鈍行
▼夜の星
「あー……雨うっとうしいなあ」
「あはは、三郎は雨苦手だよねえ」
「苦手じゃないんだ、嫌いなんだよ。化粧の乗りが悪いから」
だらだらと床に寝転がって呟く三郎に雷蔵がくつくつと笑う。もう何年もずっと同室の所為か、今更お互いに取り繕うようなことは何もない。雷蔵は文机に向かって読書を楽しみ、三郎は雷蔵が音読する声を聞きながらゴロゴロと雨がやむのを待っていた。
鉢屋 三郎は学園切っての変装の名人であり、その素顔を知る者は教職員でも数えるほど、ましてや生徒たちなどはほとんど知らないと言われている。そんな彼は常に誰かの顔に変装し、人を驚かすこと、悪戯をすることに情熱を傾けるという、まさに〈才能の無駄遣い〉タイプの人間だ。
「化粧の乗りって……どこぞの奥さんか、君は」
「嫌だな、私にとっては結構重要なことなんだぜ? 雷蔵だって嫌だろ? 自分の顔が醜く崩れたら」
「そりゃ嫌だけどさ、だったら雨がやむまで変装やめたら?」
「それは嫌だ。それなら私はこの部屋から一歩も出ない」
「代わりに何か被り物でもしてれば良いんじゃないかな。ほら、偶に付けてるお地蔵さんとか、仏様とか」
「あれは暑いんだ」
折角提案したにも関わらず全てザクッと切られてしまい、雷蔵は苦笑する。今の三郎の顔は雷蔵のものであったが、自分とは違い上に一枚皮を被っている状態の三郎は確かに暑そうだった。仕方なしに雷蔵は、最後の提案をする。
「じゃあ、せめてもう少し過ごしやすい変装にしたらどうだい? 僕の恰好じゃ暑いだろ」
雷蔵は常に制服をきちんと着なければならない理由がある。それゆえに雷蔵の恰好をするとなれば、どうしても三郎も何枚も着ざるを得ない。その点、他の誰かに変装すれば上着を脱ぐことも可能だし、髪が短い人間であれば首元もかなり涼しくなる。しかし、その提案は三郎には不評だったようで、不満げに唇を尖らせた自分の顔と目が合った。
「ちょっと、僕の顔でそういう表情するのやめてよ。変な気分になるじゃない」
「じゃあ、この顔なら良いのか?」
その一言で三郎の顔が変わる。そのインパクトに雷蔵は思わずその場で身を引いた。
「で、伝子さんはやめてよ……」
「この魅力が分からんとはまだまだだな、雷蔵」
「別に分からなくて良いよ、僕は」
伝子さんの顔を見たくないのか、雷蔵は再び本へと向き直る。再び文章を舌に乗せた時、自分の方へと三郎が寄ってくるのを感じた。振り返るより早く、三郎が雷蔵の背中に寄りかかってくる。
「三郎、重いよ。それに暑いんじゃなかったの?」
「良いんだ、くっつきたい気分だから。――ああ、早くやまないかな」
「僕は雨、嫌いじゃないけどね。何と言ってもお天道様のお恵みだし、それに――」
「雨が降った後の夜空は奇麗に星が見える、だろ?」
言葉を奪われた雷蔵はきょとんと三郎を振り返る。彼はひどく楽しげにその表情を見上げ、すり寄るように背中から雷蔵を抱きしめた。
「雷蔵のそういうところ、私は好きだな」
「またまた、おだてたって何も出ないぞ」
雷蔵は自分の腹部に回る手にこそばゆさを感じながら、くつくつと笑った。少しだけ体重を三郎に預け、彼を見やる。今はもう雷蔵の顔に戻っているが、やはりぷつぷつと汗の玉が額に浮いていた。
「三郎、諦めて化粧落としたら? それで、お面でも被ってなよ。ほら、この前お祭りで買ったのがあったろう? それで、上着も脱いで楽になれば良いじゃないか」
「雷蔵は暑くないのか?」
「もう慣れたよ。ずっと同じ恰好してると、どうも身体の方がそれに慣れちゃうみたいで、全然平気になった」
人間の順応能力こそ凄まじいものだと雷蔵は思う。現に三郎がくっ付いてくれば暑いのだが、それでもまだ耐えられないほどではない。半分以上身体が馬鹿になっているのかもしれない、と思いつつ、雷蔵は汗をじっとりかいている三郎から身体を離した。
「ほら、暑いんでしょ? 上脱いで、これで化粧落としなよ」
「うう……雷蔵冷たい」
「三郎がおかしいだけでしょ。ほら、その辺に転がってるなら扇いであげるから」
雷蔵は子どもに言うように三郎へと告げる。それに三郎は少しだけ不満そうな表情を浮かべながらも、結局は雷蔵の言う通りに転がった。濃紺の制服を脱ぎ、前掛けだけの状態になる。畳の冷たさが気持ち良いらしく、彼はしばらくうつぶせのまま動かなかった。そこに雷蔵が近くにあった団扇で風を送り、再び読書を続ける。
それは級友が彼らの部屋に遊びに来るまで続き、雷蔵は三郎を甘やかしすぎだと散々冷やかされたという。
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鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒