鈍行
▼巡り廻る
もう六年住んだ粗末な庵の入口に人影を見つけて、滝夜叉丸は目を細めた。――逆光になって顔は見えないが、青年だというのは分かる。それで滝夜叉丸は自分の〈弟〉が帰ってきたことを知り、ゆっくりと声を掛けた。
「お帰り、〈小平太〉」
七松小平太の死後、滝夜叉丸は絶望して死を選びたがった。けれど、それは周囲に阻まれ、滝夜叉丸は生きていかねばならなくなる。今はその決定を悔やんではいないけれど、当時はやはりひどく苦しかったものだ。……特に、小平太の居ない世界で生きるのは滝夜叉丸にとっては地獄のようだった。
そんな中、周囲から守られ、断絶されることで少しずつ己を取り戻し、滝夜叉丸は生きることを己で選んだ。次いで、世界を見て回ることに決める。――いつまでも忍術学園の傍で囲われていても、滝夜叉丸にとっても、また周囲にとっても良くないことだと分かっていたためだ。彼は己の意思で小さな世界を飛び出すことを望み、そしてその意思の通りに外の世界へと歩き出していった。
しばらくあちこちの神社仏閣を巡った滝夜叉丸は、ある時に小さな掏りに出会った。泥だらけで痩せっぽちの小さな子どもは彼の懐から財布を抜こうとして、当然ながら捕まったのである。滝夜叉丸とて腐っても元忍たま、掏りごときに財布を掏られるわけがない。そうして捕まえた子どもを見た時にその顔立ちが意外に整っていたことに気づいて、滝夜叉丸はふと気まぐれを起こした。
『――お前、名は何という?』
『聞いてどうするんだよ』
『特には何も。ただ興味を持っただけだ』
『…………小平太』
少年の名前を聞いて、滝夜叉丸の時間が止まった。――全く顔の違う、性格もまるで違う子ども。けれど、名前は「小平太」という。その瞬間、滝夜叉丸の中で何かが弾けた。
『――親はどうした』
『とうに死んだ』
『兄弟は?』
『いねえ』
『他に世話してくれる人間もいないのか』
『居たらこんな真似してねえよ』
道理だ、と滝夜叉丸は少年の言葉に頷いた。同時に彼を見つめて目を細める。――愛した人とはまるで違う存在だが、その名前を聞いた以上、滝夜叉丸が彼を放っておくことはできなかった。
『お前、一生このまま生きていくつもりか?』
『何が言いたいんだよ』
『……もし、お前が』
やめろ、と頭の隅で理性が呟いた。この少年は七松小平太ではないし、例え名が一緒であっても彼に代わる存在ではない。いずれ自分はこの選択を悔やむだろう。けれど、感情はその全ての忠告を無視した。
『――このままで居たくないのならば』
理性を押し込めて、喉を震わせる。
『私についてくるがいい。――少なくとも、もう少しましな生活をさせてやろう』
言ってしまった、と滝夜叉丸は思った。けれど、外に出してしまった言葉を取り返す術はない。いっそ、この子どもが自分の手を振り払ってくれたのなら、と思ったが、その願いは力強く握り返された少年の手によって潰された。
『――良いよ、ついてく』
滝夜叉丸は己を見上げた真っ黒な瞳を見つめ返し、自分はいつかこの黒い瞳に報復を受けるだろうと思った。
滝夜叉丸は〈小平太〉を連れて、方々を歩き回った。子どもを連れての道行きのため、歩みも鈍くなる。しかし、滝夜叉丸はそれを不快には思わなかった。元々子どもが好きなのかもしれない、と思ったのは、体育委員会で下級生たちを可愛がった記憶からだ。彼らも似たようなものだった、と思えば〈小平太〉に煩わされることも大したことには思わない。
しかも、〈小平太〉は普通の子どもよりずっと大人びているため、驚くほど手のかからない子どもだった。人に何かをしてもらうような経験がまずない所為か、人の手を借りることをまずしない。何でも自分ですることが当たり前で、逆に頼るべきことも知らなかった。
そんな彼に滝夜叉丸は人の道を教え、文字を教え、学を教えた。食事をしっかりと与え、運動させることで身体も鍛えさせた。元々掏りとして生きてきた〈小平太〉である、身体は丈夫で食べさせれば食べさせるだけ大きくなる。次第にすくすくと育つ〈小平太〉を、滝夜叉丸は更に鍛えた。自分が体得した武術の一部を護身術として教えたり、逆に和歌を詠むことを覚えさせたりもした。
そうして過ごすうちに〈小平太〉は滝夜叉丸に懐くようになり、次第に甘えることも覚えた。そうなれば年相応の子どもに戻り、滝夜叉丸を慕うようになる。膝に乗せたり、抱き上げたり、背に負ったり。滝夜叉丸は彼が子どもであることを怒ることはなかった。彼との関わりはまるで忍術学園でかつて過ごした日々を思い出させ、それが滝夜叉丸にとっては泣きたくなるほど幸せな日々だったからだ。
けれど、そんな滝夜叉丸も〈小平太〉に唯一許さないことがあった。――髪に触れることである。
いつの間にか長く伸びた髪は腰の近くで切り揃え、端の方でひとつに結わえてある。まるで女子のような髪型だが、滝夜叉丸は特に気にしてはいなかった。既に彼の身体は大きく成長し、男以外の何物にも見えなかったからである。また、忍術学園に情報を流す時には女装したり変装したりもできるため、この髪型は重宝しているのだ。
滝夜叉丸の長い黒髪は〈小平太〉も気になっているらしく、何度か引っ張られたこともある。が、髪を引くまでは許しても、髪に意志を持って触れることは絶対に許さなかった。
さすがの〈小平太〉もそれには違和感を持ったらしい。けれど、それを直接尋ねることは憚られたか、彼は遠回しにこう尋ねた。
『ねえ、兄さん。何で俺を拾ったの?』
兄さん、というのは、滝夜叉丸がそう呼べと告げたからである。初めにおじさん、と呼ばれた記憶は胸の痛みと共に残っており、けれど師匠や先生と呼ばせる人間でもなく、最終的にそこへ落ち着いた。〈小平太〉は滝夜叉丸の膝の上で火に当たっており、彼はちらちらと動く炎を見つめながら身体を固くして滝夜叉丸の答えを待った。
『――お前が、「小平太」だったからだ』
『こへいた、だったから……?』
己を見上げる〈小平太〉に、滝夜叉丸はついにこの時が来たな、と思った。いつかは知られる事実だったが、その時が来れば自分で話したいと思っていたのだ。だから、そういう意味ではまさに絶好の時宜だった。
彼は〈小平太〉に、自分が以前小さな学校に居たこと、そこで恋をしたこと、けれどその想い人をこの手で殺したことなどを淡々と語った。語れば語るほど、当時の自分がどれだけ愚かで子どもだったかを思い知って、ひどく胸が痛くなる。けれど、その痛みすらも愛しいほどに滝夜叉丸は小平太を愛していたのだ。
対する〈小平太〉はその話を聞いて、どうして自分が滝夜叉丸に拾われたのかを思い知った。――ただ、「小平太」という名前だけだったのだ。それ以外に意味はない。もし、彼が「太郎」や「善蔵」などという名前だったら、きっとこの美しい男は財布を取り返して終わりだっただろう。そんなに滝夜叉丸が善人ではないことは、〈小平太〉自身もよく知っている。
『そう、なのか……』
『……ああ。お前が思っているほど、私は優しい人間ではない』
『それは知ってる』
『そうか』
滝夜叉丸はそれでも〈小平太〉を膝から下ろすことはない。背中から伝わる彼の熱は温かく、〈小平太〉を夜露から守ってくれた。その優しさが紛い物でないと知っている分だけ、〈小平太〉は己が選ばれた理由を悲しんだ。けれど、その悲しさが何から生じるものなのか、それはまだ彼には理解できなかったのである。
それから〈小平太〉はまた上手く滝夜叉丸に甘えられなくなった。
けれど、滝夜叉丸はそれをどうするつもりもなかった。――彼はもうすぐ十歳。滝夜叉丸たちが選択を迫られた歳になる。そして、滝夜叉丸も彼に同じことを迫ろうとしていた。
『お前もそろそろ十だな、〈小平太〉』
『それがどうしたんだよ』
『……そろそろ、お前の将来を決める時が来た。
お前が職人や商人になりたいと言うのならば、しかるべき場所に預けよう。また、神職や僧侶になりたいと言うのならば同様だ。侍になりたいと言うのなら、どこかの屋敷に下働きで潜り込ませる。足軽から自分で出世するが良い。今は乱世だ、力があれば成り上がることもできよう。
ただ……お前がもし、清濁飲み込みながらも正心を持ち、目的のためならば人の誠意を踏みにじる、闇に生きる忍になりたいと言うのならば、私はお前が忍になれる場所を紹介してやる』
滝夜叉丸の言葉に〈小平太〉は目を瞬かせた。以前に彼の話を聞いた時、滝夜叉丸は忍を育てる学校に居たという。それはつまり、〈小平太〉が望むのならば、彼は「忍術学園」に連れて行っても良い、ということなのだ。
〈小平太〉は滝夜叉丸の提示したいくつもの将来の中で、「忍術学園」に惹かれた。――滝夜叉丸が十から育ち、恋を知り絶望を知った場所。今の彼を作るきっかけとなり、「七松小平太」という存在と「滝夜叉丸」を出逢わせた場所。〈小平太〉はその場所を見て、滝夜叉丸を知りたいと思った。
『俺、忍者になりたい。――金も手っ取り早く稼げるし、どうせけちな掏りで終わるところだったんだ。どうせ同じすばしっこさなら、忍者の方が絶対に良いよ』
『辛い道だぞ。生半な覚悟では死にに行くだけだ』
『――死んだらそこまでの人間だったってことだろ。大体、俺だってあんたに拾われなけりゃ今まで生きてたかどうかも怪しいんだし。それにそこに行けば、少なくとも三食と寝床は保障されるんだろう? だったら俺、そこに行きたい』
滝夜叉丸はいっそ清々しいまでの〈小平太〉の言葉に笑った。同時に、胸の奥で小平太へ囁きかける。
(――ねえ、七松先輩。あなたと同じ名前の子どもは、随分と思い切りが良いようですよ。不思議ですね、あなたと似ているところなんて何ひとつないのに、こういうところばかりはまるであなたのようだ)
『……そうか。ならば、明日忍術学園に立つ。学費に関しては私が出してやるから心配するな。
それから、学園では全員名字が許される。お前は「下平」と名乗りなさい』
『しもひら……?』
『私の名字が元々は「平」だった。しかし、今は平の人間ではないから、必要がある時だけ便宜上「下平」という名を使っている。お前もそれを使えば良い。私の〈弟〉なのだから、別に良いだろう。――文句があるなら、自分で考えろよ』
〈小平太〉は滝夜叉丸に伝えられた名字に笑みを浮かべた。それは〈小平太〉が滝夜叉丸に与えられたものの中で、最も嬉しいものである。――何せ、明確に〈小平太〉と滝夜叉丸を繋ぐものなのだ。にこにこと珍しく笑みを浮かべる〈小平太〉に、滝夜叉丸は不思議そうに首を傾げた。
『忍術学園に行くのがそんなに嬉しいのか?』
『いや。でも、嬉しいのは確か。有難う、兄さん』
『……まあ、嬉しいのならば良いが……。明日から歩くぞ。もう寝なさい』
滝夜叉丸はそう言って、彼を抱えながらもう一枚布を被った。野宿にはもう慣れた。火を絶やさぬようにしながら、〈小平太〉の小さな身体を抱きかかえ、滝夜叉丸は眠りを迎える。いつでも眠りは浅く、ともすれば悪夢を見るけれども、それにももう慣れた。それが己の業であり罪なのだと知っていたからだ。
そうして滝夜叉丸たちは翌朝から忍術学園を目指し、歩き出した。
数週間後に二人はその門前へ立ち、何年経ってもかくしゃくとしたままの老人と随分と大きくなった下級生たち――滝夜叉丸が知っている下級生たちはもう全員卒業していたが、そのうちの何人かが教師として忍術学園に残っていたりしていたのだ――に驚きと共に出迎えられた。滝夜叉丸は自分を驚いた顔で見つめる彼らに困った笑みを向け、小さな子どもを彼らに押し出した。
『下平 小平太です。元々は孤児だったものを私が拾いました。――読み書き計算、学園に必要な学問は大体教え込んでありますし、身体も鍛えてあります。後は宜しくお願いいたします』
入学金の入った袋を渡しながら、滝夜叉丸は自分を出迎えた学園長と土井、山田に向かって必要事項を述べる。子どもの名を聞いた途端に彼らの身体がこわばったが、滝夜叉丸はそれにもただうっすらと笑みを浮かべるばかりだった。
『他意はない、と言えば嘘になりますが、あれは名前だけです。元々、あれがそう名乗った。名字は私が今名乗っているものを名乗らせています。
あの方とは、他は何も似ていない。ですから、先生方も何も考えず、ただの新入生として扱いください。もしかしたら私の贔屓目かもしれませんが、決して筋は悪くないと思います』
滝夜叉丸の言葉に彼らはそれぞれ少年の顔を見詰めた。
確かに、顔立ちから何から七松小平太とは全く似ていなかった。小平太は一所に落ち着いていられない性格だったが、この〈小平太〉はどちらかというとかつて土井が世話をしていた――今も勿論縁はあるが――きり丸に似た様子で、実際滝夜叉丸から彼の生まれを聞いて土井は納得したほどである。滝夜叉丸自身も〈小平太〉を小平太と同一視はしていないようで、そのことから忍術学園側も〈小平太〉の受け入れを認めたのだった。
そして、実際〈小平太〉は優秀な生徒だった。彼にはきり丸に近い抜け目のなさと、どちらかというとかつて滝夜叉丸の先輩に居た鉢屋三郎のような明晰さが潜んでおり、〈小平太〉は忍術学園で学んだことを土に水が染み込むがごとく吸収し、めきめきと頭角を現した。滝夜叉丸の目利きは確かだったようだ、と学園の教師たちが噂する中、〈小平太〉は滝夜叉丸がかつて在籍していた体育委員会に所属し、裏々山を駆け巡る。その姿はどこか往年の小平太、というよりは滝夜叉丸によく似ていて、彼らを知る教師たちは何だかひどく切ない気持になったのだった。
〈小平太〉は歳を経るごとにその鋭さを増し、いつの間にか忍術学園随一の忍たまと呼ばれるようになる。自分でそれを誇示することはないものの、その勢いは本当にかつての滝夜叉丸のようで、かつての彼らを知る者は尚更に胸を衝くような思いにさせられる。更に〈小平太〉自身が滝夜叉丸を慕うことで、尚更彼らの間にある複雑な何かを感じ取らずにはいられないのだった。
そうして、〈小平太〉は六年、無事に忍術学園を巣立つまでになった。七松小平太や平滝夜叉丸を知る人間は彼らのように、〈小平太〉にも悲劇が襲うのではないかとはらはらしていたものだが、〈小平太〉は周囲のそんな懸念も飄々とすり抜け、素知らぬ顔で卒業を奪い去った。卒業を得たその足が向かうのは、この六年間〈小平太〉の実家として滝夜叉丸が定住していた街中の粗末な長屋で、彼はある決意と共に滝夜叉丸の許へと駆けたのだった。
「――ただいま、兄さん」
「食事の用意もできてるぞ。今日はお前の卒業祝いだ、少し奮発しておいた」
「うん、ありがと」
駆けた先に居るのは、いつもと変わらぬ滝夜叉丸である。その容姿は歳を取っても衰えることなく、今もまだ美しさを保っている。歳こそ壮年に差し掛かっていたが、髪の長さとその美貌が相変わらず彼を神仙のごとくに見せていた。
「あのさ、話があるんだ」
「食事が終わってからでは駄目か? せっかくの食事が冷めてしまうぞ」
「……じゃあ、先に食べる」
話したいことがあった。けれど、〈小平太〉のために滝夜叉丸が作ってくれた食事を無下にできるほど、彼は大人ではなかった。何より、育ち盛りの青年なのだ、食べても食べても足りないくらいなのである。結局彼が話を切り出せたのは、食事を済ませてしばらく後のことだった。
「あのさ、兄さん」
「何だ」
「――俺さ、言いたいことがあるんだ」
「何だ、さっさとしろ」
「うん。……俺さ、やっぱりあんたのこと好きだわ。あんたが俺を『七松小平太』の代わりにしてても、俺はやっぱりあんたが好きだわ」
滝夜叉丸は〈小平太〉の言葉に内職の手を止めて顔を上げた。〈小平太〉は囲炉裏で燃える炎に照らされながら、滝夜叉丸を見つめている。その瞳の真剣さに滝夜叉丸はかつて同じような瞳で己を見詰めた男のことを思い出しながら、〈小平太〉に向き直った。
「〈小平太〉、私はお前をそういう風に見たことはないよ。――少なくとも、自覚的にお前を七松先輩の代わりにしたことはない。
確かに私はお前が『小平太』だったから拾ったが、そういうことをしたいがために拾ったのではないんだ。ただ、『小平太』という名前の少年を放っておけなかっただけだ。だから、お前がそういうことを気にする必要はないし、恩義を感じる必要もない。
強いて言うならば、お前は神に勝ったのさ。――お前がひとりになるような運命を強いた神に、その名ひとつで私を引き寄せた。私はお前を育てるために与えられた、いわば『天の配剤』なのだろうさ」
しかし、〈小平太〉は滝夜叉丸の返答に焦れたように首を振った。同時に素早い動きで滝夜叉丸の肩を捕え、その身体を押し倒す。不意を突かれた、と言っても見事に引き倒された滝夜叉丸は、彼の成長にただ目を細めた。けれど、特に怒りを見せることもなく続ける。
「例え、お前が今、私を無理に抱いたとしても――私はお前のものにはならぬよ。
〈小平太〉、私はな。……私は、今でもあの方を愛しているんだ。己で殺した、あの方を」
「どうして! 七松小平太はもう死んだんだろう! 死んだ人間なんていつまでも見ていても仕方がないだろう! あんただって、俺が両親を恋しがった時そう言ったじゃないか! 嘘吐く気か!?」
「嘘ではないよ。私もそう思う。――だが、仕方あるまい? 未だに私の前には、あの方を超える存在など現れないのだから。〈小平太〉、お前でもあの方にはまだ敵わないよ。大分良い線は行ってる気もするけどな。
……お前には、可哀想なことをしたのかもしれない。私がお前に何もかも教えてしまったから、お前は子どもではいられなくなってしまったな」
滝夜叉丸が優しく頬を撫でるのに、〈小平太〉は悔しくて仕方なかった。その手が伝えるのは、情愛ではなく親愛。親から子へ、兄から弟へ、彼が求めてやまない、けれども欲しているものとは違う感情である。それが悔しくて悔しくて、〈小平太〉は涙を零す。それを滝夜叉丸の細い指が拭って、彼の頭を優しく撫でた。
「――今日までは子どもで居させてやる。だが、忍術学園を卒業した以上、お前はもうひとりの立派な忍だ。だから、明日からは忍として、大人として生きるのだぞ」
滝夜叉丸はそう告げて、〈小平太〉を抱き締めた。昔は膝に乗せていた子どもが、今は腕を伸ばしても抱えきれないほどの大きさになっている。その成長と時間の経過に滝夜叉丸は感慨深いものを感じ、胸にこみ上げる切ない感情で溜息を吐いた。
(――手放したくない、な)
我儘だと知っていても、滝夜叉丸はそう思った。自分にとって、この小さな〈小平太〉は生き甲斐だったのだと改めて思う。この子どもが居たことで、滝夜叉丸の人生はひどく明るく優しいものになった。それゆえに小さな子どもを手放すのは身を切るより悲しく、辛いことである。忍術学園の教師たちもこんな思いをしながら忍たまたちを送り出すのだろうか、と思い、送り出す前に手放させた自分の業をより深く感じた。
「――〈小平太〉、これだけは忘れないでくれ。お前と過ごした時間は、私が幸せだった時間だ。それだけは本当だぞ」
「それでも、あんたは俺のものにはならないんだろう……?」
「ああ、すまないな」
「……でも、俺はあんたが好きだよ。あんたを手に入れたかった。そのために忍術学園にも行ったんだ。あんたを知りたくて、強くなりたくて、それで行ったんだ。――下平小平太って名前、気に入ってる。有難う」
「そうか、本当は平の名前をくれてやりたかったが、私は勘当された身でな。――お前なら、もうひとりでも生きていけるさ」
「……嫌だって言っても、駄目なんだろうな」
「ああ、さよならだ」
滝夜叉丸が、どんな手を使っても〈小平太〉の許を去る気でいるのを彼は感じ取っていた。そして、多分もう二度と会えないことにも。
これまでの六年間はそれなりに生活感のあった長屋も、今は綺麗に片付いている。これが最後の一晩なのだと、〈小平太〉にもすぐに分かった。それでもそれを認めたくなくて、彼は滝夜叉丸にしがみついた。いつの間にか体格は逆転し、〈小平太〉が滝夜叉丸を抱えている状態になる。その成長が〈小平太〉にとっては嬉しく、けれど悲しいものだった。
(――ああ、あんたはきっと行ってしまう)
急に訪れた眠気に〈小平太〉は滝夜叉丸の覚悟を感じた。己を優しく見下ろす滝夜叉丸の瞳を少しでも長く見ようと目を凝らすも、重い瞼がすぐにその光景も阻んでしまう。暗転する意識の中、〈小平太〉は滝夜叉丸の袖を引いて、子どものように目尻から涙を滑らせた。
「『――行かないで』、か。私も随分慕われたもんだな。……碌なこともしてやらなかったのに」
滝夜叉丸は眠り薬でこんこんと深い眠りに就いた〈小平太〉を見下ろして、その髪を撫でた。己の袖を引く手を優しく解き、布団をその上から掛けてやる。いつの間にか立派な男となった〈小平太〉に、滝夜叉丸は優しく微笑む。
「正直、お前がこの歳まで生きるかどうかは賭けだったんだ。――あの方は私の所為で、お前より少し若くして死んでしまった。けれど、卒業できればもう大丈夫。お前にはあの方の名前と、私が組んだ土台と、素晴らしい先生方によって積み上げられた忍としての知識と経験がある。
だから、お前はもうひとりでも生きていける。――なあ、〈小平太〉。今まで幸せを有難う」
そう小さく囁くと、滝夜叉丸はまとめていた荷物を抱えて立ち上がった。内職は明日の朝に取りに来るはずだから、小平太が応対してくれることだろう。そうでなくても部屋の中に置いておけば勝手に取っていくはずだ。
滝夜叉丸はからりと長屋の戸を開け、夜の闇を歩き出した。月のない夜で、辺りはほとんど見えない。それでも迷わず歩めるのは、四年間とはいえ忍術学園で学んだ知識があるからだ。
「夜は忍者のゴールデンタイム、と言うが……忍者になり損ねの私にとっても、今宵は良い夜だな」
小さく呟いて、滝夜叉丸は夜の闇に溶けていく。
――その後の彼の消息は、誰も知らない。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒