鈍行
▼絵の具
「三郎、終わった?」
「ん、もうちょっと。――って、何か凄い良い匂いするね。何?」
「マドレーヌだよ」
美術室の入口から顔を出した不破 雷に、絵を描いていた鉢屋 三郎が振り返った。その顔は今入口から顔を出している少女と寸分違わず同じ顔であり、傍から見ればまるで双子なのだが……彼らの間に血縁関係はまるでない。それどころか、この忍ヶ丘学園に入学するまでは全くお互いを知らなかった赤の他人である。
そんな二人がどうして同じ顔をしているかといえば、偏に鉢屋 三郎によるところが大きい。実は彼は日本でも五指に入る有名な舞台女優の息子なのだ。蛙の子は蛙、というべきなのか、鉢屋は驚くべきほどに演技が上手い。それと同時に芸術面にも神の恩恵を受けたらしく、とにかく造形という技術に特化していた。
その技術を生かして、彼はメイクを己に施す。そのメイクも顔の形から変える特殊メイクから、印象をがらりと変える普通メイクまで様々らしい。らしい、と付くのは、雷が今まで彼が普通のメイクをしているところを見たことがないからだ――もっとも、彼以外の人間へ施しているのは何度か見かけたが。
美術部員ではない雷であるが、勝手知ったる何とやら、で絵を描いている鉢屋の許へと足を進める。室内にはもう二人ほど生徒がおり、鉢屋と同じく絵を描いている。そのうちのひとりが雷へ顔を上げ、にこりと笑った。
「こんにちは、不破先輩」
「こんにちは、庄左ヱ門君。もうすぐ伊久いくも来ると思うよ」
律儀に挨拶をする後輩に雷はにっこりと笑って、彼の幼馴染について触れる。それに彼はにこりと笑って頷き、雷の手にある袋を見てちょっとだけ笑みをひきつらせた。
「……先輩、いくらなんでもスーパーの袋にそのまま入れるってちょっとどうかと思いますよ」
「ええ? そうかなあ。別に汚いわけでもないし、どうせ食べちゃえば一緒だから別に良いんじゃない?」
「そうだぞー、庄左ヱ門。男が細かいこと気にしちゃ駄目だ。腹に入れば皆同じ、って黒古毛 般蔵先生も仰っていただろう? 大丈夫、大丈夫、別に死ぬわけでもなし」
「……まあ、それも一理はありますが」
庄左ヱ門の疑問は雷特有の大雑把さと、彼女を正義と言い張る鉢屋の下に却下される。同じくその成り行きを手を止めて眺めていた彦四郎が庄左ヱ門に憐れんだ視線を向けたが、後輩二人の表情は明らかに納得していなかった。
そんな微妙な空気も露知らず、ひとりの少女が先程の雷と同じく美術室の入口から顔を出した。
「庄ちゃん、どう?」
「ああ、伊久。もうすぐ終わるよ」
「遅かったね、伊久。もっと早く来るかと思ってた」
「ああ、教室に忘れ物を取りに行ってて。あ、庄ちゃん、これ部活で作ったマドレーヌ。彦四郎も良かったらどうぞ」
同じ家庭科部に所属する雷と伊久はにっこりと笑い合う。しかし、伊久は雷よりもシャキシャキと動くタイプだったので、キビキビとした動きで鞄からきちんとした袋に入れたマドレーヌを取り出すと、机の上に載せて同級生二人に笑いかけた。
「へえ、さすがに上手く出来てるね。片付けて手を洗ったらもらうよ」
「ぼくも良いの?」
「良いよ、たくさんあるし。本当は理科部の方に持って行こうかと思ったんだけど、今日は三郎次先輩は水泳部だし、タカ丸さんもお家のお手伝いがあるって帰っちゃったから、久々知先輩が今日はやめにしようって言ってたんだ。と言うか、作りすぎて困ってるくらいだから、食べてくれると本当に助かる」
庄左ヱ門と伊久が幼馴染であると同時に中々好い仲であるということは周知の事実であり、彦四郎は少しだけ困った顔をして尋ねる。そんな彼の心情を知ってか知らずか、伊久はにこにこと愛想良く彼へとマドレーヌを押し出した。伊久の言葉に彦四郎も安堵し、庄左ヱ門と同じく絵具や筆を片付けて手を洗いに行った。
そんな三人の様子を眺めながら、五年生二人はにっこりと微笑み合う。
「仲が良いって良いことだよね」
「そうだな。――俺たちも仲良しだもんなー」
「そうだねえ。あ、三郎も食べる? ちょっと粉っぽいけど。何かちょっと混ぜ方足りなかったみたい」
鉢屋の下心ありありな言葉を天然でさらりとかわして、雷はレジ袋からマドレーヌを取り出して食べる。彼女の大雑把さは料理でも遺憾なく発揮されているようで、道具を片付け終わって手を洗ってきた鉢屋はかじったマドレーヌに少しだけ寂しくなった。こういう時ばかりは、少しだけ料理上手である伊久の手作りが食べられる庄左ヱ門が羨ましくなる。しかし、美味しいだけのお菓子が食べたいのならばお金を出して買えば良いだけの話であり、結局自分は粉っぽかろうが何だろうが〈雷の手作り〉だからこそ食べたいのだ、と結論付けて、少し粉っぽいマドレーヌへ更に手を伸ばした。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒