鈍行
▼月読 (こへ滝)
「――先輩、もう戻りましょう」
「ええ? もう?」
もう、じゃない! と滝夜叉丸は悲鳴染みた声を上げたくなったが、ここで彼に怒鳴り付けても全く意味がないことを端から理解していたので、心の中で叫ぶだけに留めた。既に空は闇に包まれ、明るい月が高い位置まで昇ってきている。明らかに夜半に差し掛かっていると言うのに、この男――体育委員長の七松 小平太は委員会活動を止めようとしないのだった。
「もう月があんなに高い位置にあります、これ以上は無理です。――後ろをご覧ください。金吾も四郎兵衛も三之助も、もう限界ですよ」
ひとつ下の三之助は自分が間に入っている輪の中で引きずられるような状態になっているし、金吾と四郎兵衛は体力も尽き果てて地面に突っ伏している。体育委員会ではこのような光景も珍しくはないが、それでもさすがに「やり過ぎ」としか言いようがない。
普段は夕食の時間に間に合うように戻る彼らであるが、今日は小平太の興が乗っていた所為なのか、夕食のことなど頭にないように彼は塹壕を掘り続けたのだ。四年生としてそれなりに体力のある滝夜叉丸ですらもう足が笑っている状況で、当然ながら下級生が耐えられるわけもない。日が沈んだ頃からおかしいな、とは思い始めていたものの、すぐに飽きて戻ると言うだろうと高を括って小平太について行ったのがまずかった。彼は全く止まる様子も見せず、今の今まで塹壕を楽しげに掘っていたのだから。
「よく空を見てください。――月があんなに高く昇っています。もう戻らなければ夕食を食いっぱぐれるどころか、深夜になっても学園へ戻れるかどうか。下級生ももう限界です、戻りましょう」
「あれ、いつの間にそんな時間が経ったんだ……? よし、じゃあ戻るか!」
闇が深まるにつれて視界も悪くなっただろうに、そんなことすら気付いていなかったらしい。深い溜息と共にがっくりと肩を落とすと、滝夜叉丸は振り返って屍になりつつある下級生たちに声を掛けた。
「ほら、お前たち起きろ! 学園へ戻るぞ! 委員会終わりだ!」
「やった!」
「ええ!?」
「……!」
滝夜叉丸の声が仏の慈悲に聞こえたのか、三者三様の反応を返す。三之助は思わず本音を吐き出し、四郎兵衛は突っ伏していた顔を思わず上げ、金吾は動かない身体を跳ねさせて応えた。それに滝夜叉丸は苦笑とも取れぬ表情を浮かべ、縄に体重をかけつつある三之助を叱咤し、ぐったりと潰れている下級生たちに手を伸ばした。
――が、彼女が彼らを介抱するよりも早く、第三者の手が彼らを攫う。驚いて顔を上げると、両脇に金吾と四郎兵衛を抱えた小平太が月明かりの下で笑っていた。
「よし、帰るぞ!」
「はあ……分かりました。三之助、起きろ! もう戻るだけだから、踏ん張れ!」
本当は言いたいことが山ほどあったが、何を言っても無駄だと悟っている滝夜叉丸は後ろでぐったりとしている三之助に声を掛けた。先程一瞬だけ復活した心も、身体を襲う疲労感には耐えられなかったらしい。小平太は既に低学年二人を抱えているし、滝夜叉丸は膝が笑っている。第一、いくら四年生とは言え、女性である滝夜叉丸が三之助を抱えて学園まで戻るのは不可能だ。自分たちが入っている縄をぐっと引っ張ることで彼女は三之助を覚醒させ、既に遠くへ進んでいる小平太の背中を追った。
月が綺麗だ、と柄にもなく滝夜叉丸は思う。今日は月が大きく、明るい。夜道を照らす月光のお蔭で、獣道を走るのにも苦労しないのが有り難かった。途中何度も重さが掛かる縄を何度も引き引きしながら、滝夜叉丸は忍術学園への帰路を急いだ。
「――あれ、長屋に戻らないのか?」
「七松先輩」
夕食など入るはずもない下級生たちを長屋まで送り届け、自身も井戸で泥を落とした滝夜叉丸はどこかぼうっと長屋の簀の子に座っていた。月が明るすぎる所為だろうか、何だか動きたくなくてずっと空を見上げていた。空腹なのだが、疲れ過ぎて食べる気が起きない。どちらにせよ、もう食堂の火は落とされているだろうし、同室の喜八郎が握り飯でも用意してくれているはずだ。そんなことを考えていると、一度風呂に行ったのだろう、随分と身綺麗になった小平太が現れた。小平太が烏の行水だとしても、自分はかなりの時間この場に居たらしい。そろそろ部屋に戻るか、と思いながら、滝夜叉丸は簀の子から重い腰を上げた。
「いえ、もう戻ります」
「何だ……月を見ていたのか?」
「ええ。今宵の月は明るいですので、何だかつい目が惹かれてしまって……」
そのまま簀の子に上がると、滝夜叉丸は一度髪を手で梳く。泥を落とした時に髻(もとどり)も解いたのだが、先程から吹いている夜風で随分と乱れてしまっている。まだ足はふらつくものの、少し休んだこともあって立つことに支障はない。傍に寄って来た小平太を見上げると、少しだけ不機嫌な表情をしていて滝夜叉丸は困ったように首を傾げた。
「何か?」
「いや……月に誑かされてるんじゃないかと思って。今日の委員会の時もずっと月を見上げていたから」
「月に? ――ああ、嫦娥ですか? 残念ながら、私は私より美しい女でなければ見惚れたりなどいたしませんよ」
「? 違うよ、月は男だろう?」
小平太の言葉に滝夜叉丸は思わず首を傾げた。しかし、すぐに理解してくつりと笑う。
「月読命の方ですか。生憎と、私は男に余り興味がございませんので」
「ふうん」
小平太の不満はそれでも収まらなかったようだ。おもむろに滝夜叉丸の顔を掴み、ぐいっと自分の傍に引き寄せる。力の強さに彼女の首が変な音を立てたが、小平太は気にしてもいないようだ。ただ滝夜叉丸の瞳を覗き込み、その額を合わせる。
「――私以外の男に見惚れたら嫌だからね!」
「…………はあ?」
「滝の男は私だけ! 他は断固として拒否する!」
何だか論点が明らかにずれている、と思ったが、疲れ切った頭では反論する気力も湧かない。ただ頬に当てられた手のひらが熱かった。
だが、彼の言葉にひどく胸をくすぐられたのも事実。故に滝夜叉丸は頬に当てられた手に己の手を重ねて、少し笑った。
「先輩、首が痛いです」
「あ、悪い」
「――生憎と、私は誰かに誑かされるほど純情でもなければ、物知らずでもありませんもので。それに……」
そこで一度滝夜叉丸は言葉を切った。言うべきか言わぬべきか、少しだけ瞳を揺らして迷う。けれど、ちらりと月を見上げると、少しだけ口元に笑みを浮かべて呟いた。
「――貴方こそ、嫦娥に誑かされることのありませんよう。わたくしとて清姫にならぬ保証はございませんから」
「きよひめ?」
「ご存じないならば、それはそれで。――では、私はこれで」
唐突に月も関係がない女性の名を聞いて、今度は小平太が首を傾げる。そんな小平太に滝夜叉丸はそれ以上何も言わず、一度だけ頭を垂れると四年長屋の方へ去って行った。
――その夜部屋に戻った小平太が、同室の長次に道成寺の伝説を聞いて赤面するのはもう少し後の話。
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【和五_雑】――『03.月読』
鈍行*2008.08.06〜 Written by 緋緒