鈍行
▼戦場カメラマン
「――これでもう半年、か……」
滝夜叉は日めくりカレンダーの日付を見て小さく溜息を吐いた。彼女の夫がこの家から消えて――正確には取材旅行に行ったのだが――もう半年になる。彼女の夫である七松小平太は新進気鋭の若きカメラマンなのだ。しかし、取材旅行と言えども、風光明媚な景色を取りに行ったのでは決してない。彼女の夫は、戦場や紛争地帯の光景を主な撮影対象にする、いわゆる「戦場カメラマン」と呼ばれる存在なのである。
滝夜叉は焦れたように溜息をついて、先程破り取ったカレンダーの断片を丸めて捨てた。これを買った時はまだ小平太も傍に居て、二人で結婚生活のあれこれを語り合ったものだ。それが今ではどうだろう。
――辺境で紛争が起きた、という一報がもたらされた時、小平太はすぐさまにカメラ一式とちょっとの荷物、そしてパスポートを持って飛び出した。当然だ、彼はそういった光景を撮影し、世界にその凄惨な現実を知らしめるためにその職業に就いたのだから。
けれど、それにしたって滝夜叉にただ「行ってくる!」と言い捨てるだけで家を飛び出すなど、どう考えても有り得ないだろう。恋人の時も似たような状態ではあったが、メールでも電話でも落ち着いて意思疎通をするだけの余裕はあった。けれど、夫婦になった途端にこの有様。これならば、恋人同士であった時の方が余程マシだった。少なくとも、二人の形が整っていなかった分だけ小平太にも気遣いがあったのだから。
「未だに電話ひとつ寄越さないし……!」
来たのは数か月前に届いた葉書が一枚。それも、煤けた青空を撮った写真で、写真にそのまま切手と住所を書いた揚句、写真の表面に「愛してるよ 小平太」とだけ記されたものだ。他にも言うことがあるだろう、と滝夜叉はその写真を手に脱力してしまった。生きているとか、無事でいるとか、変わりないかとか、自分の無事を伝える言葉だとか、滝夜叉の生活を気遣う言葉だとか、とにかく滝夜叉が欲しかったのはこんな愛を伝える言葉ではなくて、確実に小平太と己を繋ぎ合わせる言葉だったのに。
小平太の遣りようが余りにもひどくて情けなくて、滝夜叉は思わず写真を手に泣いた。新婚の妻を放って戦場に行くなんてどこの馬鹿だ、と思い切り罵りながら、滝夜叉は涙を流した。けれど、その涙の根底にあるのは小平太が少なくとも葉書を出せる場所に居るということ、何よりこんな馬鹿な葉書を送れるだけの状態――無事に生きているという安堵である。
何より、こんな馬鹿げた葉書――正確にいえば葉書ですらない――だけでほだされかけている自分が情けなくて滝夜叉は泣いた。妻である自分はもっと小平太に文句を言っても良いはずなのに、言える機会がまずない。相手が傍に居ないのだ。本当ならばこの場で泣いている滝夜叉を慰めるのは小平太の役目なのに、この男はその役目を簡単に放り出して遠い異国の地へ飛んで行ってしまった。何より、この涙の原因がまず小平太である。この時点でもう夫としてどうしようもないとしか言いようがない。滝夜叉はそんな男のために泣いている自分がまた悔しく、腹立たしくて泣いた。
それから更に数カ月はまた写真どころか消息すらも掴めず、今日も滝夜叉はひとりで生きている。時折、情報通である小平太の友人たちが気を使って、彼が多分無事であると連絡を寄越してくれる。逆に言えば、その連絡がなければ滝夜叉は小平太が無事かどうかすら分からないのだ。安否を教えてくれる彼らには笑んで礼を伝えてはいるものの、滝夜叉の中で降り積もった鬱憤は既に限界に達している。後何かひとつでもきっかけがあれば、降り積もったそれが爆発するだろうな、と滝夜叉は我がことながら考えていた。
けれど、彼女が予想するよりも早く、その時期は訪れたのである。
「――ただいまっ! 滝、お腹空いた!」
「…………小平太、さん?」
バン、とこの半年自分以外にほとんど開けることのなかった玄関がぶち開けられた。ぶち開ける、という言葉に相応しく、その扉は力一杯壁に叩き付けられている。偶々滝夜叉の家に遊びに来ていた喜八子と滝夜叉は、唐突に表れた男に揃って目を丸くした。信じられずに夫の名を呟く滝夜叉に、小平太は最後に逢った時よりずっと日に焼けた笑顔を向けて彼女に抱き付こうと歩み寄った。――が、その抱擁はバチン! と鋭い音によって阻まれる。
小平太は何をされたか分からずに一瞬固まるが、その後にびりびりと痺れた頬の感覚で頬を張られたのだ、と気付いた。愛しい妻にそんなことをされると思っていなかった小平太は頬を抑えて固まり、大きく目を瞬かせる。しかし、久し振りに帰ってきた愛しい夫を迎えたはずの滝夜叉は、感動の再会どころか般若のような表情で小平太を睨み据えた。
「あなたは……よくもまあ、そんな平気な顔で私の前に帰って来られましたね! 勝手に行ったと思えば、勝手に帰って来て……! もうあなたの顔なんて見たくありません! 出て行ってください! どこかへ行って帰って来ないで!」
「ちょ、滝、私の家はここ……!」
「そんなの知りません! 第一、ローンも光熱費も払ってるのは全て私ですっ! 家主は私、あなたは居候! 家主が出て行けって言ってるんですっ!」
「頭金とかは私も払った……!」
「問答無用!」
滝夜叉が手近にあったものを小平太に投げつけた。それが食器であったことに小平太は戦場でもないのに命の危険を感じ、慌てて部屋を退却する。助けを求めて後ろで自分たちを眺めていた喜八子に視線を送ったが、彼女はひどく冷めきった――軽蔑しきった表情で小平太を眺めており、全くこの場を取り持つ気などなさそうだ。興奮した滝夜叉が二枚目の皿を取り上げた時点で小平太は戦場で培った逃げ足を発揮し、猛ダッシュで妻の凶手に背を向けたのだった。
「……滝、すっきりした?」
「するわけないだろうっ!」
「だろうね。とりあえず、動かないで。掃除機持ってくるから」
喜八子は肩で息をする友人に声をかけ、静かに立ち上がる。けれど、その途中で聞こえた嗚咽に足を止め、踵を返して彼女の許へ立ち戻った。
滝夜叉は先程の勢いはどこへやら、ぼろぼろと大粒の涙を零している。白い腕が何度もその涙を拭うが、その涙は枯れることがない。喜八子は結婚前より少し細くなった肩を抱けば、彼女は喜八子の肩に頭を押し付けて泣いた。
「――良かった……生きてた……!」
「うん、そうだね」
「……もう駄目なんじゃないかって、何度も思ったんだ……もう二度と戻って来ないんじゃないかって……」
「うん」
「でも、生きてた……! 神様、有難うございます……!」
滝夜叉の言葉に喜八子はただ相槌を打った。彼女は他の言葉を欲していないと知っていたからだ。けれど、今の滝夜叉を泣かせてやれるのは喜八子しか居ない。そのことに彼女は今し方追い出された小平太に対してある種の優越感を感じながら、己の腕の中で涙する友人を抱き締めた。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒