鈍行
▼反射
「滝、今日は裏々山までマラソンだからな! 遅れるなよー!」
「はいっ!」
平 滝は後ろからかけられた声に反射的に背筋を伸ばして返事をした。振り返るまでもなく、声の持ち主は分かっている。彼はいつの間にか滝の傍まで来ていて、いつものように彼女の髪を撫でて笑った。滝は他の人間には決して許さないその行為を、彼に――七松 小平太にだけは許している。それを傍らで眺めていた綾部 喜代が「おやまあ」と肩を竦めたが、滝は結局小平太を拒絶することはなかった。
「……相変わらず、七松先輩にだけは絶対服従なんだから」
「別に絶対服従というわけではない。――ただ、あの人に関しては、どうしても、な」
「ま、あれだけズタボロにやられたら、誰だってそうなるか」
「ずっ、ズタボロになんてやられてない! 確かに私は七松先輩には敵わなかったが、それは飽くまで二年の年の差があるからで、同い年だったらきっと勝てた! ……年の差が一生縮まらないから、勝てないだけだ」
「知ってる、滝? そういうのを〈負け惜しみ〉って言うんだよ」
「うるさい!」
滝は幼馴染を思わず怒鳴りつけたが、彼女の言葉が正しいことは分かっていた。――普段は絶対誰にも引けを取らない自分が唯一正真正銘兜を脱いだ人間。その人物こそが七松 小平太であり、彼女が所属する体育委員会の現委員長であった。
「……すごいな、さすがに」
私立忍ヶ丘学園に入学してまずはじめに行われたのは委員会・係決めである。その中で伝統的にクラスで最も足の速い人間がなるという体育委員に選出されて、滝はその委員会が行われる大教室へと向かっていた。クラスに男女一人ずつ、という他とは違う委員の多さに加え、更に中高をごちゃまぜにするという校風の下だ。とにかく人間が溢れ返っている。滝は自分のクラスが割り振られた場所に男子委員と一緒に腰を下ろしながら、さすがに小学校とは違うな、と少しばかり感動していた。
人が多いと思えばそれだけ気分は高揚する。一種のお祭りのようなものかと思いながら、滝は自分たちの前でたむろする上級生たちを見やった。多分、黒板の前に居る数人の人物が幹部なのだろう。自分より足の速い人間など現れるはずがないので、いずれ自分もあそこへ行くことになるのだろう。滝はぼんやりとそんなことを考えながら、彼らをぐるりと眺める。
大半が男で、ほとんどが上級生だ。中等部の人間が何人かと高等部の人間が何人か。その中でも一際騒がしい人間がひとり、まだざわめいている全体に向かって声を張り上げた。
「じゃあ、今からマラソンします!」
「何故!」
委員会活動というものは、少なくともマラソンではないはずだ。滝は思わず突っ込んだ。相手は滝の小さな突っ込みを聞きとめたらしく、彼女に向ってニッと笑う。その笑顔はまるで無垢な子どものようで、向けられた滝は不思議と怯んだ。
「――それは我々が体育委員会だからだ!」
「理由になってません!」
「体育委員は委員会の花形! 他のどの委員よりも活躍の場は多くなる! だからこそ、俺たちは常に人の前に立てるような人間にならなくてはならないのだ!」
「ですから、理由になってません! 己の研鑽けんさんとマラソンと何の関係があるんですか! それ以前に、マラソンよりももっと先にやることはないのですか!?」
「ないっ!」
しかし、滝の疑問に答えた男はまるで理屈を知らなかった。それゆえに彼女も思わず熱を入れて反論してしまう。いつの間にか立ち上がって相手と大声で掛け合いをしていた滝であったが、最終的に力いっぱいに吐き出された返答にがっくりと肩を落とした。――同時に、この委員を選んだことを後悔もする。次の委員会は何が何でも別の委員に行こうと決意したほどだ。
彼女の落胆と決意など露知らず、彼女と言い合いをした男――七松 小平太は笑顔のままでジャージに着替えるように全体へ指示した。従うのも癪だったが、上級生たちが皆一様に体育着を持って歩き出したのを見て、彼女も渋々人の波に埋もれる。流されるがままに体育着に着替えている自分に苛立ちつつも、滝は先ほどの男が待つであろう校庭へと足を踏み出した。
「……で、何故! 本当に裏々山までマラソンするんですか! しかも、既にほとんどの人間が脱落しているし!」
「おお、凄いな、一年女子! ここまで付いてくるか! さすが、真っ先に俺に噛み付いて来ただけあるな! わはは、よおし、じゃ、もう少しペース上げるぞー!」
滝は先頭を楽しそうに走る男に必死で食らいつきながら、険しい山道を駆け上がっていた。既にマラソンというよりは何かの山間軍事訓練に近い。獣道に近い山道を駆け上がりながら、滝は「いけいけどんどーん!」と奇声を上げながら走り続ける男へと怒鳴り付けた。
しかし、男は楽しげに彼女を振り返ってから、全く見当違いの言葉を吐き出すばかりだ。しかも、何が楽しいのか笑い声を高らかに響かせながら、更にスピードアップする。滝はそれにギョッとして己の足も速めながら、一体何故自分がこんな目に遭わなければならないのかと歯噛みした。
しかし、いくら身体能力に恵まれているとはいえ、滝はまだ中等部一年に過ぎないのだ。中等部三年であり、バレー部のエースでもある(もっとも、この情報は後になって滝にもたらされたのだが)小平太に敵うわけがない。高等部の人間が少しと小平太が裏々山の中腹まで足を進めた時点で、ついに滝も足をもつれさせて転んだ。
「いっ……!」
「ああ、さすがにもう無理かあ。じゃ、そこで待ってな。帰りに拾ってやるから」
見事に膝と肘をすりむき、更にスライディングに近い状態になったために泥まみれになった滝は唇を噛む。そこに小平太の明るい声が降ってきて、彼女は反射的に顔を上げて怒鳴り返した。
「まだ行けます! ちょっと転んだだけです!」
正直なところ、既に滝は限界を通り越して気力だけで走っていた。けれども、何だかよく分からないうちにこんな訳の分からないことを自分にさせたこの男に負けるわけにはいかない。滝はその気持ちだけで相手を睨み付け、再び立ち上がろうとした。
「あっ、おいっ!?」
のだが、気力も身体の疲労をそれ以上抑えることはできず、一度緊張の糸が切れた滝は貧血を起こしてその場に倒れ伏したのだった。
「……あの時の滝は本当にボロボロで可愛かった」
「相変わらず、お前は悪趣味で嫌な女だ」
自分の傍らでうっとりと呟く喜代に滝は苦々しく吐き捨てた。――結局、その後は驚いた小平太に保健室に担ぎ込まれたのだ。彼女が次に起きた時は保健室のベッドの上で、隣には喜代が少し心配そうな顔で付き添っていた。
驚いて身体を起こそうとしても、身体が重くだるくて動かない。その後、同学年である保健委員の善法寺 伊緒いおにこってり絞られた小平太が頭を掻きながら、あのいつもの笑顔で彼女の許へ現れたのだ。
小平太は何だかよく分からない誉め方で自分を誉めた。けれど、正直なところズタボロの滝には全く嬉しくなかったのが実情だ。しかし、憤りをぶつけようにも相手があんまり笑顔で楽しそうに自分がどれだけ頑張ったかを話すところを見ていたら、その憤りも何もかもが頭上遥か彼方を突き抜けて行って、何もかもがどうでも良くなってしまったのだ。
滝はそこで初めて〈負けた〉と思った。自分が何をどうしてもこの男には敵わないと。直感的に思ってしまえば、後は白旗を振り続けるしかない。そうして、「根性がある」とか「最高の体育委員だ」とか何とも嬉しくない理由で小平太に気に入られた滝は、彼の何とも理屈に合わない委員会活動に振り回され続ける羽目になる。
「それでも、辞めないんだもんね」
「仕方ないだろう。――あそこはもう、私が居なければ始まらないのだから」
滝は美しい黒髪を後ろへ払いながら呟く。けれど、隣の喜代はそれが彼女の建前であることを知っている。そんな滝の不器用さを微笑ましく思いながら、喜代は軽い調子で「そうだね」と応じ、自分がいかに体育委員会にとって必要な人材であるか語り始めた滝の話を右から左へと聞き流した。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒