鈍行
▼昭和パロ(こへ滝)
この話の少し後の話
「――貴方は、ひどい方ですね」
「うん」
「……騙すのならば、どうして最後まで騙してくださらないのですか?」
己の前で俯く男に滝夜叉は静かに声を掛けた。それは詰るというには余りにも弱く、しかし呟きには強すぎた。いつの間にか馴染んでしまった汚い一部屋は、よく見れば特高に捕まりそうな資料に溢れている。己も舞い上がっていたのだろう、と滝夜叉は思う。いつもの自分なら気付いたはずだ。彼が本当は何を狙って己に近付いたかを。
「だって、滝夜叉が欲しくなってしまったんだもの」
「は?」
滝夜叉が低く聞き返すと、小平太は真っ直ぐに彼女を見て続けた。
「だって、滝夜叉が欲しくなってしまったんだもの。――お前が見た目通りの〈お嬢さん〉なら、良かったのにな。そうしたら、利用しても罪悪感なんて抱かなかったのに」
「それは嘘ですね」
小平太が続けた言葉に彼女は即座に反論した。小平太の惚れた強い瞳が彼を射抜く。滝夜叉はほっそりとした白い指を小平太の頬に這わせ、続ける。
「貴方は優しい方だから、きっと耐えられなかったでしょうよ。――優しくて、ひどい方。わたくしにどうしろと言うのでしょう」
「……どうも、しないよ。だって、滝夜叉は一度だって父親のことも陸軍のことも漏らしてはくれなかった」
「当たり前でしょう。――あの方は娘だって信用していない。いえ、その逆。大切にしてくださっているからこそ、わたくしたちと仕事を明確に区別しているのですわ。
わたくしと関わり合いになっても、貴方たちは望む情報など最初から得られなかった。――愚かなことをしましたね」
小平太は己の頬に添えられた手を掴む。少し冷たいその手は、己が何度も温めたものだ。その手のひらに頬を押し当て、小平太は目を閉じる。
(――でも、滝夜叉。愚かなことをしたけれど、後悔はしてないんだ)
「小平太さん?」
「でも、俺だってそうだけれど、滝夜叉だってそうだろう? こんな場所にひとりで何度もやって来て、俺が悪い男だったらどうするの」
「人を見る目はある方なんですの」
小平太の言葉に滝夜叉が得意げに胸を張った。その様子はこの状況に余りにもそぐわず、小平太は笑う。その笑みはどこか力がなく、滝夜叉は彼の顔を覗き込んだ。
「……そんな顔をなさるなら、どうして引き受けたんですの。貴方にこういった腹芸は似合わないのに。貴方のお仲間も馬鹿ですね、貴方にできるわけがない。
わたくしを騙すのでさえ無理な貴方に、純朴な娘を誑かすなんて無理でしょう」
「自分は純朴じゃないとでも言いたいの?」
「わたくしは世間を知っておりますから。――だから、例え貴方が欲しい情報を持っていたとしても、貴方に漏らすことはありませんよ」
小平太は泣きそうな顔で笑う滝夜叉に堪らなくなって、その細い体躯を抱き締めた。細くても温かい身体に縋り付く。――泣いてしまいそうだった。
最初はただ利用するために近付こうとしたのに、この目で射抜かれた瞬間にそんな気を失くされた。会うたびに違う面を見せる少女の、脆さと強さに惹かれ続けた。何より、弱いくせに己を支えようとする強さに、小平太は魅せられたのだ。
「馬鹿な方。――こんなに辛くなるのなら、途中でやめてしまえば良かったのに」
「だって、滝夜叉に会えなくなるのは嫌だったんだ。……逢わずに居たら、忘れられてしまう。お前はそうする。己に不要と、割り切ってしまう」
「華族の娘ですもの。――強かなんですわ」
「違うだろう? ……己の義務に忠実なだけだ」
小平太は抱き締めた滝夜叉を見下ろした。彼女は決して己から視線を外さない。絡み合った視線に誘われるように、二人の身体が更に近付いた。唇が、触れ合う。――初めて触れ合ったその肌は温かく、少し乾いていた。
「…………馬鹿だな、こんな男に引っかかるんだから」
「貴方こそ、後悔なさいますよ。華族の女に碌な者など居ないのに。――上辺ばかり取り繕って、中身はすかすかの愚かな人間ばかり。貴方のように国を憂う人間が何人おりましょうや」
小平太は己の身体に腕を回す少女を強く抱き締め、その額に、瞼に、鼻に、頬に、唇に口づけを落とした。更に首筋から鎖骨へと辿って行く。嫁入り前の女子に対してこのような振る舞いなど許されないはずなのに、滝夜叉は抵抗する様子すら見せなかった。
「馬鹿だなあ、滝夜叉は」
「……貴方もでしょう」
布団も強いていない畳に彼女を押し倒す。少しずつ傾き始めた日が差し込む中、小平太は誰の手も触れたことのない少女の身体に己の痕を残したのだった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒