鈍行
▼曾根崎心中(鉢雷・死ネタ)
・鉢屋が遊女(お初)、雷蔵が丁稚(徳兵衛)
・結末は二人の心中(死亡ネタ)(なにせ「曾根崎心中」だから)
・ちょっと気分が乗ったので、原作より多く出血しております(何)
・原作改変しまくり(設定、筋をかなり変えてます)
・なので、「曾根崎心中」を純粋にお好きな方にはお勧めできません
・しかし、あらすじを知らないと多分訳が分からないので、ご存じない方はWikipedia先生にお聞きしてください
以上のことが許せるという心が海よりも広い方だけどうぞご覧ください。
因みに鉢屋が遊女なのは、雷蔵がお初ポジだった場合、明らかに鉢屋が絶対に金を貸さない、騙されない、むしろ騙して金を奪い取り雷蔵を落籍す、というイメージがあったことと、私の天使が遊女だなんてやっぱり想像できなかったからです(個人的見解)。
なら雷鉢じゃないか、と仰る方もいらっしゃるかもしれませんが、このお初は攻め攻め、常に主導権を握っております。なので、鉢雷です。ええ、鉢雷と言い張りますとも。
曾根崎心中
「……雷蔵様」
「あれ……三郎? どうしてこんな所に居るんだい? って、ああそうか……お仕事だね」
ふらふらと目の前を通り過ぎようとする青年に、客の寺参りに付き合わされていたお初――三郎は声をかけた。自分の声に反応して目を上げる彼が口に上らせた秘密の名前に彼女は顔をしかめ、人差し指を口元に当てる。それに彼は弱弱しく笑いながら頷き、そっと掛け茶屋へと入ってくると彼女の傍へ歩み寄った。普段は廓から出られない自分が外に居ることへの疑念も、すぐに合点して苦笑する。三郎はそんな彼の顔をもう随分と見ていなかったため、拗ねて少しだけ唇を尖らせた。
「――もう随分とおいでがないので、心配しておりました。いつもなら月に一度はおいでくださるのに。お初に飽いてしまわれたかと」
「馬鹿だな、そんなわけないじゃない。でも……ごめん、ちょっと色々あって」
「色々……?」
人目を気にして砕けた物言いを控える三郎であるが、雷蔵の言葉に表情を険しくする。普段はこのように感情を顔に表さぬ三郎にとって、その変化は人目に付く。すぐにすっと表情を笑みに戻して、彼女は雷蔵を促した。
「雷蔵様、何か理由がおありなのですね? 教えてください。――わたくしと貴方の仲でしょう?」
「……できるなら、言いたくないんだけど……」
「わたくしは知りとうございます。――教えてくれないか、雷蔵? 私は知りたい。君が教えてくれないのは、私を心配させたくないからなのだろうが、知らない方が心配だ。それに……何か知恵を貸すこともできるかもしれない」
声を落として真摯な言葉を告げる三郎に雷蔵はへにゃりと顔を崩した。同時にきょろきょろと周囲を見回した。
「……君のお客は?」
「今は参拝に行っている。しばらくは戻ってくるまいよ。――時間はある。教えてくれ」
こうなっては三郎は絶対に引かない。それを誰よりも知っている雷蔵は小さく溜め息を吐いた後、彼女の傍らへと腰を下ろした。
「……実は、僕に結婚の話が持ち上がってね」
「――受けたのか?」
「それが先に話を受けたのが、僕ではなくて継母でね。――旦那様は有り難いことに、僕とおかみさんの姪御さんを娶(めあわ)せて、新しく商売を始めたらどうかとまで仰ってくれて、継母に話を通したんだ。継母は勿論有り難いことだと持参金代わりの金子も受け取って、さあ一緒になれときたもんだ。
けれど、僕には君が居る。それでようやく僕に話が回って来た時に勿論お断りしたら……話が違うじゃないか、と。それで初めて僕も継母がお金を受け取ったことを知ってね、驚いて慌てて取り返しに行ったんだ。危なく使われるところで、間に合って良かったよ。それでも旦那様たちとの仲もぎくしゃくしちゃったし、新しい仕事を探さなければならないな。――君を請け出すのが、また遅くなりそうだ。本当にごめん」
そう言って雷蔵はようやく笑った。その表情が先程とは違って明るいことに三郎も胸を撫で下ろす。そして、軽く笑って彼を促した。
「そんなことはどうでも良い。それよりも、そんな事情があるのなら早く戻って金子を戻して来ると良い。そうすればその憂いは晴れるのだろう? 雷蔵がそんな顔をしているのは嬉しくない」
「そうしたいのは山々なんだけど……今、貸しちゃっててね」
「はあ!?」
衆目の前であるにも関わらず、三郎が声を上げた。それに雷蔵は落ち着かせようと手を上げる。その仕草に衆目を思い出した三郎は渋々腰を落ち着け、続きを促す。それに雷蔵は頬を指で掻きながら続ける。
「いや、九平次が何か困っていたようだから。どうしても大金が居るって話でね、ちゃんと三日までには返してくれるって言うし」
「……それで、貸してしまったのか?」
「うん。……でも、三日に返すって話だったのに……まだ返ってこないんだ。親友同然の九平次だから大丈夫だと思うけど、明日までに返ってこないと困るから、今から行って来ようと思って」
力なく笑う雷蔵に、三郎はどこまでもお人好しの彼を罵りたい気持ちになった。期限通りに返ってこない時点で怪しむべきなのだ。彼よりずっと世間を知っている三郎は既に彼が引っかけられたのではないかと危惧している。けれど、自分がどんなにそれを告げても、お人好しである雷蔵はきっと結末が出るまでその「九平次」とやらを信じ続けるのだろう。
こうなってはどう転ぶか、三郎は結末を見極めるしか術はない。後々に雷蔵が窮地に陥った時、いかにして助けるか、三郎はそちらの方に頭を回し始めた。その時。
「あ、九平次!」
雷蔵が彼にしては珍しい大声を上げて、立ち上がった。バタバタと外へ駆けて行く。その先には数人の男が歩いており、彼はその中央に立っている男へと真っ先に駆け寄り、その袖を掴んだ。
「良かった、ようやく会えた! 探していたんだよ、九平次!」
一瞬表情を固まらせた九平次であるが、すぐに表情を取り繕って雷蔵へと視線を向ける。その表情を遠目から見た瞬間に、三郎はその後に起こるであろう出来事を予測した。腰を浮かす。しかし、彼女が立ち上がる前に横から声が掛かった。
「――そろそろ次に行こうではないか」
「旦那……ですが」
折悪しく自分の客が戻ってきたことに三郎は内心舌打ちをしたい気持ちでいっぱいだった。そうこうしているうちに、外で殴打の音が響き渡る。ハッと彼女が外に向き直ると、雷蔵が数人に殴打されていた。
「雷蔵!」
「こりゃ、お初。どこへ行く! あんな場所へ行っては危ないぞ。ほれ、もう次へ行こう、行こう。あんな喧嘩に巻き込まれては、お前が怪我をしてしまう」
駆け寄りたいのに、客がそれを許してはくれない。女の身では男の力には敵わず、三郎はずるずると引きずられる。踏み止まろうとしても着物がそれを許しはせず、三郎は数人がかりで打ち据えられる雷蔵を助けることもできずに次の目的地へと連れ出されたのだった。
「……雷蔵!」
「ごめんね、心配したでしょう? あの後、店の方から別の場所に行ったって聞いて、安心したんだ。あのまま傍に居たら、飛び出してくるって分かってたし」
雷蔵の言葉に三郎は怒鳴り付けたくなった。――どうしてこう、自分のことより人のことばかり気にするのだろう。そんなことを言っているから、騙されたりするのだ。自分のことをもっと考えれば、きっともっと楽に生きられるのに。
「ひどい怪我だ。……痛いだろう?」
「多少はね。でも、良いんだ。それはもう、別に」
「良くないだろう!」
いきり立つ三郎に、雷蔵はやはり笑った。――いつもの笑みとは違う、力のない笑みで。
「それよりも三郎。僕、君に謝らなくちゃならないんだ」
聞きたくない。三郎は即座にそう思った。けれど、雷蔵の唇は止まらない。三郎が両手を伸ばして彼の唇を塞ぐ前に、雷蔵はその言葉を紡いだ。
「ごめんね、君を請け出すこと……できなくなってしまったんだ。もう、こちらにも来られない」
「どうして……雷蔵!」
「ごめんね。ごめんね、三郎」
三郎は悲鳴じみた声を上げた。しかし、雷蔵は三郎の問いに答えずにただただ悲しげに笑うだけ。その表情は余りにも透明で、三郎は彼が覚悟してしまったことを知った。
「――私と一緒に、生きてくれるって言ったじゃないか」
「ごめん。三郎――いや、お初」
三郎は自分の名前を呼ばれて、本当に彼が自分を置いて行く気なのだと気付いた。彼は、どうするつもりなのだろうか。
「どこに行く気なんだ? ひとりで、……それとも、結婚するのか?」
「うー……ん、教えない。だって、三郎ついて来ちゃうでしょう?」
柔らかく笑む雷蔵に、三郎は唇を噛み締めた。どんなに辛い務めでも耐えて来られたのは、彼の存在があったからこそ。それまでの自分は死んでいたも同然で、雷蔵によって命を吹き込まれたのだ。だから、母が昔言っていたことを教えた。誰にも教えることのなかった、郷里の話を。
(――三番目の私は大変元気良く母の腹を蹴ったらしい。だから母はてっきり私を男子だと思って、ずっと「三郎、三郎」と呼んでいたそうだよ。けれど、生まれてみたらあら不思議、付いているはずのものが付いてない。それで初めての女の子、お初と名付けたそうだよ。だから、雷蔵。私のことは三郎と呼んでくれ。君だけに呼ばれる名だ)
それを喜んで受け入れてくれた。自分だけのたったひとりの人だと思えた。例え自分自身がどんな男にでも身を開く遊女であろうとも、彼だけは真心を傾けてくれると。
その雷蔵が今、自分を捨ててどこかに行こうとしている。どこか遠く、この廓という籠の中からは出られない三郎を置いて。
「――三郎が好きだよ。でもね、連れていけない。ごめんね。愛してるから、僕は君を置いて行く」
そのくせ、雷蔵は三郎の頬を優しく撫でて、彼を憎ませてはくれない。己を慈しむ指を絡め取りながら、三郎は雷蔵を見やる。少しでも、何か手がかりが得られないものかと。しかし、彼はそれ以上何も言わず、三郎を抱くことすらしないで帰ってしまった。追っていきたいのに、それが叶うことはない。三郎は儘ならぬ己の身に歯噛みしつつ、自分の座敷へと戻った。
その後に下から聞こえる聞き覚えのある声に三郎は耳を澄ませた。どうやら、誰かが大宴会を開いているらしい。三郎はそっと足音を忍ばせて階下を覗き、息を飲んだ。
先程雷蔵を打ち据えた男が、目の前に居る。怒りに身を震わせ、三郎は更に耳を澄ませた。聞こえてきたのは、大声で誰かを罵る声。それが雷蔵のことだと気付くまでに三郎に時間は要らなかった。
「――俺は言ってやったのよ、訴え出てみろって! あの男、嘘を吐いて俺に金を貸しただなんて言いやがる。だが、俺はあんな手形書いたこともねえんだもんな!」
(嘘を吐け。今遊んでいるその金だって、お人好しの雷蔵を謀って奪った金だろう)
「あの男は馬鹿さ! 銀子二貫の持参金を持った嫁の来手を蹴っ飛ばして、旦那の機嫌も損ねた! これであいつはもう終わりさ! 生真面目でうっとうしい、あんな奴が目の前から消えりゃ清々すらあな! ひっひっひっ……!」
「しかし、お前も突然金回りが良くなったよなあ! 銀子二貫の借金を全額返して、更にこうして豪遊三昧! 本当にあいつから根こそぎ奪ったんじゃねえのー?」
「馬鹿言うな! 第一、例えそうだったとしても証拠はねえよ! 何せ、俺ぁあいつが俺に金を貸したっていう数日前に印判を失くしてんだからなあ! あいつが何を言おうとあっちがお縄につくだけよ!」
大声で言い交わされる戯言に三郎は唇を噛み締めた。――同時に、彼が何故自分を落籍せられなくなったかも理解した。
(馬鹿だな、雷蔵……お前、あいつに持参金分だけじゃなくて、私の落籍用の金まで貸したんだろう。ああ、何て馬鹿な奴だ)
静かに涙を流す三郎の耳に、続いて飛び込んできた言葉は彼女の胸をつくものだった。
「でもよ、あの男、最後に潔白の証を立てるって言ってたぜ? 何かあるんじゃねえの?」
「あるわけねえよ。俺は無実なんだからな!」
しかし、三郎には分かってしまった。彼が何をしようとしているか。――もうどうにも恥も雪げず、義理も立てられないとなったとしても、彼が逃げることは決してない。逃げずに、潔白の証を立てるとするならば……後はもう、ひとつしかない。その瞬間、三郎は自室へと身を翻していた。今着ていた着物を脱ぎ棄て、目的の衣を取り出す。今日はもう客は来ないはずなので、人目を気にする必要はなかった。
(考えろ、考えるんだ……雷蔵のことだから、きっと身辺を片付けて、きちんと果たせるだけの義理は果たしていくはず。それに今はまだ人目がある。まだ、追い付ける。必ず追い付いてみせる。――雷蔵を、ひとりでいかせたりなんてするものか)
一方、雷蔵は夜も更けて静まり返った道をひとりこっそりと歩いていた。道に降りた霜がさくさくと踏み締めるたびに音を立てる。吐き出すたびに白くなる息を見ながら、雷蔵は懐に入れたお守りをそっと押さえた。以前、廓から中々出ることのできない三郎が強請ったために、お揃いで買ったお守りだ。――その片割れだけを供に、雷蔵はひとりで夜道を歩いていた。目指すは曾根崎の森。そこで彼は全てを終わらせるつもりだった。
その道行きが半ばまで過ぎたころ、雷蔵は道の傍らにひとつの人影があることに気付いた。夜鷹かとも考えたが、向かうは曾根崎の森、既に人の暮らす場所からは離れているのだ。こんな所に客引きの夜鷹が居るはずもない。では一体誰が、と考えたところで、雷蔵はその人影が自分の前を塞ぐように立ったことに気付いた。
「――ひとりでどこに行こうと言うんだ、雷蔵?」
「そ、の声……まさか、三郎!? どうしてこんな所に居るんだ! 店は? それに……その恰好は……」
月明かりと白く輝く霜の照り返しを受けて浮かび上がった愛しい女性の顔に雷蔵は飛び上がって驚いた。慌てて駆け寄ると、彼女が異様な体をしていることに気付く。黒の小袖を上に着ているが、その下には真白く闇に浮き上がる装束を着ている。細帯だけが緋色をしていて、普段の彼女ならば絶対にしないであろう恰好を三郎はしていた。
「あの男、ウチの店に来たんだ。――聞いてもいないことまで上機嫌で店の娘にベラベラ喋繰っていたよ。お蔭でこちらは雷蔵が何をしようとしているか分かって、ある意味儲けものだったけどな」
「――まさか、じゃあ」
「ひとりで逝くなんて、酷過ぎやしないか? 私がお前を愛していて、他の誰も要らないと思っているのはお前が一番よく知ってるはずだ」
「そんな……三郎、どうして……! 僕は君を死なせたくなんかないよ! だから、だから置いていこうと決めたのに……一番愛しているから、誰よりも愛しているから、生きて幸せになって欲しくて、僕は一生懸命諦めたのに……!」
「そりゃ残念だったな、雷蔵。――私はお前が居なければ生きてなどいけないよ。だから、お前が悲しむことを承知でここに来たんだ」
雷蔵は三郎の言葉に呻いた。知っている。……彼女が心の底から自分を愛してくれていることなど、雷蔵が一番よく知っているのだ。だからこそ、こうなると分かっていたから何も告げずにひとりで全てを終わらせようと思ったのに。死後、彼女に後追いなどしないようにと重々言い含める手紙まで残したのに、これで全てがおじゃんになった。自分を陥れただけでなく、最後の最後まで邪魔をしてくれた九平次に雷蔵は今更ながらに怒りの念が湧いたが、今はそんなことを言っている暇はない。雷蔵は急いで三郎の身体を方向転換させた。
「今ならまだ間に合うかもしれない! 急いで戻れば抜け出したことを気付かれないかも! ほら、三郎早く……!」
「無理だよ、ほら」
三郎が指差した先には点々と灯る明かりがある。それはゆらゆらと動いていて、明らかに誰かを探している。雷蔵はそれに息を飲み、平然としている三郎を見遣った。
「私が雷蔵と出会う直前ぐらいに、不在が見つかるように仕掛けてきた。――もうこれで戻れない。戻っても嬲り殺しにされるだけだ。だから、連れてってくれ。私は最後まで雷蔵の傍に居たい」
「な、んてことを……! 何て馬鹿なことをしたんだ、三郎! 僕は、僕はどんな気持で……!」
「それなら私だって同じことを言ってやる。雷蔵に捨てられたと思った時、私がどんな気持ちだったと思うんだ? この世が終わったかと思った。魂の抜け殻のような、こんな重たい肉体を捨てて、雷蔵の傍に添うて行きたいと心の底から願ったよ。でも、雷蔵がどこに行くかも教えてくれなかったから、私はどうすることもできなかった。
――あの男たちが漏らしてくれるまでは。潔白の証を立てると聞いた時点でピンときた。雷蔵は逃げない。逃げないならば、後はどうなるか……雷蔵なら金子を集める。でも、それすらも叶わなければ……? 後は詫びるしかない。雷蔵は命を懸けて詫びる気だって分かった。それが同時に身の潔白を示すことにもなる」
雷蔵は自分の考えを全て言い当てられて口を噤んだ。――だって、仕方がないだろう。自分の与り知らぬところとは言え、身内が約束を違えたことは事実。それに誠意を見せ、心の底より詫びるのが道理。けれど、自分の考えなしの不始末からそれすらも叶わなくなったならば、後は死んで詫びるくらいしか雷蔵にはできない。本当はそんなことしたくはなかったけれど、もうどうにもならないのだから仕方がないのだ。
「雷蔵は馬鹿だ。……本当に馬鹿だ」
「そう思うなら、見限ってしまえば良かったのに」
「ああ、そうだな。……だが、その馬鹿正直でお人好しのところに惚れてしまったんだ、もうどうしようもない」
三郎は雷蔵との距離を縮めて、その胸に飛び込んだ。彼の首に腕を巻き付かせ、その肩に顔を埋める。
「お互いにもう後はない。――雷蔵、最期まで一緒に居させてくれ。地獄でも一緒に居られるように、一緒に死にたい」
「馬鹿だなあ、三郎は。しわしわのお婆ちゃんになった君を三途の川まで迎えに行くのが、もう先がない僕の唯一の楽しみだったのに」
「それはこっちの台詞だ。雷蔵だけが若いままで、私が年寄りの姿だなんて耐えられん。今の若いままの姿で連れて行ってくれ」
抱き合った二人の身体にしんしんと寒さが沁み込んでいく。同時に遠くで声が聞こえ、二人はびくりと身体を竦ませた。
「追っ手だ。行こう、雷蔵。――本懐を遂げるんだ、誰かに邪魔されないうちに」
「……三郎」
「今更だよ、雷蔵。こんな女に惚れられたことを悔むしかない」
「――その逆だよ、三郎。最期まで一緒について来てくれる、こんな良い女をこんな状況にしか追い込めない自分が憎くて仕方がない」
「馬鹿だな。悪いのは九平次であって、お前じゃない。――さあ、行こう」
「うん、逝こう」
雷蔵は三郎に促され、ようやく覚悟を決めた。彼女の手首に数珠が巻き付いていることに気付き、彼はそれを爪で手繰る。一度深く唇を合わせた後、三郎を寒さから守るように抱え込みながら、雷蔵は曾根崎の森の奥へと足を進めた。
「――ここにしよう、雷蔵」
「松と棕櫚が……連理に」
「あの世へ行ってもひとつの蓮(はちす)に生まれ変わりたいと願う私たちにはちょうど良いじゃないか」
そう言いながら、三郎は自分の着けていた帯を外し出す。驚く雷蔵を尻目に、彼女はにこりと笑って自分の腰に片方を巻いた緋色の細帯の片方を雷蔵へと差し出した。
「死んでも離れ離れにならないよう、お互いを繋げていよう」
「……本当に、これで良かったのかい? 三郎、まだ今なら私の所為にもできる。無理やり連れ出されたのだと言えばきっと許してもらえるだろう」
「くどいぞ、雷蔵。――私はもうここで死ぬと決めた。雷蔵が死ななくても、私はここで死ぬ」
「馬鹿なのはどっちだい? 僕がお前を置いて生き残るわけないだろう」
雷蔵は険しい表情で愛しいひとの頬を撫でる。その頬は既に周囲に熱を奪われ、冷え切っている。せめて温めてやりたくて両手で頬を包むと、ひどく心地良さそうに三郎がその手に己の手を重ねた。
「――三郎、愛してる」
「ああ、私もだ。――来世でもまたお前と恋人になりたい。その先も、その先も、ずっとだ」
「うん、約束。また僕が君を探しに行くよ」
「駄目だ。――雷蔵が男だとまた変なのに騙される。私が男に生まれ変わって、女に生まれ変わったお前を守ってやるんだ。だから、私が男になって、お前をいつか迎えに行く」
「……その方が上手く行くだろうと思ってしまう自分が情けないよ」
「まさか。このように気の強い、理屈ばかり捏ねる女を許してくれる度量の広さを持ってる雷蔵が男らしくないわけないじゃないか。お人好しすぎるのが難点だが、そこがまた良い。そうでなければ、私は雷蔵にこんなに惚れ込んだりしなかった」
二人はそこでもう一度唇を合わせた。深く、深く、全てを分け合うように。これが最後の口付けだと分かっていたから、尚更に気持ちがこもる。長い長い口付けを終えた二人は、もう一度強く抱き締め合ってから懐に手を入れた。各々、懐から小刀を取り出す。その様子に二人で顔を見合せて笑い、雷蔵は三郎の持っている小刀を取り上げた。
「君に人殺しをさせるわけにはいかないよ。僕が君を殺して、その後を追おう」
「でも、雷蔵……」
「そうしたら、君だけでも極楽に行けるかもしれないしね。――僕は良いんだ、自業自得だから。でも、君が苦しむのは嫌だ。だから、最後の我儘を許しておくれ」
三郎はその言葉に雷蔵が決して引く気がないことを知り、渋々頷いた。それに雷蔵はくしゃりと笑い、もう一度彼女を抱き締める。額やこめかみに落とされる口付けが、三郎の心を慰めた。せめて苦しみが少なくなるようにと、三郎は彼の首筋に指を当てる。
「雷蔵、ここだ。ここに首の血の道がある。ここを切れば苦しまずに死ねるよ」
「じゃあ、君ならここだね。――三郎、なるべく苦しくないようにするけど、本当にごめんね。すぐに逝くから、先に逝って待っていて。いや、待たなくて良いよ。先に極楽へ往っていて」
「馬鹿だな、私が雷蔵を待たないわけないだろ。地獄に堕ちるにせよ、極楽に往生するにせよ、いつまでも一緒だ。――愛してる」
三郎はそう言って彼に強く抱き付いた。雷蔵もそんな三郎を抱き締め返して、鞘を抜き払った小刀をその首筋に当てた。しかし、慈しんで触れた思い出ばかりが頭を駆け巡り、中々引くことができない。そんな雷蔵を三郎は仕方ないな、と笑って、促すように唇を開いた。
「早く殺してくれ、雷蔵。――追っ手が来ては総てが叶わなくなる。私なら大丈夫だから」
「三郎……こんな結末にしかできない僕を許してくれ……すぐに後を追うから。決して君ひとりで死なせたりなんてしない」
「知ってる。だから、早く。さあ、私を殺して」
「……心の底からお前のことを愛してるよ、三郎」
「ああ、知ってる」
穏やかな笑みを浮かべた三郎の首筋に、雷蔵は意を決して刃を突き立てた。ぐっと力を込めて、彼女が示した血の道を一気に掻き切る。その瞬間に生温かい血が周囲に飛び散り、白く美しい霜の降りた地面を汚した。温かい血潮が雷蔵の服や顔も濡らして、雷蔵はその瞬間に確かに自分が彼女を殺したのだと知る。その美しい朱に染まった刃を今度は自分に向け、迷わず喉仏を突き通す。ぐりぐりと刃で喉を抉った後、雷蔵は自分の身体にもたれかかる三郎の身体を力の抜けた腕で抱き締めた。
二人の死体は松と棕櫚の連理の下へ折り重なるように横たわり、その温もりを冷えた闇が奪っていく。しかし、悲しい結末を迎えた二人の表情はその状況とは裏腹に穏やかであったこともあり、たくさんの人々から回向を受けて、未来成仏疑いない恋の手本として語り継がれることとなった。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒