた留が少しだけ困った顔で歩み寄ってくる。それに富松は少しだけドキリとしながらも、彼女の言葉に思いっきり頷いた。しかし、彼女の問いに自分も持っているはずの携帯の存在を思い出し、彼は鞄からそれを探し出す。しかし、本来彼にたくさんの情報を伝えるはずのそれは開いてみても真っ暗な画面のままだった。電源ボタンを押しても反応しない。――見事に電池切れである。
「道理でな。普段ならすぐに返ってくるはずのメールも来ないし、そんなこったろうと思ったよ。誰かに会ったのか?」
「ああ、山村に委員会室で。団蔵、お前ナイスフォローだったぞ! 有り難うな」
「いーえー。富松先輩が頼まれてたサンドバッグを潮江先輩が持ってきてたから、もしかしたら困ってんじゃないかなーと思って」
「相変わらずだな、その暴走っぷりは。少しは落ちつけよ、富松」
ぐしゃりと頭に荒く乗せられる手のひらに作兵衛は渋い顔をした。元より性格が合わぬ上に、この男とは色々と因縁深い。どうしても潮江 文次郎には懐きたくなくて、彼はぷいと顔を逸らした。
「俺だってできればそうしたいっすよ! あ、着替えてきます!」
「おう、早く着替えてきな」
「うぃっす!」
文次郎の手から逃れてバタバタと更衣室へと向かう富松の背中を見送りながら、留は小さく溜め息を吐いた。傍にあった文次郎の肩に腕を置き、がっくりと項垂れる。
「私はあいつにまだ怖がられてんのか……美化用具の管理ミスを一年の時に叱っただけなんだけどなあ。しかも、あの一回きりだし」
「よっぽどその時のお前が怖かったんじゃねえか?」
「……そうなのかなあ? でも、あれはなくすとやべえもんだったから、一年でもしっかり叱っておかなきゃって思ってさあ。あー、もう! 結構委員会でも可愛がってるつもりだし、普段は本当によく懐いて来てくれんのになあ……もう嫌だ、ちきしょう」
それを富松に言えば良いものを、と思いながら、文次郎は彼女の背中を軽く叩く。元より後輩が可愛くて仕方がない性質の彼女は、特に自分直属の後輩たちに心を注いでいる。その甲斐あってか、彼女は後輩にもよく慕われていた。しかし、例外的に富松だけは時折不思議な妄想で彼女にきつく叱られると思い込む瞬間があるのだ。少し冷静になって考えればそんなことは有り得ないと分かるはずなのだが、彼にはその理性が利かない。
もっとも、文次郎にとっては常に自分を睨みつけてくるような可愛げのない後輩である。彼がどうしようとこちらに被害が及ばない限りは問題にもしたくないのだ。そんなことを考えながら、潮江は食満と対面する。――お互いに自分たちの練習をする際には相手がお互いしか居ないのだ。後輩たちはまだまだ女子であっても留の足元にも及ばない。
「おう、後輩を心配し過ぎてミスるんじゃねえぞ」
「当たり前だろ、そこまで馬鹿じゃねえよ、お前と違って」
「何ぃ!?」
「私が後輩大好きなのはもう認めるけど、お前だって同じくらい可愛がってやってるじゃねえか。――もっとも、その愛情はうっとうしすぎて誰も喜んでねえけど」
「うるせえ! てめえ、黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって!」
「既に黙ってねえし。――来るなら本気で来いよな、バカ文次!」
「すぐに地面に這いつくばらせてやる、馬鹿留!」
この二人の喧嘩も常の光景だ。空手部員たちはまた始まった、と二人を遠巻きに眺め出す。この二人は異性同士でありながら、お互いに遠慮がない。場合によっては乱闘もあるために彼らがヒートアップしだすと後輩たちは隅の方に避難するのが常だった。また練習が潰れる、と渋い顔をする三木ヱ門は、今回の原因である――ようやく着替えて出てきた――作兵衛を思わず睨み付けた。
▲BACK
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒