鈍行
▼火の家
滝夜叉丸は小さな溜息を吐いた。――この写本の納期は明日の午後だ。明日の朝までには終わらせなければならない。正午を少し過ぎた頃には忍術学園の誰かがこの庵を訪れる。最近は滝夜叉丸に関わりのあった生徒ではなく、顔も知らぬ新入生がやってくるようになった。その点においては、もう死なないと確証を与えられたのかもしれない。
滝夜叉丸はそこで筆を置き、くつりと喉を鳴らした。――死にたいのは今も同じだ。けれど、今はもう死ぬわけにはいかないことを知っている。滝夜叉丸は生きねばならない。生きて、償う――いや、罰を受けるのだ。あの時から、そう決めたのだから。
「――ふぐー……っ!」
「駄目だ、死なせたりなんかしないよ」
滝夜叉丸は両手足を拘束され、猿轡をされて転がされていた。自殺防止のためである。
小平太の死と、小平太を殺した人間が己であることを認識した滝夜叉丸がまず行ったのは、持っていた苦無で己の喉を切り裂こうとすることだった。傍に居た伊作がそれに気付いたためにその試みは未然に防がれたが、彼はその後もあの手この手でもって己の命を断とうとした。
誰にもその気持ちは分かったが、彼らは同時に誰ひとりとしてそれを認めなかった。特に伊作は苛烈なまでに滝夜叉丸の自殺を阻み、最終的には両手両足を縛り上げて、舌を噛まぬように猿轡まではめてしまったほどだ。まさしく監禁された滝夜叉丸にそこまでしなくとも、と伊作に言う人間もいたが、彼は滝夜叉丸が屈するまで決してその縄を解こうとはしなかった。
故に滝夜叉丸は絶食という方法に出たが、これも伊作によって阻まれている。彼は口を開けなければ鼻からでも食べさせてみせる、と彼に雑炊を流し込んだのだ。
それでも滝夜叉丸はなお己の命を絶つことを諦めなかったが、そこに現れたのは学園長だった。彼の命にて猿轡を外された滝夜叉丸は、伊作によだれを拭われた後に学園長へと向き直る。
「死んでどうするのじゃ」
「私ひとり生きていても仕方がありますまい」
「逃げるのか」
「――逃げてなど!」
滝夜叉丸は低く問われた言葉にいきり立って返した。逃げてなどない、死んで同じ場所に行きたいだけ。――そして、彼の死を償いたいだけ。
けれど、学園長はそう告げた滝夜叉丸を鼻で笑って捨てた。鼻息荒く彼を杖で打ち据えると、学園長は低く低く滝夜叉丸に言った。
「――お主は逃げているだけじゃ。本当に罰を受けたいと思うのならば、お主は生きねばならぬ。七松小平太はお主が死んで己に会うことを望んでいない。
お主はただ逃げたいだけじゃ。七松小平太を――愛する人間を殺したという重みから、な」
「わ、わたしは……償わなければ……」
「その償いは、生きていてはできぬものか? 儂はむしろ、生きていてこその償いであると思うがな。
――滝夜叉丸よ、お前は生きてもがき苦しめ。この世で地獄を見、その苦しみを生きている限り延々と味わうのじゃ。それこそがお主へ天が与えられる最大の罰であり、お主ができる最高の償いじゃ」
学園長の言葉は己を生かすための詭弁であると分かっていた。それでも、滝夜叉丸は抗うことができなかったのだ。
――それは余りにも真摯に己の生を望む声だった。周囲に視線を巡らせれば、世話になった人間が同じく自分を見つめている。――もう滝夜叉丸は死を追うことなどできなかった。
「――今回はお前か、三之助」
「何か文句でもあるんですか?」
「いや……じゃあ、これを頼まれてくれ。――それと、学園長先生にはその書で写本の仕事はしばらく仕舞にしてもらえるよう、伝えてくれないか?」
三之助はその言葉に疑わしげに滝夜叉丸を見た。――ようやく落ち着いた滝夜叉丸が、また死を望んでいるのではないかと疑ったのだ。それに気付いた滝夜叉丸は、くつくつと喉の奥で笑い、小さく首を振る。
「いや、旅に出ようと思ってな。――ここにいつまでも世話になっているわけにもいくまい。
あの方が見るはずだった光景を見てこようと思う。ついでにあちこちに寄って、情勢でも届けるさ」
「……あんた、どういうつもりなんだよ」
「先輩には敬語を使え。――大したことではないさ。ただ……そう、ここに居ても仕方がないと思っただけだ。
それに、いつまでも私がここに居たところで、忍たまたちを煩わせるだけだ。それならばひとりで気ままに旅でもしてた方が迷惑にもならずに済む」
「迷惑だなんて、そんな……!」
「もうすぐ六年生が卒業だろう? その時期に合わせて私も旅立つ」
緩く笑った滝夜叉丸の表情はどこか寂しげで、既に覚悟を決めた人間の顔だった。引き留めたところで無駄であることを悟った三之助は、唇を尖らせて呟く。
「綾部先輩が怒りますよ」
「――仕方があるまい。それに、あれだっていつまでも私に構っている暇はなかろう」
くつり、と笑う滝夜叉丸は美しい。〈あの時〉から高く結われず、背中に流されたままの髪が彼をどこか性別のない存在――神仏か、はたまた仙か――に見せる。思わず瞠目した三之助に気付かず、滝夜叉丸は続けた。
「三之助、この世は『火宅』とも言うのだそうだ」
「何ですって?」
「『火宅』、火の家のことだ。先日、法華経を写経していて出てきた。この世は燃え盛る家のごとく迷いや苦しみに溢れているのだそうだ。
――三之助。私はな、その燃え盛る家に出て行こうと思うのだよ。この場に居る限り、私は学園長先生や、先輩方や、お前たちに守られている。でも、それではいつまでも変わらない。私は変わるべきだ。――あの方を殺したままの滝夜叉丸で居てはならないのだ」
「……先輩……」
三之助が茫然と己を呼ぶのに対し、滝夜叉丸はどこか呆れたように優しく笑った。
「そのように泣きそうな顔をするんじゃない。私はもう死んだりはしないし、便りも寄越すと言っておろう。――あの方の菩提も弔いたいし、あちこちの神社仏閣でも巡るさ。
この写本に関しては、取りに来る必要はない。私がご挨拶も兼ねて学園長先生に自分で届けに行くから。この文だけ、先に学園長先生にお渡ししてくれ」
滝夜叉丸が懐から差し出した文に、三之助は彼の言葉が今さっき考え付いたものではないことを知る。そのことに何だかやりきれなさを感じて、三之助はこの文をいっそ破り捨てたくなった。しかし、そんなことができるわけもなく、彼は震える手でその文を受け取るしかない。そんな彼の葛藤を悟ったのか、滝夜叉丸は忍術学園に居た頃より随分と細くなった手で彼の頭を撫でた。
「もうすぐ四年になるのだろう、いつまでも子供では困るぞ。
七松先輩を失い、私も消えた体育委員会を引っ張っていくのはお前なのだ。――四郎兵衛と金吾、そして新しく入ってくる忍たまたちを導くのはお前なのだ。あいつらを頼んだぞ、三之助」
「――あんたが……そんなこと言うなよ……っ! 俺は、まだ三年なんだぞ! あんたたちが居なけりゃ、体育委員会だってやっていけないのに……!」
「――ああ、すまない」
「馬鹿野郎……! あんたは大馬鹿野郎だ! 今だって本当は苦しいくせに、どうして七松先輩殺したりなんかしたんだ! あんた、苦しい苦しいって自分で苦しくなるのを選んだだけじゃないか! 馬鹿みてえだ!」
「……ああ、そうだな。私は愚か者だ」
「そうじゃない、あんたにそんなこと言って欲しいわけじゃなくて……!」
三之助は次第にぼろぼろ溢れ出す涙を抑えることもできずに、滝夜叉丸を詰った。――多分、小平太を失った時から、本当はこうしたかったのだ。けれど、それよりも更にひどい状態だった滝夜叉丸を見て、彼は振り上げた拳を下ろせなくなった。そうして行き場を失くした拳を、ようやく振り下ろすことができたのだ。
「――三之助、ごめんな。今まで堪えてくれて有難う」
滝夜叉丸は泣いて蹲る三之助の頭をもう一度だけ優しく撫でて、それから彼を庵から送り出した。方向音痴の三之助だが、なぜかこの庵と学園だけは迷わずに往復できるらしい。初めはすわ天変地異の前触れか、と学園でも評判になったが、何のことはない。ただ単に三之助は気を張っていただけなのだ。――小平太を失い、滝夜叉丸を憎めずに気を張っていただけなのだ。
滝夜叉丸は遠ざかる精悍な背中が消えるまで見送った後、肩に掛かった髪を払って庵に戻った。
伸ばしっぱなしの髪はもう結い上げるつもりがない。小平太を殺したあの時から、滝夜叉丸は忍でも、人でもなくなったのだ。男として生きることを止める意味でも、滝夜叉丸は髪を下ろした。本当は頭を丸めても良かったのだが、小平太が美しいと囁いた髪を切るのは惜しかったのだ。――未練がましいと己でも思うが、こればかりは仕方がない。
憎んだわけではない。ただ、苦しみから解放して欲しかった。その結果がこれとはお笑いだが、滝夜叉丸はきっと何度でもあの時間あの場所に立ち返れば同じことをするだろう。もし、小平太が抵抗すれば、その時はもしかしたら、彼の方が壊れていたのかもしれない。だからこそ、小平太は滝夜叉丸を受け入れた。
「――貴方は愚かだ。私など、捨ててしまえば良かったものを」
小さく小さく呟いて、滝夜叉丸は再び文机に向かう。
この写本が終わった後、小さな仏像を彫ろうと心に決めた。それを懐に持って、滝夜叉丸は旅に出るのだ。そんなことを考えながら、滝夜叉丸は今受け取った本を文机で開く。硯に水を入れ、墨を擦りながら滝夜叉丸は懐に収めている小さなお守り袋――小平太の遺髪がそこには入っている――へ服の上から手を触れた。
「けれど、私は貴方に感謝なんかしていません。――本当に私を愛してくださっていたなら、私を引っ叩いてくだされば良かったのに」
自分が理不尽なことを言っているとは分かっていても、滝夜叉丸は呟かずには居られなかった。
小平太の傍は苦しかったけれど、彼が居ない方がもっと苦しい。――なぜ苦しいか理解できるようになるまで、待っていて欲しかった。そんなのは自分の我儘だと分かっているけれど、滝はそう思わずにはいられなかった。
庵の外はもうすぐ春だが、山はまだ雪に閉ざされている。再びしんしんと降り始めた雪を明かり取りから眺めながら、滝夜叉丸は広げた紙の一枚目を墨で染めた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒