鈍行
▼昭和パロ(こへ滝)
「あの娘だ」
そう同志に囁かれ、小平太は店の先を歩く女学生の群れへと視線を向けた。どこであっても女性が集まれば姦しい。それが若い女子であるのならば、どんな淑女であろうとも騒ぎは必然である。彼女たちは時勢の暗さなど全く知らぬ様子で微笑み交わし、綺麗な服を身にまとって歩いて行く。その幸運がどれだけのものか、きっと彼女たちは知らぬのだろう。
「あちらから歩いてくる、三人の真ん中だ」
囁かれて視線を更に動かせば、ひときわ目立つ三人組が視界に入った。ひとりは日本人には珍しいふわりとした髪を持つ少女で、西洋人形のように端正な顔立ちをしている。もうひとりは少し赤い髪の少女で、傍らの少女に食ってかかる様子はいかにも気の強そうな様子だ。
小平太の目を一際引いたのは、中央の黒髪の少女である。ツンと澄ました表情はいかにも陸軍将校の娘らしく、ひどく鼻につく。けれど、その顔は花のように美しく、同時に清廉。小平太は己らが目を付けた少女に思わず魅入った。
「真ん中の高慢そうな女が平 滝夜叉だ。どこかの姫君の名前から取られたそうでな、いかにも華族のお嬢って感じだろ」
「……ああ、そうだな」
小平太は耳に粘るように張り付いた男の声に無理矢理同意した。――平 滝夜叉。少女の名を頭に刻み込む。それはこれから情報を得るための蔓を引くためと言うよりも、脳に沁み込むような印象だった。
「頼むぞ、小平太」
「分かってる」
「あそこの角で三人は別れる。ひとりになった時を狙ってくれ。――西洋人形には気をつけろ。後ろに立花家の長女と、陸軍士官潮江がついている」
陸軍の潮江と言えば、士族の出世頭としてこの世界では著名な男だ。急進的な開戦派らしく、あちこちで祭り上げられている。小平太はそれを思い出して口の中に苦い味が広がるのを感じ、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「――行ってくる」
己の信念を、志を守るためには、この行動が必要なのだ。小平太は己にそう言い聞かせて、仲間を残して店を出た。
「……じゃあね、滝」
「ああ、また明日」
「明日のテスト、見ていろよ! 今度こそお前を負かしてやるんだからな!」
「三木、無駄な努力は己の首を絞めるだけだぞ。私のように天賦の才に溢れている人間にお前が敵うはずなかろう」
「言ったなあ! 見てろよ、絶対負かしてやるんだからな!」
小平太はじゃれあい、というよりも口喧嘩に近い言い合いをしている少女たちを遠目で見遣った。滝夜叉、という少女は顔立ちに相応しく、性格も傲慢なようだ。そうでなければ友人に対してあの物言いはできない。そういう人間ならば利用しても問題はあるまい、と小平太は自分に尚も言い聞かせ、彼女たちが離れた瞬間を狙った。
少女たちは思い思いの道へ行く。三人とも車の送迎があるはずなのだが、何故か車を学校よりも離れた場所で待たせているのだ。金持ちの考えることは分からん、と小平太は頭の中で毒づくと、黒髪を揺らして歩く少女の後をそっとつけた。
日傘を差す少女はひとりで歩く。供も連れずに、たったひとりで。
(――さらわれても知らないぞ)
小平太は己のやっていることを棚に上げて考える。こんな風に一人歩きをさせていたら、いつか誰かにさらわれるだろう。陸軍将校も考えが甘い、と小平太が彼女の後姿を眺めていた時に、突風が吹いた。
「あっ!」
前方から小さな声が上がり、白い日傘が宙を舞う。己の許へと飛んできた日傘を思わず捕まえると、己がどうやって関わり合いを持とうかと思っていた少女が駆け寄って来た。――これが好機というやつなのだろうか、と小平太は思う。
「すみません……!」
「いえ、どうぞ」
焦った顔をすると幾分か幼くなるな、と小平太は思った。先程のツンと澄ました表情よりもずっと良い。少女は小平太の差し出した傘を受け取ると、にこりと微笑んだ。
「すみません、助かりました。傘でお怪我はありませんでしたか?」
「まさか! こんな華奢な日傘じゃかすり傷ひとつ付きませんよ。可愛らしいお嬢さん」
小平太の言葉に滝夜叉は少し困惑――いや、不機嫌そうな顔をする。何か悪いことを言っただろうか、と小平太が思った瞬間に滝夜叉が口を開く。
「――傘を拾っていただいて、有り難うございました」
一度頭を垂れた後、滝夜叉は急ぎ足で去って行こうとする。それに小平太は思わず腕を取って、彼女の足を引き留めた。
「ちょっとちょっと! そんなに急いで行かなくても!」
「――わたくし、〈お嬢さん〉ですから急いで帰らなくてはなりませんの。お手を離してくださいませんか?」
どうやら、「お嬢さん」と呼んだことがお気に召さなかったらしい。――どうして自尊心の高い少女である。そこで初めて、小平太は彼女の背筋が凛と伸びていることに気付いた。この姿勢の良さが先程の清廉な印象を伝えたのだ、と気付く。
小平太は考えるより早く、口を開いていた。
「――だって仕方がないでしょう、あんたの名前を知らないんだから」
「お教えする必要はございませんでしょう」
「俺は七松 小平太」
「………………何故、わたくしが名乗らなければなりませんの?」
「人間関係の基本だからじゃないですかね? お嬢さん」
小平太の茶化すような言葉に滝夜叉は目に見えて不機嫌になり、その柳眉を跳ね上げた。強い瞳が真っ直ぐに小平太を射抜く。意志の強い眉が彼女の矜持を教えていた。
「貴方と人間関係を始めるつもりはございませんわ」
「――でも、お嬢さんって呼ばれるのは嫌なんだろう?」
「もう貴方とお話ししなければ良いだけの話です」
「やだよ。だって俺、あんたが気に入ったんだもん」
小平太の言葉に滝夜叉は呆気に取られた顔をした。その表情はすぐに怒りに取って変わり、彼女は剣呑な調子で小平太に吐き捨てた。
「貴方がわたくしをお気に召そうとも、それがわたくしに何の関係がございますの?
――不愉快です。傘、拾ってくださって有り難うございました。迎えの車がすぐそこに来ておりますので、わたくしこれで失礼いたします」
律儀に頭を下げてから小平太の手を振り払い、滝夜叉は早足で去っていく。逃げられた形となった小平太は、その小さな背中を見送りながら小さく溜め息を吐いて頭をかく。
(あーあ、大失敗)
取り入るつもりが嫌われてしまった。それでも不思議と小平太は落ち込む気にならなった。彼女の矜持の高さが、己を射抜いた強い目が彼の脳裏に焼き付いている。謀は失敗だが、これで諦めるつもりはなかった。
(――明日がある)
平日なら女学校に通うはずだ。この場所で待てば、必ず彼女に会えるはず。
小平太は次の機会を頭に浮かべる。何とかして彼女とつながりを持たねばならない。彼女から情報を聞き出すことができれば、己らにとってかなりの有利となるのだ。そのためには彼女を何とか己に馴染ませる必要がある。
しかし、それ以上に己を射すくめた瞳や取った腕の柔らかさ、何より己を見上げて微笑んだ表情が目に焼き付き、小平太は無意識のうちに彼女に触れた拳を握っていた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒