鈍行
▼今日も明日も
「――では、今日は裏々山までランニングだー! いけいけどんどーん!」
七松 小平太の音頭に体育委員会の面々が力なく腕を上げた。常に「いけいけどんどん」で突き進む委員長に対し、まだまだ正常の域を出るには至らない体育委員たちは振り回されっぱなしなのだ。
更に彼らの中にも問題がちらほらと。三年の次屋 三之助は無自覚な方向音痴であり、道に出れば必ず迷うという徹底ぶり。二年の四郎兵衛と一年の金吾はまだ体力がなく、小平太のペースについて来られず必ず途中で脱落する。四年の滝夜叉丸だけは意地で何とかついて行くものの、後ろを振り向かない委員長の代わりに下級生の面倒を見なければならないのだから苦労は二倍三倍だ。その苦労を全員が(次屋は無自覚であるが)分かりすぎるほどに分かっているので、彼らは既に表情が暗い。唯一元気な小平太だけが、腕を振り上げて楽しそうに走り出していく。その後にうんざりとした表情で下級生たちが続いた。
一刻二刻も走れば、次第に数が減ってくる。まずはじめに三之助が道を外れ、それを追おうと滝夜叉丸が動けば金吾が限界で潰れる。慌ててそれを回収しようと戻れば、今度は四郎兵衛までが崩れ落ちる始末。仕方なしに三之助を追うのを諦め、滝夜叉丸が二人を抱えようと腕を伸ばし――そこで常に歯噛みする。
重いのだ。特に意識を失った人間は。一年生と二年生は軽いとはいえ、それでも滝夜叉丸の手に余る。四年生だから力が足りないのではなく、根本的な問題として腕力がないのだ。何故ならば、滝夜叉丸は彼らとは違い女性だからである。
忍術学園は以前、女子の入学を基本的には認めていなかった。今でこそくのいちの志望者が増えたとはいえ、昔はまだ認知度も低く、何より過酷な忍の修行に女が耐えられないと思われていたからだ。それゆえに忍術学園も男子にのみ門戸を開き、女子は表向きは受け入れていなかった。――表向きは。
しかし実際には毎年、一学年にひとりから二人ほどの女子入学者がある。それは家庭環境などの特殊な事情によってやむなく全寮制であり、生きていく術を得られるこの学園に連れて来られる者であったり、逆に己が身上を憂いて、自ら忍術学園の門戸を叩く者であった。滝夜叉丸は後者で、元は名門貴族で武家のお姫様だったのだが、実家に居ても先はないと早くに腹を決め、忍術学園へと入学した。
勿論、女子としての入学は認められないため、入学時に男名をもらい、他の生徒たちと全く同じ条件で勉強する。男として生活するだけでも大変だったが、更に慣れない忍術の修行に団体生活、過酷な環境で彼女は日々逞しくなっていった。
その理由のひとつとして、滝夜叉丸の負けず嫌いと矜持の高さが挙げられる。とにもかくにも自分に対する過剰なまでの自信があり、何でも一番でないと気が済まない。それゆえに彼女は他の並居る男たちを蹴散らし、女だてらに学年ナンバーワンを張っているのだ。そのためには大変な努力が必要だったが、自分が一番になるためならどんな努力でも惜しまない。それに比例して体力もかなりのものになったのだが(ただし、これは半分以上が体育委員会によるものである)、どうしても腕力だけは男に敵わないことが多かった。
「くっそ……」
思わず悪態が口から洩れる。金吾を胸に抱えつつ、四郎兵衛を背中に負う。消えた三之助のことが気になったが、誰もついて来ないと分かればあのいけどんな委員長も戻ってくるだろう。滝夜叉丸はそう考えながら立ち上がろうとして――潰れた。
彼女とて彼らと同じだけの距離を走ってきており、それなりに体力も消耗している。潰れるほどではないにせよ、子ども二人を抱えて歩けるほど万全の体調ではない。元より力が弱いため(それでも同年代の女子とは比べ物にならないほど強い)、疲れている今の状況では逆に抱える方が無理というものだ。
「――仕方ない。金吾、すまないがしばらく待っていてくれ」
背中に負った四郎兵衛を下すより、胸に抱えた金吾を下す方が早い。そのために彼女は聞こえてないことを承知で金吾に話しかけた後、四郎兵衛を先に近くの木の根元へと置いた。次に金吾を抱えて、その隣へともたれさせる。汗と泥でぐちゃぐちゃになった二人の状態を確認した後、滝夜叉丸はどうするべきかと考えた。
「……先輩を追うのが早いか、三之助を追うのが早いか……」
「それなら無用! 私は既にここに居る!」
金吾たちを放っておくのも忍びないが、三之助を追わないと取り返しがつかないほど徹底的に迷われる。経験上それを知っている滝夜叉丸は戻ってくるであろう小平太を信じて二人を置いて三之助を追うか、それとも安全を確保するために一度小平太を呼びに行って、それから三之助を呼びに行くべきか迷った。しかし、その答えを出すより早く、頭上から声が届く。ハッと滝夜叉丸が顔を上げると、木の上からひらりと舞い降りてくる小平太の姿。度肝を抜かれて目を見開く滝夜叉丸に、小平太は明るく笑いかける。
「金吾たちは潰れちゃったんだなあ! まだまだだな、もっと鍛錬をしなくては!」
「貴方と金吾たちを同列に並べないでください! 二人はまだ一年と二年なんですよ、体力もないに決まってるじゃないですか! ――って、そんなことより、二人をお願いしても良いですか? 三之助が消えてしまったので、探しに行かなくては……」
しかし、論点がずれまくっている小平太に滝夜叉丸はがっくりと肩を落とす。どんなに強く言ったって、彼は聞きはしないのだ。既にそれは分かりすぎるほどに分かっているのだが、だが言わずにはいられない。己の不毛さを噛み締めつつ、滝夜叉丸はハッと消えた後輩のことを思い出す。今もまだ山深くに迷っている彼を探し出さねばならない。滝夜叉丸はまだ意識の戻らない後輩二人を見遣ってから、小平太へと声をかける。しかし、彼女もまたかなりの疲労を負っており、くるりと方向転換しようとしたところでたたらを踏んだ。よろめいたところを小平太に抱き留められる。
「とと……すみません、先輩」
「大丈夫か、滝? お前も休んでろ。三之助は私が探してくるから」
「え、ですが……」
「なあに、いつも滝にばっか頼むのも悪いしな。偶には先輩らしく、ちゃちゃっと三之助を探してくるさ! それに、お前だって疲れてるだろ? 私だってそこまで鬼じゃないさ」
滝夜叉丸はそうじゃなくて、という言葉を飲み込んだ。正直なところ、疲れていて三之助を探すのには骨が折れる。ただ、小平太が三之助を無事に見つけても、そのまま別のものに興味を引かれて帰って来ないのではないかと危惧してしまうのだ。前にも何度か同じようなことがあり、それ以来後輩に関しては滝夜叉丸が一手に引き受けている(というか、引き受けざるを得ない)。本人が言うのだから大丈夫なのだろうか、などと滝夜叉丸が考えていると、前にあった気配が傍らへと滑りこんだ。
「――大丈夫。そんなに私は頼りないか?」
「い、いえ、そんなことは……」
「じゃあ、安心して待っててくれ。すぐ戻るから」
ちゅ、と頬に温かい感触。戯れに触れていく感覚に目を丸くした滝夜叉丸に、小平太はニヤリと笑った。こういったことを許せる関係になったのにはまだ日が浅く、嬉しいというよりも恥ずかしいという感覚の方が強い。顔を真っ赤に染める滝夜叉丸に対し、小平太は軽くウィンクを投げてから姿を消した。
滝夜叉丸はガサガサと枝葉を掻き分ける音を聞きながら、熱くなった頬を押さえて恋しい人を見送る。ドキドキと早く打つ心臓の音が煩わしかった。
「う……」
「金吾、起きたか?」
しかし、後ろから聞こえた呻き声にハッと我に返り、彼女は慌てて後輩に駆け寄った。金吾は自分がまた潰れてしまったことを恥ずかしく思いながら、自分の世話を焼いてくれる先輩の顔を見上げる。その表情が常より違うものであることに気付き、彼は首を傾げた。
「せんぱい……何か良いことでもあったんですか? 何だか嬉しそうな」
「なっ……!? 何もない! それよりも身体はどうだ? 立てそうか?」
金吾の言葉に思わず先程の行為を思い出した滝夜叉丸は顔を朱に染めるも、ごまかすように強く言いきって話題を逸らす。それに金吾は素直じゃない先輩に不思議なものを感じつつ、遠くから聞こえてくる「いけいけどんどーん!」というかけ声に気付いて顔を上げた。
――今日も明日も明後日も、こんな日々が続くことを彼は知っている。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒