鈍行
▼盲(めしい) サンプル
「――喜八郎、私は少し出てくる。先に寝ていて構わないぞ」
「ふうん、分かった。厠?」
「……そうだ」
滝夜叉丸はその失礼な問いを一瞬否定しかけた。けれど、逆に突っ込まれても困ると気づき、矜持をねじ曲げて首肯する。それに喜八郎は気のない返事をし、滝夜叉丸を見送った。
廊下に出れば、既に辺りは真っ暗になっている。羽織った上着の前を掻き合わせてから、滝夜叉丸は廊下を歩き出した。目指す先は決まっていないが、多分そう遅くないうちに目的と出くわすはずだ。そう考えていた矢先、闇のなかで白い二つ光――人間の目玉を見た。
「……いたな」
「はい」
滝夜叉丸の呼びかけに低い声が返る。彼女は懐から下駄を取り出して庭に出ると、その人物の許へと歩みを進めた。闇に慣れた視界がその輪郭を捉える。それがはっきりと分かるころ、滝夜叉丸はその人物――小平太の目の前に立っていた。
「――場所を、変えたい。ここは人目もあろう」
「はっ。ご案内いたします」
こちらへ、と滝夜叉丸の手を引き、小平太はさらに闇の深い場所へと進む。それに滝夜叉丸は怯える様子すら見せず、従順にその案内に従った。しばらく進んだ場所に少し荒れた様子の小屋が見え、その陰へと滝夜叉丸は連れていかれる。そこでようやく自分の手を引いていた手が離れ、同時に目の前へ跪く気配がした。
「ご無事で何よりでございました、滝夜叉姫さま」
「その言葉、そっくりそのまま返そう。小平太」
低く呟かれた言葉に、滝夜叉丸は同じく小声で返した。少し声が震えたのは、じわじわと胸に迫る喜びのためだ。――今このときまで、滝夜叉丸は少しだけ疑っていた。この人物はただ小平太に瓜二つであるだけの別人で、自分を見つめていたのは何か別の理由があったからではないか、と。けれど、こうして己の真の名を呼ばれれば、その疑念は霧散する。同時に淡い感情は寄せる波のように強いものとなり、滝夜叉丸は震える息を吐いた。
「――生きていると、思わなかった。もう、みな死んだものと……」
「ほとんどが、あのときに。私だけが命拾いしました。九死に一生を得た私は、姫さまが無事であることを祈りながら己の無力を呪い、いつか必ず姫さまのお傍に戻るべく、今まで生き恥をさらしてまいりました」
小平太の言葉もまた震えている。彼もまた感情を必死に抑えつけているのが理解できた。
「なぜ、お前がここにいる?」
「それは、私の……っ!」
「わたくしが尋ねているのだ。先に答えよ」
滝夜叉丸の問いに小平太が問いで返そうとする。けれど、滝夜叉に戻った彼女はそれを許さず、鋭い声でそれを制した。それに小平太の声が止まり、再び滝夜叉に向かって額ずく気配が伝わった。いつの間にか主従の関係を取り戻した二人は、その体勢のまま話を続ける。
「命拾いいたしました私は、その後に運良くある人物に保護されました。その人物は強くなりたいならば、とこの学園を私に教えてくれ、資金援助もしてくれています。その代わり、学園を卒業してから姫さまを見つけ出すまでは彼の手の者として働くことになっておりました」
「……ふむ」
小平太の話に滝夜叉は目を細める。うまい話には裏がある、とは誰の言葉だったか、と考えながら、自分とは別の人間に手綱を引かれている小平太を見下ろす。対する小平太はなぜ滝夜叉がこの場にいるのか、と彼女を問い詰めたい気持ちを必死に抑えているようで、跪いた状態から滝夜叉を見つめる瞳がぎらぎらと輝いていた。それに溜息をひとつ漏らすと、滝夜叉はそれに応えて口を開く。
「わたくしはあれから今まで、とある山中にある尼寺へ世話になっていた。そこは忍に守られた場所でな、わたくしがひとりで生きていく力を望んだところ、忍術学園へと預けられることとなった。……こうして言葉にしてみると、わたくしもお前も状況はそう変わらんな」
自嘲するように呟く滝夜叉に、小平太が突然その肩を掴んだ。痛いほどに力を込められ、滝夜叉は小さく声を上げる。けれど、小平太はそれにも気づいていないのか、彼女に縋るような言葉をかけた。
「なら、私があなたをお守りします! だから、そんな危険な真似は……!」
「――放せ、小平太」
けれど、その懇願を滝夜叉は一刀両断する。冷たいとさえ言える視線を小平太に据え、彼女ははっきりと言い放つ。
「小平太、今のお前に何ができる? まだ学園の生徒であるお前が、わたくしを守るだと? それこそ片腹痛いわ」
「その間は尼寺にお戻りくだされば宜しいでしょう! 私が卒業するまであと四年、姫さまがあのときから三年尼寺で守られてきたことを考えれば、決して状況が悪くないはずです!」
必死で言い募る小平太を、滝夜叉は鼻で笑う。
「守られて、どうなる?」
「それは――……」
「我々の悲願を忘れたか、小平太」
鋭く言葉を突きつける滝夜叉に、小平太は言葉を失った。それに滝夜叉は続ける。
「我が家を再興し、亡き父の意志を継ぐ。それがわたくしに与えられた使命。守られているだけでそれが叶えられると思うてか」
「ですが、姫さまがわざわざ危険を冒される必要は……!」
「わたくしがやらねば誰がやるのだ。我が家の直系かつ唯一の生き残りがこのわたくしぞ。わたくしが先に立たず、一体誰が先に立つというのだ」
「ですが!」
「くどい! ……それに、理由はそれだけではない。先程お前は尼寺に戻れば、と言ったが、生憎と、あそこももうわたくしの安住の地ではないのだ」
滝夜叉は痛みを堪えるように一度瞼を伏せ、再び小平太を見据えてから続けた。
「山中にあり、隠れた堅固な要塞として在った尼寺であるが、御前――住職が身罷られてな。本山から新しく住職が配されることとなった。これがどういうことか分かるか、小平太?」
笑みさえ浮かべて告げる滝夜叉に、小平太は圧倒されたように首を横に振る。それに滝夜叉はいっそ恐ろしいほどに美しい笑みを浮かべ、ゆっくりと告げた。
「――もうわたくしを守ってくれる後ろ盾はどこにもない、ということだ」
「で、ですが、尼全てが変わるわけではございますまい! それならば……!」
「甘い、小平太」
滝夜叉ははっきりと小平太に告げる。雲に隠れていた月が現れ、二人の顔を冴え冴えと照らした。月影を映す瞳を真っ直ぐに見据え、滝夜叉は続ける。
「尼たちは飽くまでも寺に所属する存在。そして、わたくしがあの寺にいられたのは、先の住職が母上と懇意にしていたからだ。その関係が断たれた今、謀反人の娘を――それも、まだ首を探されている存在を、わざわざ隠し守る理由がどこにある? 寺の安全を考えるならば、そのままあの男の許へ差し出すが良かろうよ。金子を用立て、学園へ送り込んでもらえただけでもありがたいと思うべきだ」
尼御前の遺言を思い出し、滝夜叉は唇を噛みしめる。――彼女は最期まで、自分のことを気にかけてくれていた。ゆえに本来ならばすぐに追い出されても良いところを、新しい住職が来るギリギリまで滝夜叉を寺に匿い、忍術学園入学の今日まで安全に過ごせるように計らってもらえた。けれど、それも期間が限られているからできたことだ。
「ですが……だからと言って、忍術学園は男のみが通う場所ですよ!? もし女子だと露顕したら……忍術学園の人間は気の好い人間が多いですが、全員が善人というわけではない! もし万が一のことがあれば……!」
「くどい。わたくしの身に関しては学園長先生に一任している。それに、お前が考えているより遥かにこの場所はわたくしにとって安全なのだ。
忍となるための修行は元より、全ての生活がこの敷地内で完結する特殊な閉鎖環境、堅固な学舎、そして生徒を教え導き守るは腕の立つ忍。わたくしがこの忍術学園の生徒である限り、この箱庭でわたくしは常に守られているのだ。――これ以上に今のわたくしにとって安全な場所がどこにある?」
畳みかけるように告げると、小平太はそれ以上は何も言えずに黙り込んだ。それに滝夜叉は小さく息をついてから、今度は柔らかい笑みを浮かべる。
「案ずるな、わたくしとてそう易々と見破られるつもりもない。先生方はみなわたくしの事情をご存じだし、どうにかなるだろう。――ゆえに、お前はわたくしに構うでない」
「しかし……!」
「お前がわたくしを案じてくれているのは重々承知だ。しかし、入学したての一年に今のように傅いてみろ、周囲に不審がられるは当然だ。そのせいでわたくしの氏素性についても露顕することになろう。
だからこそ、小平太。全てを忘れるのだ。――お前とわたくしはこの場所で初めて出会った先輩と後輩。それ以上でもそれ以下でもない」
諭すように告げる滝夜叉に小平太は唇を噛みしめた。月明かりに照らされた拳は強く固められており、小さく震えている。けれど、それは次第に力が緩められ、最終的には力なく開かれた。
「――私は、お役に立てませんか?」
「その気持ちはありがたい。が、今は気持ちだけに留めてもらおう。もし、何かしてもらいたいことができたら、そのときは――頼んでも良いだろうか?」
「もちろんです、姫さま」
滝夜叉はその返事に小さく笑む。しかし、そのあとに表情を引き締めて小平太へ告げた。
「先輩、私の名前は平滝夜叉丸です。そうお呼びください」
――そう、今の自分は滝夜叉ではない。滝夜叉丸なのだ。そして、滝夜叉丸にとって小平太は二つ上の先輩であり、敬うべき存在である。小平太は滝夜叉丸のその言葉に一度大きく身体を震わせ、小さく呟く。
「……ああ」
「夜分に失礼をいたしました。私はそろそろ部屋に戻らなければなりません」
「っ――まだ、入学したてで道が分からないだろう! 私が長屋まで案内してやる!」
頭を垂れてからその場を去ろうとする滝夜叉丸に、小平太が先輩として声をかけた。それに滝夜叉丸は少し考える素振りをし、小さく頷く。
「では、お願いできますか?」
「こっちだ!」
小平太は滝夜叉丸の手を再び取り、歩き出した。その足取りはゆっくりで、この学園の地理に疎い滝夜叉丸が闇のなかで困らないように気遣っている。それに滝夜叉丸はそっと笑みを浮かべ、少しだけ小平太の手を握り返す手に力を込めた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒