鈍行
▼三戀物語〜木下三姉妹の戀物語〜 サンプル
しかし、彼女の思惑は大きく外れ、その数日後の帰宅途中に兵子は声をかけられた。驚いて声のしたほうへ振り向けば、そこにはタカ丸が立っている。思わず足を止めた兵子に、彼は笑顔で歩み寄ってきた。
「ああ、やっぱり! 良かった、会えて」
「先日はどうも。――あの、何かご用で?」
「お礼を言わないと、って思っていたんです。傘と肩掛けだけじゃなくて、ハンカチと組紐まで頂いて……」
「ああ、あれは以前のお祭りのときにお借りしたものと、下駄を直していただいたときに駄目にしてしまった紐の代わりです。お気に召すかは分かりませんが、どうぞお使いください」
「そんなこと、気にしなくて良かったのに……本当にありがとうございます」
借りは作るべきではない、と以前に受けた恩の分も返したのが仇になったらしい。しまった、と内心顔をしかめるが、いまさら後の祭だ。どうやってこの場を切り抜けるか、と考える兵子を露知らず、タカ丸は傍に見える甘味処を示した。
「もし良ければ、あんみつでもどうですか? ハンカチや組紐のお礼に、ぼくがご馳走しますよ」
「いえ、そんな……元々はわたしがお借りしたものですし、そんなことをしていただく道理が」
「まあ、そう言わず。さあさあ」
「あ、ちょっと……!」
タカ丸は兵子の背中を軽く押しながら甘味処へと歩き出した。それに抵抗しようとした兵子であるが、見上げた顔に浮かぶどこか気の抜けた笑みに強く拒むことがためらわれる。それがなぜか、と考えるより早く、彼女は甘味処ののれんを潜ることとなった。
顔見知りらしい店員と愛想良く話すタカ丸に気づかれないように、兵子は小さく溜息をついた。今なら逃げ出すことも可能だが、そんなことをすれば余計に事がこじれる気がする。ここは不本意でもこの男に付き合って、円満に後腐れなく別れるのが一番良さそうだ。そう判断した兵子は、促されるままにタカ丸の対面の席へと腰を下ろした。
「お好きなものを頼んでくださいね」
「……どうも」
気の抜ける笑みを浮かべて促すタカ丸に小さく応じながら、兵子は差し出された品書きを見る。甘いものにさして興味がない兵子は品書きから比較的安いところてんを選んだ。
幸いにも奥の席に案内されたが、こんなところを生徒に見られたらどうなるか、とさらに気分が重くなる。それが表情に出てしまったのか、店員に注文を終えたタカ丸は眉を大きく下げて兵子に尋ねてきた。
「あの……すみません、迷惑でしたか?」
「え? あ、いえ……ただ、こんな風に殿方と二人きりでいるところを生徒に見られたら、随分からかわれるだろうな、と」
そこまで言って、兵子はしまった、と口をつぐんだ。自分はどうしてしまったのだろう、ほとんど見知らぬ人間にこんなことを話すだなんて。しかし、一度口に出した言葉をなかったことにはできず、兵子は次に来るであろう反応をさらに重くなった気持ちで待った。――が、しかし。
「え、学校の先生をしていらっしゃるんですか!? すごい、格好良い! ははあ、道理でお若いのにしっかりしているわけだ」
「い、いえ……別に。それに、若いというほどでもありませんし」
予想していた反応とは全く違うタカ丸のそれに、兵子は僅かに面食らう。そのせいか、さらに余計なことを口走ってしまい、兵子は自分を罵りたくなった。
「え? おいくつですか? って、あ、ごめんなさい、女性に歳を聞くのは失礼でしたね」
「……いえ、今年で二十三です」
案の定、タカ丸に食いつかれ、兵子は少しだけ苦い気分になる。とはいえ、いまさら歳を告げることなどどうということはない。世間では嫁き遅れだのなんだのと言われるが、元々嫁に行く気がない兵子にとってはさしたる問題でもないのだ。今度こそ微妙な顔をされるだろうな、と思った兵子であったが、対するタカ丸はなぜか嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ぼくと一歳違いですね。ぼくは二十四なので」
「そう、ですか。では、姉と同い年ですね」
「え、お姉さんと? お姉さんいらっしゃるんですか、いいなあ。ぼくはひとりっ子なので、羨ましいです。他にもご兄弟が?」
「妹がひとりおります」
「三人姉妹ですかー、華やかそうですねえ」
ひどく楽しそうに話をするタカ丸につられたのか、兵子は普段なら口にしないようなことを次々に零してしまう。――調子が狂う、とはまさにこのことだ。気の抜ける笑みに間延びした口調、そのどれもが兵子の周囲には存在しなかったもの。そのせいか、どうにも普段のように突き放すことも難しい。いつの間にか完璧にタカ丸へ主導権を取られる形で会話が進み、兵子は何とも言えない複雑な気持ちを味わうこととなった。
「突然付き合わせてしまってごめんね。でも、本当に楽しかった。今日はいろいろとどうもありがとう」
「いえ……こちらこそご馳走になりまして、ありがとうございました」
食べ終わるころには敬語も抜けたタカ丸が、甘味処の前で明るい笑みを浮かべる。それに兵子は下手くそな愛想笑いを浮かべて相手に会釈し、その場を辞した。相手から見えなくなるところまで歩いたところで、深い溜息をつく。
(……つかれた)
初めて授業を担当したときもここまではなかった、と思いながら、兵子は緊張が抜けてだるさだけが残った身体を引きずって帰路についた。――何はともあれ、これで相手への義理立ても済んだのだ。以降はもし声をかけられても、適当にあしらってしまえば良い。
……そう、思っていたのに。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒